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矢野修平(背番号66)は時計が午後9時を指すのを待って、隠れていた民家の裏口からそっと顔を出した。フェリー乗り場より北東に進み、小中学校を通り過ぎしばらくいった所にある集落にいた(近くにバス停があるのを見て、矢野は初めて宮島にバスが通っているのを知ったのであった)。
午後六時の放送で告げられた禁止エリアの中に、矢野の隠れていた民家は存在していた。午後十時になればその民家を含めたこのエリアにいる選手の首輪はすべて爆発する。コンピュータが相手らしい。どうしようもなかった。
裏口は、家と家の間の細い路地に面していた。正面の家の壁まで一メートルもないかもしれない。矢野はごつい自動拳銃(コルト・ガバメントモデル四五口径)を握りなおすと両手で保持して、右手の親指でスプリングの重い撃鉄を起こした。辺りを素早く見回したが、路地の左右に人の気配はない。人一人いないというのに等間隔で光る街灯は、いささか不気味なものを矢野に感じさせた。
幸いにしてこの集落は多くの戦闘があった弥山周辺とは離れていたため、矢野が直接銃撃戦を見たり、あるいはその音を聞くことはなかった。しかし、あの入り口に転がっていた遠藤の、河野の死体。そして今までに達川が読み上げた選手の名前。間違いなく殺し合いは続いていたし、誰もが矢野のようにだた隠れているわけではないのだ。チームメイトを平気で殺そうとするものがいる。そして、どこからその誰かが現れるかはわからなかった。
足を踏み出し、隠れていた家の壁沿いにそろそろと右へ進んだ。角まできて南のほうへ顔を向けると、そこは暗闇が支配している。きっと田畑が広がっているか、林になっているかで電灯がないのだろう。そこからゆっくりと山が広がっているのは日が落ちる前に見ていた。とにかく、その山の中まで入ってしまえば当面は安全なはずだ。
矢野はデイパックを肩にかけ直すと、もう一度辺りに視線を飛ばし、それから一気に駆け出して目に入った茂みへ分け入った。銃を両手で構えて左右に向けたが、誰もいない。
そのほんの少しの移動で、矢野はもう肩で息をしていた。この暗闇の中周囲に気を遣うのは予想以上に神経をつかう。しかし、まだ油断はできない。まだ禁止エリアから抜けてはいないのだ。いや、抜けているかもしれなかったが、地面に白線が引いてあるわけじゃないし、引いてあってもこんな夜じゃ見えないに決まってる。とにかく、少し余裕を持って離れておかなければ不気味で仕方なかった。矢野は泣き出したくて仕方がなかった。せめて誰かいてくれたら。矢野の頭に数人の顔が思い浮かんだ。その面々がこのゲームに乗っていないという保証はなかったが、それでも会いたいと思った。みんなは今、この島のどこにいるんだろう。それとも―――それとも、もう―――。
矢野の胸がきゅっと痛くなった。目に涙がにじんだ。アンダーシャツの袖でぐいっと目を拭うと、茂みの中を端まで進んだ。あともう少しは動かなくちゃならない。また拳銃を握り締め、次の遮蔽物を探した。この暗さにも目がだんだんとなれきた。今度は右手の方に背の高い木が何本かまとまっていた。それへ向かってまた一気に走った。小枝で顔を引っ掻かれながら茂みの端へ滑り込み、それからそっと身を起こして辺りに目を配った。茂みの中を全て見通すことはできなかったが、どうやら人の気配はなかった。
矢野は身を低くしたまま、またそろそろと茂みの中を進んだ。大丈夫、ここには誰もいない。そして再び茂みの端へたどり着いた。今度はもう山の影が目前に見えている。少し薄気味悪かったが、身を隠せるのならそのくらいは我慢できた。田舎育ちの本領発揮だ。
ふいに、背後でさっという音がして、矢野の心臓が垂直飛びを敢行した。矢野はさっと姿勢を低くし、コルト・ガバメントを両手で保持すると、背後へ向けてそっと振り返った。ほんの十メートルばかり向こうの木々の間を、ちらっと見慣れたユニフォームが動くのが見えた。矢野の目が恐怖に見開かれた。誰かがいる、誰かが!
矢野は歯を食いしばってその恐怖を抑え込むと、頭を低く下げた。心臓がドキドキとそのリズムを速めた。
再び、がさがさという音が耳に届いた。さっきまでこの茂みには誰もいなかったはずだ。あの誰かは、矢野の後ろからこの茂みに入ってきたのだ。―――どうして?自分を見かけて追ってきたんだろうか?いや、そうとは限らない。単に自分と同じように移動中というだけのことかもしれない。そうだ、自分に気づいてたらまっすぐこっちへ進んでくるはずだ。自分は、気づかれてはいない。それならこのままやりすごせばいい。動かないでじっとしていよう。
またがさっと音がして、その誰かが移動する気配がした。頭を低くした矢野の目に、折り重なった下生えの葉の間から、その影がすっと木の幹の間を動くのが見えた。横顔を見せて、矢野の位置からは右から左へ向けて動いた。ああよかった、こっちへ向かってきてるんじゃない―――。ほっと息をつきかけた矢野は、しかし、がばっと顔をもう一度上げていた。もう、その影は木々の間に隠れて見えなかった。がさがさという音も徐々に遠ざかっていく。
見間違えるはずはない、と矢野は思った。その思いに動かされるようにすっと腰を上げると、音がする方へそのまま中腰で進んだ。数メートル進んで、もう一度生い茂った葉の陰から音のする方を確かめた。狭い視野にユニフォームの影が現れた。そのユニフォームの背番号を確認して、自分が見た人物のそれと一致しているのがわかると、立ち上がって思わず声をかけた。
「大輔!」
その声に、酒井大輔(背番号67)は一瞬びくっと体を震わせたように見えたが、ややあってゆっくりと体を振り向かせた。酒井の目が見開かれ、ほんの一瞬酒井の顔に暗い影が落ちたような気がしたが、それは勿論矢野の錯覚だったに違いない。すぐに、その顔に笑みが広がった。
「修平―――」
「大輔!」
矢野はデイパックを担ぎ、ガバメントを右手に提げたまま、酒井に走り寄った。自分の顔がくしゃくしゃになり、目に涙がにじむのがわかった。
「無事だったんだな、心配してた」
酒井が笑みを浮かべたまま言った。
「俺もだよ、本当によかった」
「なんか、すごい偶然だな」
「うん。ほんと。もう二度と会えないと思ってた。こんな―――こんな酷いことになって」
でかい体をして子供のように泣きじゃくる矢野を見て、困ったように酒井は矢野の背中を軽く叩いた。
「ほら、もう大丈夫だから。いつも泣いてるじゃないか、お前は。これから一緒に行動しよう」
酒井の言葉は力強く、矢野はますます涙があふれ出るのを感じた。今まで抱いていた恐怖心がうそのように消えていた。
「今まで…今までどこにおったと?」
「あそこの家。でもなんか禁止エリアなんだろ、もうすぐ」
無論の事酒井は深刻な表情だったが、矢野はおかしくなった。すぐ近くにいたのだ、ゲームのスタートから今までどこにいるのかと思っていた仲間がほんの目と鼻の先にいたなんて。
「俺も家の中に隠れてたよ。すごい近くにいたのかもしれんね、俺たち」
それで、二人はちょっと笑った。気がつけばこのゲームが始まって以来笑ったことなどなかった。昨日までは気づかなかった、笑えることの幸せを、矢野はささやかながらも感じていた。
ふと酒井の視線が矢野の右手に落ち、それで矢野は自分がまだ拳銃を握っていたことに気づいて苦笑いした。
「はは、忘れてた」
「いい武器じゃんか。俺なんか、これだからな」
そう言って酒井は手にしたものをみせた。矢野はそんなものに全然気づかなかったのだけど、よく見ると何だか古道具屋で売ってそうな短刀だった。握りに巻かれた糸は擦り切れ、小判型のつばには緑青が浮いている。酒井が刃を少し抜き出してみせると、刀身にも点々とさびが広がっていた。酒井は刃を収め、ベルトにそれを差し込んだ。
「それ、ちょっと見せてくれ」
酒井が言い、矢野は拳銃の銃口を横へ向けて、酒井の方へ持ち上げた。
「大輔、それもっとく?俺だとなんかうまく使えそうにないんだよな」
酒井は頷き、コルト・ガバメントを受け取った。グリップを握り、安全装置を確かめる。撃鉄はまだ起きたままになっていた。
「弾、あるか、これの?」
もちろん銃の弾倉はもう装弾数いっぱいに弾が込めてあったけれど、矢野は頷いてデイパックを探り、弾の入った紙箱を酒井に差し出した。酒井は片手でそれを受け取ると親指で蓋を弾いて中を確かめ、それから自分の学生服のポケットに押し込んだ。
次の瞬間、矢野はわが目を疑った。一体それがなんであるのかそもそも理解できず、ただ、あたかも何か不思議な手品でも見るように、酒井の手元をじっと見ていた。酒井が自分に向けて、そのコルト・ガバメントをすっと構えていたのだ。
「……大輔―――?」
それでもまだそこにぼっと突っ立っていた矢野から、酒井の方が後ろへ二、三歩さがった。
「大輔?」
もう一度言った矢野の頭に、ようやく、酒井の顔がいつもと違うという自体が認識された。太い眉、自分よりかはぱっちりとした目、分厚い唇。パーツは同じだけれど、歪めた口元に歯がのぞいたその顔は、矢野が見たこともない顔だった。その歪んだ口元から言葉が流れ出した。
「行けよ。さっさとどっかへ消えちまえ」
矢野は一瞬、酒井が何を言ったのか分からなかった。苛立ったように、酒井が続ける。
「早くどっかへ行っちまえって言ってんだ!」
「……どうして?」
また泣きそうな顔をして呟く矢野に、酒井の苛立ちが強まる。
「お前みたいなとろいやつと一緒にいられるかってんだよ!早くいけよ、ちくしょう!」
最初はゆっくりと、しかし次第に加速するように、何かががらがらと矢野の中で崩れ落ち始めた。
「どうして…俺、俺なんか悪いことでもしたか?」
酒井は銃を矢野に向けて構えたまま、顔を傾けて地面に唾をぺっと吐いた。
「笑わせるな。お前はいっつもそうだよな。なんかあったら泣けばいいとでも思ってるのか?練習中とか影でうじうじ腐った女みたいに泣いてるの、はっきり言ってかなりうざかったんだよ!お前みたいなやつと一緒にいたら俺の足を引っ張られちまう。こんな糞みたいな騙しにさえひっかかるんだから、お前、やっぱり、とろい」
矢野は口をぽかんと開けて酒井の顔を見ていたが、やっぱり無意識のうちに涙がこぼれ出た。
「そんな、そんな…」
「だからそういうのがうざいって言ってんだよ。いい加減にしろよ!」
何かに衝き動かされて、矢野はだっと酒井の方へ走った。もう酒井の言葉を聞きたくなかったからかもしれないし、酒井が自分に銃を向けているという事実が受け入れがたかったからかもしれない。
「やめて!お願いだからやめてくれ!!」
矢野はそう泣き叫びながら、酒井の手にしている銃をつかもうとした。酒井はすっと体を躱し、矢野を突き飛ばした。デイパックが肩を離れて左手の方に落ち、矢野は背中から草の上に倒れこんだ。すぐに、酒井がその矢野の上にのしかかった。
「何しやがるんだ、ちくしょう!俺を殺すつもりなんだな!だったらここで殺してやる!」
酒井が銃を矢野に向けて構え、矢野は必死になってその酒井の右手首を両手でつかんだ。すぐに、酒井が銃を握っている自分の右手に左手を添えた。ぎりぎりと酒井の手が下がってくる。自分の額へ!矢野はざあざあと自分の血がひく音を聞いた。矢野は両手をつっぱり、必死で叫んだ。
「大輔!やめろ!冗談はよせ!」
酒井は何も答えなかった。矢野を見下ろす目が血走っていた。機械のように単調な力と動きで、その腕が下がってくる。その様が矢野にはスローモーションのように見えた。
矢野の、哀しみと恐怖に引き裂かれた心の隙間に、ふっと思考が入り込んだ。
何もかも分かった。分かりたくはなかったけれど、自分にとって友人だと思っていた酒井は幻だったのだ。でも―――でも、それは素敵な幻だった。酒井と一緒にいて、練習して、遊んで、飲んで、二人でカープを引っ張っていける投手になれると思った。その幻を与えてくれたのは、どうあれ酒井だったのだ。酒井がいなかったら自分はその夢を見られなかった。ああ、あの自分が一軍で初めてのマウンドを踏んだ日の、市民球場のシャワールームで酒井がいった、“来年は開幕から一緒に1軍にいような”という言葉はうそじゃなかったと思う。
―――信じていた。
矢野は、ふっと力を抜いた。酒井がちゃっと矢野の額に向けて銃を構えた。その指は、すぐにも引き金をひくだろう。矢野は酒井を見つめて、静かに言った。
「ありがとう、大輔。俺、大輔と野球できて、幸せだった」
酒井の目が何か大事なことにようやく気づいたというように丸くなり、その動きが凍りついた。
「いいから、撃て」
矢野はにこっと微笑んだ。酒井の手が、矢野に銃をむけたままぶるぶる震え始めた。
「修平―――」
かすれた声で酒井が呟く。酒井の目が後悔と自責の色合いをうっすら帯びてきたような気がした。―――ああ、わかってくれたか?大輔、本当に?
かつっ!という小気味よい、しかしどこか湿った、無気味な音が響いた。濡れた床にかかとを打ちつけるような音だった。そしてそれとほとんど同時に、酒井の右手指が引き金をひいた。もっともそれは彼の意志ではなく、単に痙攣だったのだけど。ばん、という爆竹のような撃発音に矢野は思わずひっと声を上げたが、銃口は既に矢野から外れており、弾丸は矢野の頭の上、草の生えた地面に突き刺さった。力を失った酒井の上半身が、ゆっくりと矢野の体の上に折り重なった。酒井はそれきり、ぴくりとも動かなかった。慌てて酒井の体の下からでようとした矢野の目に、その酒井のユニフォームの肩口の向こう、笑顔が見えた。同期入団、同い年の東出輝裕(背番号2)がそこにいた。矢野には何が何だかわからなかった。ただ、東出の懐中電灯の光で照らされた彼の口元に浮かんだ笑みが、感情を示さない冷たい視線とアンバランスで、矢野は心の底からぞっとした。とにかく、その東出が「大丈夫か?」と言って矢野の手を握り、矢野を酒井の体から引っ張り出した。生い茂った植物の中、矢野はよろけながらも立ち上がり、そして見た。酒井の後頭部、酷く鋭利なカマ(カマ!将来農業で生計を立てたいと真剣に考えていた矢野がカマを知っているのは至極当たり前の事だった)が深々と埋まっているのを。
東出はそのカマをとりあえずうっちゃって、酒井の右手の中のコルト・ガバメントを奪いにかかっていた。筋肉が引き攣り、ひどくこわばったその指を一本一本引きはがし、ようやくそれを手中に収めると、にやっと笑った。
矢野はただ、酒井のその今は魂の入っていない体を見下ろして、がくがくと震えていた。がくがく、がくがくと。震えながらも矢野の視界に入ってきた光景は、とてもこの世のものとは思えない光景―――東出が酒井の後頭部に刺さったカマに手をかけ、それを抜き取ろうと両手で柄を握って、ぎりぎりと揺すっていたのであった。酒井の頭がそれにあわせて揺れていた。
「うわああああああっ!」
声を上げ、矢野は東出を突き飛ばしていた。東出は草の間にどん、としりもちをついた。矢野は東出にお構いなしに酒井の体に覆い被さった。頭からカマが生えている、その体に。矢野の目からぼろぼろ涙がこぼれ落ちた。そのカマはこう告げていた。揺さぶったって生き返らないぜ。揺するなよ。カマが刺さってんだぜ、痛むじゃんか。
矢野の胸の奥から感情の大波が何度も押し寄せる。涙にあふれた目で、矢野は傍らにいた東出をきっと睨みつけた。睨み殺してやるつもりだった。今自分がどんなゲームに参加していて、誰が敵なのだとか味方なのだとか、そんなことはもう矢野の頭から吹き飛んでいた。そうだ。憎むべき敵がいるのだとしたら、それは自分の仲間を、友人を目の前で平気で殺した東出輝裕だった。
「何で殺したんだ!何でだ!何で殺さなきゃいけなかったんだ!」
東出は不満そうに唇を歪めた。
「お前。殺されかけてたんだぞ。助けてやったんじゃないか」
「うるせえ!大輔はわかってくれた!俺の事をわかってくれた!殺してやる!俺が、お前を殺す!大輔は俺の事をわかってくれたんだ!」
東出は首を振って肩をすくめると、すっとガバメントを矢野に向けた。矢野の目が見開かれた。それで、矢野はもう一度、乾いた爆発音を聞くことになった。額の上に激しい衝撃が伝わり、それだけだった。矢野はかつての仲間である酒井の方にどさっと倒れ込み、もう動かなかった。四五口径の鉛弾で頭の後ろ側が半分なくなっていた。それでも口は残っていて、何か叫ぼうとするように開いており、その端から血がゆるゆると流れ出した。酒井のユニフォームの上に流れ、赤い染みを広げた。
東出はまだ銃口から煙を噴いているコルト・ガバメントを下ろすと、もう一度肩をすくめた。矢野ならちょっと鈍いところはあるが、それでもしばらくの弾除けくらいにはなると思ったのだが。
それから、言った。
「そう、わかってくれたんだろうね」
上半身を屈め、半分欠けた矢野の頭、耳元に口を近づけた。笑みが浮かんでいたのに、東出本人は気づいていたのだろうか。
「お前を殺すのをやめそうになってたから、俺が殺したんだ」
東出はそれだけ言って立ち上がると、再び酒井の頭からカマを抜き出しにかかった。

【残り36人】


真っ暗闇の中、一筋の懐中電灯の光が動いている。ゆっくりとしたスピードながら、それは確実に山を降りていた。光があるといっても、それはほんの少しの範囲しか照らすことが出来ない。すぐ近くの木からドングリの実が落ちる、そのほんのわずかの音でさえ、この状況では心臓がフライングしそうな程の衝撃を心に与えていた。
ふいにその光を藪の切れ目にある何かが撥ね返した。誰かの懐中電灯の光かと思って少々焦ったが、そうではなく、それが動くものではないとわかるとゆっくり近づき、その正体を確認した。―――どこの家にもありそうな包丁であった。普通山の中にこんなものが落ちているはずはない。誰かが落としたのか?…いや、大事な武器を落とすわけはないだろう。となると、ここで何かが起こって、この包丁の持ち主が消え、武器だけが取り残された。そういうことになるだろう。
その包丁を手に取り、野村謙二郎(背番号7)は自分のデイパックの中に入れた。あまりいい話ではないが、なにかあった時のために武器は一つでも多いほうがよかった。辺りに持ち主も転がっているかと思い、持っている懐中電灯の光を動かしてみたが、それらしいものは見当たらなかった。この持ち主を殺った誰かが、死体だけ移動させたのかもしれない。武器には気づくことなく。
とりあえず同じ場所に長時間いることもない、そう思って野村は再び山を降り始めた。自分が移動している場所は簡単な階段になっている。やや急ではあるが、茂みの中に比べれば歩くのにはとても楽だった。もっとも、障害物がないために誰かに見つかったらひとたまりもなかったが。
夜の移動は危ないような気がしたが、野村はあえてそれを選択した。夜の移動の危険性を考えるなら動かないのがセオリーだ。なら他の選手も同様に動くことはないだろう。だったら多少危険でも今動いたほうが、他の選手には会わないで…戦わないですむのではないだろうか―――そう思って野村は今、動いているのであった。実際、叫び声や銃弾などの怪しい物音を聞くことはなかった。昼は目の前で銃撃戦が繰り広げられたというのに。
それにしても思った以上に山を登っていたらしい、行けども行けども平坦な土地にたどり着くことができなかった。自分が立てているはずのざっざっという足音が耳の中で増幅し、まるで誰かが後をつけているような気がした。何度も何度も後ろを振り返ったが、人の気配はない。それでもその足音が消えることはなかった。暗闇が作り出す恐怖が知らず知らずのうちに野村を蝕みつつあった。
ふと、しかしまたも懐中電灯の光が何かをとらえた。―――倒木?いや、違う。白地に赤い線が一本走っている。これは、ユニフォームじゃないか!?
誰かが倒れているのだ。野村はおそるおそる懐中電灯の光を今あてている足から体の方へ動かした。その光が暗闇の中から背中の背番号を読み取らせた。OGATA、9―――。
「緒方、緒方」
それが緒方孝市(背番号9)だとわかると慌てて駆け寄り、小声で呼びかけながら倒れている緒方の体を揺すった。ひととおり緒方を見るが、顔と手に擦り傷はあるものの、たいした傷ではなさそうだ。何より体は温かかった。緒方はまだ、生きている。
しばらく体を揺らすが緒方からは何の反応もなかった。何か方法は―――そう考えて、野村は緒方を仰向けにすると、デイパックから水の入ったボトルを取り出し、その中身を緒方の顔に勢いよくこぼした。少々荒っぽい方法ではあったが、とにかく何でもよかったのである。緒方が意識を取り戻しさえすれば。
すぐに緒方の表情が動いたかと思うと、勢いよく咳き込んだ。懐中電灯の光が眩しかったのか、はたまた水を飲んでしまったのか、表情が歪んでいた。
「気がついたか?」
懐中電灯で緒方の顔の辺りを照らす。緒方は一瞬、自分の置かれた状況を理解できないようだったが、すぐにその懐中電灯を持つ選手を認めると、心の底から安心したような笑みを浮かべた。
「野村さんじゃないっすか…」
「大丈夫か?こんな所でお昼寝か?」
冗談をいう場面ではないが、野村が意地悪い質問をぶつけてみた。
「そんなわけないでしょう―――これって夢じゃないですよね?朝山は?」
「朝山?」
不思議に思った野村が周囲を懐中電灯で照らすと、さらに一人、数メートル下に倒れている人影を発見した。それを見て何となくではあるが事を察した野村が、今度は真顔で緒方に聞いた。
「…朝山となんかあったのか?」
「取っ組み合いになって、ここを転がったまでは覚えてるんですけど」
「―――なら、そこで二人とも気を失ったってわけだな。どっちからだ?」
「朝山が包丁を構えてて」
「包丁?」
自分がここまで来る途中に拾ったあれは、朝山の包丁か。なら辻褄があう。しかし、朝山までもこのゲームに乗ってしまっていた。―――待て、もしかしたら緒方も?
「お前、このゲームに乗ったんか?」
緒方は、まさか、というような顔を野村の方に向けた。
「そんなわけないじゃないですか!―――そりゃ、朝山と向きあった時はそれに乗りました。だけど、好きで乗ったわけじゃない」
あまり緒方は嘘をつくのは上手ではない。自分の気持ちが必ず表情や態度に表れるやつだ。長年一緒にプレーしてる野村もそれはよく知っていた。ここまでムキになるなら、こいつはまだ大丈夫そうだ。
「わかった。まだいたんだな、俺みたいなやつも」
「まだ、って―――そんなにみんな殺しあってるんですか?嘘でしょう?」
「お前、朝山とやりあったくせに本当にそう思ってるのか?」
きつい口調で放たれた野村の一言への緒方からの返事は返ってこなかった。殺しあうなんて、という理想と、殺されかけた現実。自分の身を守ろうとしたその時に“殺しあう”というこのゲームのルールをきちんと飲み込んだはずだったのに、いざ自分が死ななかったとなると、やはりそのルールから目を背けたいという気持ちが強く動いていたのだった。
「とりあえずこれからどうする?」
「これから…」
野村の問いにまたも答えは出てこなかった。それは当たり前かもしれなかった。なにせあの時、自分の死を確信していたのだから(よく考えれば余程打ち所が悪くない限り転がるだけで死ぬことはないんだろうけれども)。緒方の複雑な表情を読み取って、野村は言葉を続けた。
「俺は―――できるだけみんなを集めて広島に戻りたいと思ってる。この目で何人か、死ぬ瞬間を見てきたけど…でも、まだ残ってるやつだけでも集めて何とかしたいと思ってる」
「そんな…そんなことできるんですか?」
「やらないであきらめるよりまず行動することが大切なんだ。たしかに、行動してもそれが成功するとは限らない。―――お前は知らんと思うが、建と横山がみんなを説得しようとして、誰かに殺された」
野村の言葉に緒方の表情がこわばった。
「建と横山が?」
「ああ。ハンドマイクか何かで呼びかけをやってな。たぶん、この山に隠れてる人間なら全て知ってるはずだ。そのくらい派手に呼びかけていたんだが―――あいつらの悲鳴が聞こえて以来、二人からの音沙汰はなくなった。そして六時の放送で名前が呼ばれた」
「―――そんな」
「でも、あいつらも結局はみんなで広島に帰ることを願っての行動だったんだ。俺もそうだったが、それに答えようとしたやつもきっといる。だから―――俺は希望を捨てない。建のためにも、横山のためにも」
野村のその思いが痛いほど分かるような気がして、緒方も胸が熱くなった。こんな時でも人に影響を与える一言をつむぎだせる。野村がチームリーダーとして慕われ、尊敬される所以だろう。
「緒方、お前も協力してくれないか」
その呼びかけには、全く躊躇することはなかった。
「勿論です。一緒に…一緒に頑張りましょう」

【残り36人】


登山道の途中、弥山の頂上から歩いて五分くらい行った所に、霊火堂というお堂がある。弘法大師ゆかりの「不消の火(きえずのひ)」(その名の通りこの聖火は千年以上燃え続けているらしい)を安置しているお堂であるが、その霊火堂の中に隠れている選手がいた。松本奉文(背番号35)である。
松本はここに到着した時、まず真っ先に中に人がいないのを確認すると、その扉を閉め中にずっとこもっていた。その間にも銃声や定時放送、さらには誰かの(何かを通して話していたようだが、さすがに距離があったのか、それとも外部との空間を扉で遮断したのがまずかったのか、それが誰の声で、何を話しているのかを聞き取るのはさすがに無理があった)声など様々な雑音が耳に入ってきていた。
松本には殺し合いなどもうどうでもよかった。とにかくここに閉じこもっておくつもりだった。誰も死ぬことがないせいで首輪が爆発するんならそれでよかったし、―――不謹慎ではあったが、みんな殺しあって自分ひとり生き残ってしまっても仕方がないと思っていた。とにかく外に出る気はなかった。ここなら不消の火のおかげで多少ではあるが明かりを確保することはできたし、暖をとることもできた。しかもご丁寧に、その燃える火の上には大茶釜までかけてあった。さすがに餓死するのは寂しい気がしたので、食料がなくなったら、そこらへんの草でもむしって、その茶釜で何か作ろうと思っていた。その辺アイディア次第である。
ただ、松本には一つ気になる事もあった。ここに閉じこもるのはいいが、もし、他の誰かがここに入ってきたらどうするのか。ここが禁止エリアにならない限りその可能性は少なからずあった(ちなみにここが禁止エリアに指定されたとしても、松本は外に出る気はさらさらなかった)。攻撃されるのは構わない。その覚悟は出来ている。しかし、一緒に行動しようなどと言われてしまったらどうしようか。二人で(あるいは複数で)ここに隠れるのか?ここを出るのか?勿論その時になってみなければどういう結論を出すかはわからなかったけれど、少なくとも、他の誰かを殺すことだけはしたくなかった。―――いろんな理由をつけてここに閉じこもっているが、実際は他人を殺したくないだけでここにいるのかもしれない。平和主義?気が小さい?…まあ、中にはそういうやつがいたっていいんじゃないの?
それにしても、と松本は心の中で呟いた。―――それにしても、宮島でこんなことやっていいのかな?厳島神社なんか世界遺産になったのに、ただの野球チームが宮島を貸しきってこんなことするなんて。後から弁償させられたりとかしないのかな。うわ、貧乏球団なのに払う金があるのかよ。あ、でも、ここで選手は一人だけになるんだからその分の給料が浮くのか。なら別にいいか。…やめとこう。そんなこと考えるだけで気が滅入るよ。
松本はごろんと床に寝転がった。広島出身の松本にとって、宮島は遠足などで気軽に訪れた馴染みの場所だった。その頃の思い出が走馬灯のようによみがえってきて、少ししんみりした気分になっていた。あの頃野球に出会わなかったら、今ごろ自分は何をしていたんだろう。野球と同じで、人生に「たら」「れば」を使うなど妄想の類に過ぎないけれど、こういう状況に陥れられると、ついそんなことを考えずにいられない精神状態になってしまうのかもしれなかった。
ごとっという音がして、松本は慌てて身を起こした。間髪いれずに、ぎいっと扉が開き、光の帯があちらこちらを照らしている。あまり起こってほしくないことが現実になってしまったようだ。―――誰かが来たんだ。
さまよっていた光の帯がふいに松本をかすめた。光の主はそれに気づいて、松本に光を当てる。あまりの眩しさに、松本は目がくらみ手でその光を遮った。
「松本さん?」
光の主が声をかけた。
「松本さんですよね。俺です、岡上です」
そう言って、自分の顔に懐中電灯の光を当てる。それはまぎれもなく岡上和典(背番号37)であったのだが。
「わっ、お前、その当て方やめろ、こえぇよ」
岡上は無邪気な笑いを浮かべ、懐中電灯の光を自分の顎の下から当てていたのだった。ぬっと現れた岡上の顔はあまりに不気味だったので、松本も思わず吹き出して岡上に注意した。
「すいません。でもよかった、松本さんなら安心だ」
肩をすくめるしぐさを見せて、岡上が堂の中に入ってきた。特に武器みたいなものも持っていないようだった。とりあえずは、松本もその来訪者を歓迎した。
「ここまでこの暗い中歩いてきたんか?」
「そうですよ、めちゃくちゃ怖かったですよ」
「そりゃお疲れだったな。…ところでさ、お前、もらった武器なんだった?」
「ああ、ピストルだったんですけど使う勇気がなくて。別に使う必要もないと思ってるんですけどね。松本さんは?」
「俺?俺のはあそこに置いてある。火炎瓶なんだけど、そんなもんもらってもなあ」
「そうですよね」
二人は苦笑した。苦笑しながら、松本の指差した先にあった火炎瓶を見た岡上の視線が一瞬獲物を捕らえた獣のように鋭くなったのに、松本が気づくはずはなかった。
「松本さん、ここにずっといたんですか?」
「まあね。どうも人を殺すとかそういうのは…」
言葉を続けようとした松本が、ふとある可能性に気づいた。今生存している選手なら誰しもその可能性があるわけだが―――岡上はそのようなことができる人間だろうか?
「どうしたんですか?」
変に言葉を区切った松本に、岡上が声をかけてきた。
「いや。…変なこと聞くようですまないが、お前これまでに誰かを殺したか?」
唐突な質問に岡上が目を丸くした。
「何言い出すんですか?んなことするわけないじゃないですか。松本さん、疑ってるんですか、俺を」
「そういうわけじゃないよ。すまん、気を悪くするようなことを言って」
「…いや、いいです。いきなりこんなことになってしまって、誰でも疑いたくなりますよ。松本さんは―――そんなことしてないですよね」
「さっきのお前の台詞、そっくりそのまま返してやる。んなこたぁない」
そういって松本は笑った。他の選手に会うことに一番気が引けていたはずなのに、こうやって実際会ってみると、嘘のように自分の中に安堵感が広がっていく。
「なんかお前が来たすぐで悪いんだけど、安心してすごい眠たくなってきた」
「あ、そうですか?なんなら交代で見張りしてお互い睡眠とっときません?俺もここまで歩いてきて相当疲れましたよ」
「そうだな、そうするか。今何時かわかるか?」
岡上が腕時計に懐中電灯を当てる。
「もう十一時ですね。いい加減寝たほうがいいかもしれないです。…松本さん、先に寝ます?」
「お、いいんか?」
「そのかわり六時を起床時間としたら…二時半に起きてもらいますよ。僕も寝たいですから」
「二時半か。わかった、お前きちんと起こせよ」
「わかってますって」
一通りのやり取りの後、松本は平舞台で支給された毛布をかぶると、余程疲れていたのであろう、すぐに寝息を立ててしまった。岡上はじっと座っていた。視線の先には、松本の武器である火炎瓶がある。何を思うこともなく、岡上はあるものをただじっと待っていた。
ちょうど一時間たった頃、岡上の待っていた“それ”はやってきた。
『みなさーん、こんばんはー。夜中にすまんのー。けどこれがわしの仕事じゃけぇ、きちんと聞くようにー』
夜中でも、相変らず達川の声は明るかった。やっときたか、と半ばうんざりした表情を岡上は浮かべた。定時放送はあちらこちらに器材が仕組まれていたのか、どこにいてもかなりの大音量で響いていた。普通の目覚まし時計以上の騒がしさだろう。しかし―――松本は相変らず寝息を立てていた。これならちょっとやそっとの騒ぎでは起きることはないはずだ。
今回の定時放送では鈴衛、矢野、酒井が死んだことを知らせ、殺し合いのペースをあげるよう注意を促しただけであった。岡上は定時放送の間も全く変化を示さなかった松本を見届けるとすっと立ち上がり、自分と松本のデイパックを担いだ。そして、無造作に置いてある火炎瓶を手にとった。
「二時半までじゃなくてもいいですよ。永久に寝ててください。その方が、松本さんも幸せだ」
岡上は火炎瓶の傍らで寝ていた松本にそう吐き残すように言い残すと堂を出た。ただし、扉はあけたままで。
ある程度堂から離れて岡上は荷物を下ろした。そしてその場から堂の入り口めがけて火炎瓶を投げた。火炎瓶は素晴らしい軌道を描いてその扉の中へ吸い込まれると、そのままものすごい勢いで発火した。みるみるうちに霊火堂は火の手に包まれていった。
飛んでくる火の粉に注意もはらわず、岡上はその様子をただ見守っていた。松本の質問に対する答えに嘘はなかった。あの時点では、俺はまだ殺してはいなかった。ただ―――殺し損ねたのだ。あの小賢しいチビを。あいつはこれからもうまく動いていくだろう。だが、そうはさせない。あいつの餌は極力減らしてやる。そのためには、全てを消し去るしかない。そしてあいつを追い詰めて俺が殺るんだ。
燃え盛る霊火堂を見ながら、岡上は確認するように自分に言い聞かせた。
―――これは序章に過ぎない。東出輝裕を殺すための序章に。

【残り35人】


橙色にかすむ弥山の頂上を見て、佐々岡真司(背番号18)は何かが起こったことを確信した。あんな場所に照明なんかないだろう。とすれば、火か?火災が起こったのか、火災を起こしたのか。この状況ならきっと後者の確率が高いだろう。それにしても乾燥した冬の空気だ、その明るさからも激しく燃えているだろう事が容易に想像できた。
ちょっとした不安が佐々岡の中に走った。―――まさか、あれで死んではいないよな。
佐々岡は慌てて首を振った。今はそんなことを考えるな。そう自分に言い聞かせると、手にしていた小さな機械の、さらに小さな液晶スクリーンを見つめた。その中には“C”のマークが一つ、ほのかな薄赤い光を発していた。
佐々岡が手に持つその機械が果たして武器かというと、そうは呼べなかったに違いない。しかし、現在の状況、使いようによっては、銃よりもっと有効なものだっただろう。もっとも彼が今やっていることが、正しい使い方なのかどうかはわからない。とにかく―――佐々岡はもう一方の手に握った棒(これは支給された武器でなく、ただ拾ったものであった)を構えなおすと、背中をつけていた民家の板壁から離れ、百八十センチを超える大柄な体を俊敏に移動させると、斜め向かいのちょっとした店舗がついている家の壁にまた張りついた。
スクリーンを覗くと、Cのマークが中央にある相似形のマークに近づいていた。スクリーンの表示方法についてもう一度説明書にかかれていたことを反芻し、佐々岡は首を振り向けた。家だ。この―――中だ。
実際首を振り向けたすぐそこにある窓が割られていた。佐々岡はポケットに機械を押し込んだ。機械が説明書通りのしろものなら、誰かがここにいる。マークが動かなかったのを見ると、その誰かはじっとしているか、あるいは―――。
そっと窓のサッシを横へひいた。ありがたいことに音はしなかった。佐々岡は棒を持っていない方の手を窓枠にかけ、猫のような動きですっとそこへ乗ると、中へ入った。
部屋には大きな機械があり、その横に奥に通じる通路があった。佐々岡は音を立てないようにその通路へ足を運んだが、その時ある匂いが、部屋を充満させている甘い匂いに混じっているのに気づいた。場の匂いとは明らかに違う、錆びた鉄に鼻を近づけた時のような匂いだ。
それで、佐々岡はやや急いで通路を進んだ。匂いが強くなったその時、わずかではあったがぴちゃっという音がした。何か液体がそこに落ちているのだ。
佐々岡はデイパックから懐中電灯を取り出すと、自分の足元を照らした。照らされたスパイクの先に赤黒い液体が付着している。そのちょっと先、ほとんど乾きかけたその液体がこぼれた中に見えたのは誰かの足、ふくらはぎの辺りまで。佐々岡は目を見開いた。思わずその足の正体を確認しようと光を当てたその背番号で、この倒れている選手の正体が分かった。
「兵動…」
佐々岡は棒とデイパックを傍らに置き、ゆっくりその死体のそばに膝をつくと、震える手を兵動の肩にのばした。一瞬逡巡した後、その死体を裏返した。血を吸い込んだユニフォームの前面はもう赤黒く染まっていて、CARPの文字さえわからなかった。
死体は酷い有様だった。例の首輪(それが佐々岡をここに導いたのだけれど)の上、その喉がざくっと裂けていた。もはや血は流れ切ってしまったのか、傷口はただぽっかり穴のように開いているだけで、一瞬、自分の子供が生まれたばかりの頃の、まだ歯の生えていない口のようにも見えた。流血の跡はその傷口から下へ流れて銀色の首輪の表面を汚し、それから真っ赤なユニフォームへと続いていた。それに、これは倒れた後の事なのだろうか、血の池に漬かっていた口元と鼻の頭、それに左側の頬にもべっとり血がついていた。どよんと虚空を見ている目の周り、睫毛の先にも細かな血玉ができて、それも既に固まっていた。
―――違った、か。
佐々岡はその死体の凄惨さに気圧されこそしたものの、ちょっと安堵してふうっと息をついた。それから、安堵したことを申し訳なく思って、兵動の死体をそっと引き起こすと、血の池を避けて、ちょうど兵動が倒れたところから上がった所にあるリビングに仰向けに横たえた。すでに兵動の体は固くなっていて、なんだか人形を扱っているような具合だったが、とにかくそうしてからそっと目を伏せさせた。ちょっと考えた末、兵動の両手を胸の前で合わせようとしたが、兵動の体が固いせいでうまくいかず、あきらめた。
棒とデイパックを再び取って立ち上がり、もうほんのしばらくだけその兵動の死体を見下ろした後、佐々岡は踵を返すと、入ってきた窓のほうへ向かった。そこでさらにもう一つの戦いがあったことには、もちろん気づかずに。
丑三つ時は、もう、とうに過ぎていた。

【残り35人】


黒い空がその色にだんだんと明るさを帯びてきた。出発した時以来の夜明けを迎えるところだ。木々の合間から空の様子が変わる様を木村拓也(背番号0)は見ていた。心の中のもやを払拭することができず、一睡もできなかった。最大の心配事は、やはり自分の家族の事だった。
かわいい嫁と、かわいい子供。ほしかった女の子も授かった直後の、このゲームだった。家を出てくるときに子供が「バイバイ」と手を振っていた。それにつられて自分も手を振り返した。まさか、それが“最期”のバイバイになるかもしれないなんて。由美子は今ごろ心配してくれているのだろうか。自分はこんなに心配でいるのに、あいつが今頃、何事もないように眠ってたりしたら、腹は立つけど笑って許してあげるだろう。それくらい、自分は由美子を、そして子供たちを愛している。そして、その愛する家族のもとへどうしても帰りたかった。
だから、夕方に聞こえた高橋建と横山竜士の呼びかけには素直に出て行こうと、荷物をまとめて腰を上げたのに、直後に聞こえてきた銃声と叫び声―――それがあっという間に木村の希望を打ち砕いていた。木村はその場に腰を落とすと、どうしようもないといった感じでゴロリと体を倒しそのまま寝ようとしたのだが、結局眠れずに今に至っていたのだった。
空は少しずつではあるが、だんだんと白んでいく。木村は体を起こしてデイパックを持つと、木々の間を歩き始めた。辺り一面木で密集しているというわけではなく、木村のいた場所には結構な数の岩が転がっていた。最初は不思議に思っていた木村だったが、まだ明るかった時間にこの辺を歩いていて、その理由をすぐに見出していた。
木村の耳に、さあさあと水の落ちる音がする。木村はその音を頼りに進んでいき、やがて木々の切れ目から滝が見えた。そう、木村のいた場所のすぐ近くに川があったのだ。滝の周辺は川幅よりちょっと広くなっていて、池のようになっていた。顔でも洗おう、とりあえず気分転換しよう。空を見るうちに何となく心にそう浮かんで、木村はここまで歩いてきたのだった。
水が静かに打ち寄せる所まで寄ると、木村はその澄んだ水を両手ですくって何度も顔を洗った。その冷たさが心地良くて、何度も何度も水をかけた。気がすんだのか、ふうっと一つ息を吐くと、自分のバッグからタオルを取り出して顔を拭いた。そのタオルを首からかけ、木村は立ち上がって滝を見上げた。「鯉の滝登り」という言葉が頭をかすめて、ちょっとだけ苦笑いした。―――なんだか自分のことみたいだな。
思えば長い長い下積み生活だった。この世界には期待されて入ってきたわけではない。むしろふとした偶然から始まった。たまたま別の選手を見にきていた日本ハムのスカウトが、同じグラウンドで練習していた自分の足と肩に注目して、ドラフト外で入団させてくれた。二年程度で捕手はクビになったが、外野手としては守備固め程度には試合に出させてもらっていたし、内野の練習も面白かった。突然の広島へのトレード。外様には厳しいと聞いていて内心気の進まないトレードではあったが、九州出身の選手の多かったことが幸いしてすぐに打ち込めることができた(もともと社交的だったけれど)。その練習に最初は圧倒されたが、逆に刺激も受けた。スイッチヒッターの練習を始めたのも広島に来てからだ。それがだんだんと様になってきて、ユーティリティープレイヤーとして一軍のベンチに長く置いてもらえるようになった。さらにふとしたことで歯車がかみ合いだす。江藤さんのFAによる内野のポジション争い。ふとしたきっかけで手に入れた開幕スタメン。結果を出して、それ以来スタメンで使われるようになり、活躍した。今年は故障もあって成績はちょっと見劣りする感じになってしまったけれど、それでも下積みの時代には考えられないような成績をここ二年、残していた。ただ、だからといって油断するつもりはなかったけれど―――。
突然、ぱん、という乾いた音がして、右の下腹部に激しい痛みが走った。何が何だかわからなくて、その痛みの走ったところに手を当てた。その手がなにかぬるっとした湿りを感じて、木村は視線を落とした。「なんじゃこりゃあ!」と叫ぶ松田優作の気持ちを一瞬にして理解したような気がした。ともかく、その視線にうつったのは右手をそめた真っ赤な血液だったのだ。
それを見た途端、足のがくがくと震えて体を支えきれなくなった。両膝が打ち寄せる水に落ち、ばしゃっと跳ねた。体も前のめりに倒れそうになって、慌てて左手でそれを阻止して、無意識にそうしたのだが、右わき腹が上を向くよう背中を地面につけた。
すぐ近くから誰かの走り去る音がした。誰かが、木陰から自分を撃ったのだろうか―――それしか考えられなかった。このゲームも試合と何ら変わらないのに。気をつけておかないと自分の存在がなくなるかもしれないのに―――油断してしまったな。
血はとめどなく流れているらしく、押さえているユニフォームはしぼれば血があふれてきそうなくらいぐちゃぐちゃになっている、そんな感じを手のひらで感じ取っていた。このまま意識がなくなるのかとも思ったが、わき腹に走る痛みと苦しい呼吸が木村にそれを許さなかった。

【残り35人】


ほんのすぐ近くで聞こえた一発の銃声に新井と森笠は顔を見合わせた。新井は前田のショットガン、森笠は自分の武器であるスミスアンドウエスンを右手に持った。移動してきた茂みの中で、三人は時間を決めて交互に睡眠をとっていた。二時間ごとに新井、森笠が睡眠をとり、そして現在は前田が二人に背を向けて眠っている。一人が寝ている間、残り二人は見張りをするという形をとっていた。その最中に聞こえた銃声だった。
ほんのちょっとの間があいて、誰かが慌てて走っているのだろう、ざっざっという急いだ足音が二人のすぐ脇を通り過ぎていった。慌てて二人とも茂みの中に身を潜めたが、その足音の主は気づくことなく通り過ぎたらしく、やがて聞こえなくなった。
「誰かが撃たれた?」
森笠が聞いてきた。聞かなくてもその可能性しか残されていなかったのだが。こんな早朝から殺し合いである。気分のいい話ではない。
「だろうな」
そう吐き捨てるように答えたが、撃たれたのが誰だったのか、そいつは死んでしまったのかまだ生きているのか非常に気になった。―――死にかけの困った人を見かけたら助けてあげましょう!って精神かい?前田さんに言わせればそんなもの甘ったれた感情でしかないのだろうけど。ああ、野次馬根性丸出しとも言われるな。―――でも、それでも。
「俺、見てくるわ」
「バカ。前田さんがうろちょろするなって言ってただろ!あぶないよ」
「けど」
それだけ言って新井は音のした方向に顔を向け、やっぱり、と言いたげに顔をもどした。
「危ないって。今逃げたのが撃ったやつとは限らない。まだ犯人がいたらどうするんだ?」
森笠が再度新井に促した。新井は腰を下ろし、下を向いて黙り込んだ。森笠が、やれやれ、とため息をついて視線を外したその時―――新井は練習中にも見せないようなダッシュで音のした方に駆け出していった。
「あっ、ばか」
森笠が気づいたときにはもう遅い。取り残された森笠は、どうしようといった表情を浮かべて、新井の走っていった方向と寝ている前田の背中を二、三度交互に見やった。
たぶん一分も走らなかっただろう。目の前が急に開け、池みたいな所に出た。水の音はしていたが、こんな所に滝が―――と滝に視線を移動させようとして、水辺に倒れている選手がうつった。ショットガンを肩にかけ、倒れている選手のもとへ駆け寄った。
「拓也さん!」
倒れていたのは木村拓也(背番号0)だった。何も考えずに木村の体を抱きかかえた時、新井の右手にぬるりとしたものが触った。水かと思ったが、水にしてはいやに温かい。見ると、木村の右わき腹からあふれ出た血が新井の右手をも真っ赤に染めていた。流れ出る血は、さらに打ち寄せる水と混じりあって、木村の周囲は文字通りの本当に血の池になっていた。
「…新井か?」
苦しそうに木村が言った。真っ青を通り越し白くさえ見える顔が木村の状態を表していた。
「喋ったらだめです。血が、血が…」
言葉にならなかった。死にそうになっている選手に遭遇したのは初めてである。さっきまで何を考えていたのかもわからない。ただただ頭が真っ白になって、なんと声をかけていいかもわからなかった。
「泣くな、ばか」
苦しいのは新井にも手にとるように分かるのに、それなのに木村は泣きそうになっている新井の顔を見て笑った。顔の筋肉を動かすのさえきつそうなのに。言葉のかわりに涙が出てきた。視線の先の木村の顔が歪んで見えた。
「新井!」
自分の名前を呼ばれて振り返ると、新井の斜め後ろの茂みから前田と森笠が顔をのぞかせていた。真っ赤になった新井の右手と、それに支えられて新井の膝の上で横たわる木村に気づいたのだろう、前田が血相を変えて飛び出してきた。森笠も後をついてきた。
「タク!タク!」
前田がめずらしく必死になって声をかけている。体を揺すろうとしたが出血の多さにためらって、その手が止まった。
「前田、さん。森笠?これは、夢?」
「違いますよ!しっかりしてください」
―――はは、新井にしっかりしろなどと言われるなんて。そう木村は思って笑みを作ろうとしたのだが、もう笑うのも無理だった。口元が、途切れ途切れに喋る程度にしか動かなかった。
「前田、さん」
どうにか視線を前田に移した。前田は何も言えず、はりつめた表情で木村を見つめる。
「来年、優勝、しましょ…俺、前田、さんの、話聞い、た時、から、夢、でした」
げほっ、げほっと木村が咳き込んだ。もう呼吸さえままならないようだった。前田は傷口をおさえることも出来ずただだらりと下がっている木村の右手を握ると、ようやく一言だけ言った。
「わかっとう、わかっとるけえ、喋るな」
「も…りかさ」
「はい」
自分の名前が呼ばれると思っていなかったのか、慌てて森笠が返事をした。
「その、41ば…ん、大切に、してくれ、よ。長い、間、俺の―――相棒だ、ったん、だから」
「はい、はい」
感極まって森笠も涙が目に浮かんだ。森笠が来る前の年まで、41番は木村の背番号だった。下積み時代をともに過ごしてきた背番号を、有名になった0番の選手はずっと気にかけていたのである。
「新井」
もう一度視線を新井に戻した。焦点は、ほとんど合っていないように見えた。
「フライ、くらい、ちゃん、と、取れ」
とても笑える状況ではなかった。けれど、新井は笑みを作って、左手で涙を拭いて、精一杯の返事を返した。
「はい」
「おし。お前、なら―――できる」
声にならない声でそう言った木村の目の焦点は、もう完全にあっていなかった。それどころか、まぶたをあげる力さえなくなってきていた。新井の顔を通り過ぎて、どこかはるか遠くを眺めているようだった。もしかしたら、幻影を見ていたのかもしれなかった。愛する妻と、愛する二人の子供の。十年間宮崎から見守ってくれていた両親の。一緒に野球をやったたくさんの仲間の。自分のユニフォームを着た、たくさんのファンの。急激に遠のく意識の中で、木村にはそれら全員が見えているのかもしれなかった。まぶたが完全に木村の目を覆い、しかし、喋るのさえ精一杯だった木村の口元がふいに緩んだ。
「由美…」
愛する妻の名を最後まで呼ぶことはできなかった。前田の握っていた木村の手の指が、最後の力を失った。
「タク!」
「拓也さん!」
「拓也さん!」
三人が叫んだのはほぼ同時だった。それに木村が答えることは、二度となかった。とても―――穏やかな表情を浮かべていた。
前田はきっと唇を噛むと、木村の手を握る自分の手に、より一層の力をこめた。

【残り34人】


しばらく静かに―――午前六時の定時放送があった以外は―――時間が流れていた。目の前の滝も変わらぬ様子で流れている。三人はさっきと同じ場所に座っていた。
木村拓也(背番号0)の遺体は前田の横に寝かせてあった。毛布がかぶせられ、本当にただ寝ているかのようだった。毛布の上には、真っ赤に染めた血を前田が池で洗い流した木村のユニフォームと、―――これは前田が提案してそうしたのだが、森笠の着ていた背番号41のユニフォームが重ねておいてあった。木村の足もとに小鳥が飛んできて、ほんのわずか前の出来事などまるで知らないかのように、チチチと鳴いた。
木村のデイパックの中には、備品と拳銃(トカレフTT−30)、さらに私服や時計なんかも入っていて、その奥のほうから家族四人で写っている写真が出てきた。生まれたばかりの子供を抱いて写真におさまっている木村の笑顔を見ると、なんだかいたたまれない思いがした。その写真は今、前田の手元にある。
「誰が殺ったのか、聞かなかったな」
前田がぽつりと言った。新井も森笠も足音だけは聞いていたが、その人物を確認することはしなかった。
「いつの場合もそうだが、善人がいい目にあうかって言うとそうじゃない。むしろ逆が多いかもしれんな。こいつの武器はしっかりバッグに入っていただろう?たぶん―――わしの推測でしかないが、戦う気はなかったんだろう。チームメイトを信じようとした。高橋建や横山と同じタイプだな。この辺にいればあいつらが殺された事も知ってただろう。なのにそれでも信じようとしてた、そのことは褒めてやりたい。わしには、今もそれができないんだから」
前田の言葉が心にしみこむ。新井も森笠も、ただ黙って聞くしかなかった。
「近くにいたのに、そんなこいつを助けてやれなかった。本当に、いいやつだったのに」
「前田さん、やめましょう。そこまで自分を追い詰めなくても」
「目の前で森笠が殺されて、それを助けてやれなかったら、お前はそう思わないか、新井?あそこで嶋が殺された時、そうは思わんかったんか?」
「それは―――」
言葉は出なかった。きっと前田と同じ事を思うだろうし、実際嶋が死んだ時、何もできなかったことを後悔していたのだから。
「他人のためにこのゲームに乗るなんて決してしないと思っとったが、やめた」
表情一つ変えずにそう吐き捨てると、前田は立ち上がった。
「そろそろ皆動き始めるじゃろう。また身を隠すぞ」
その言葉と雰囲気に促されて、新井も森笠も素直に立ち上がった。前田は足元の木村を見下ろして、言った。
「写真、お前の形見でもらっていくから」
そして新井と森笠の方を振り向いて、言った。
「タクを殺したやつが現れたら、俺が殺る。―――手出しは、するな」

【残り34人】


栗原健太(背番号50)は、わき目もふらず一目散に走っていた。目的地などなかったが、とにかく今はその場から逃げ出したかった。とにかく、何としてもだ。
実はついさっきまで栗原はこのゲームを芝居か何かだと思っていた。デイパックの中に入っていた拳銃も水鉄砲か何かだろうとしか思わなかったし(一見してデイパックにしまいこんだままなのだが)、何度か聞こえてきた銃声も爆竹かクラッカーの類だろうと思っていた。放送なんて達川さんが適当に選んだ名前を読んでるだけだろうと聞き流していたし、挙句、夕方くらいに聞こえた高橋建(背番号22)と横山竜士(背番号23)の呼びかけなど、「雰囲気を盛り上げるためのエキストラ」程度にしか考えていなかったのだ。とにかく、殺し合いなんてあるわけないじゃないか、と思っていたのである。
この島での初めての夜は山の中で過ごした。茂みの中で寝ていた栗原は誰かの移動する足音で目を覚ました。ちょうど夜も明け始めた頃で、栗原は身を起こすと、ちょっとした出来心からその足音をつけてみることにした。何かかくれんぼの鬼になってみんなを探す時のようなわくわくする気分で。
たどり着いたのは小さな池のような場所だった。栗原は昼間水を汲みに一度ここを訪れていた。水辺にいる選手は顔を洗っている。洗い終えて顔をあげて、その選手が木村拓也(背番号0)だということがわかった。あまり面と向かって離したことはないけれども、木村にはどこかしら親しみやすい雰囲気があった。どこにでもいそうな近所のお兄さんという雰囲気である。
栗原は木村に挨拶することにした。正直なところ、一人での行動に飽きはじめていた。誰かと一緒にいれば、少なくとも今よりかは退屈しなくてすむだろう。しかし、このまま真っ正直に出て行くのもなんだか面白くない気がした。栗原は顔は怖くても、根はひょうきんな人間だったのだ。それがここでは裏目に出てしまうのだが―――。
ふとデイパックに入っていた拳銃の存在を思い出した。これを構えながら出て行ったら驚いてくれるかもしれない。デイパックの奥底に沈んでいた拳銃を取り出すと、栗原はもう一度その拳銃を見直してみた。―――本物もこういう風にできているのかなあ。刑事ドラマだと「手を挙げろ!」なんて言って、犯人に拳銃を構えてバーンと…。
引き金にかけた指を動かした瞬間、クラッカーを鳴らしたような「ぱん」という音と同時に激しい衝撃が栗原を襲った。その時初めて、彼はこのゲームが冗談ではないことを知ったのである。そして、いくら偶然とはいえ栗原は撃ってしまった。銃口の先、犯人に見立てた木村を。
その木村がゆっくりと崩れ落ちていく様を栗原はただ茫然と見ていたが、はっと我に返ると慌てて逃げ出した。まだ薄く煙が出ていた拳銃を右手に持ったまま。
逃げている間も脳裏には木村が崩れ落ちる姿がよみがえっていた。自分は何もしないでそのまま逃げ出してきてしまった。もしかして、あのまま木村さんは死ぬのか?そこまで考えて、ぞくっと冷たいものが栗原の背筋を走った。死ぬ?木村さんが?死んだ?名前を呼ばれたみんなは?そして、これから、死ぬのか?俺は?死ぬのか?
そう意識しただけで、ただでさえ走っていて心拍数が増えている心臓がますます高鳴った。ほとんど心不全を起こしそうなほどに。死ぬのか?死ぬのか?耳鳴りのように、あるいは出来の悪いCDプレイヤー、盤面のキズをそれが無視できずに何度も繰り返すときのように、その言葉が頭の奥に聞こえ始めた。死ぬのか?
どこかで飼っているのか、鶏の鳴き声が聞こえてきた。あまりに場違いなその鳴き声が故郷山形を思い出させて、ぼろっと栗原の目から涙がこぼれた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。無性に母親に会いたくなった。弟の泰志にも会いたかった。泥だらけのユニフォーム姿で家まで帰り、シャワーを浴びて、母親の経営する焼肉屋で腹いっぱい米沢牛を食べたかった(贅沢なと怒られるかもしれないけど、たまの贅沢ぐらい見逃してほしいものだ)。腹いっぱいになったところで雪下ろしの手伝いもせずに、居間のコタツに寝そべりながら本棚いっぱいの野球本(まあ、マンガもたくさん含んでいるけど)をじっくり選んでゆっくりと見たかった。
「山形に…帰りたい…気が…狂いそうだ」
走りながらもそう呟いてしまったのが耳に聞こえた途端、栗原は本当に自分が狂いそうになっているような気がして、ぞっとした。吐き気が胸の奥から突き上げた。涙がますますひどくなった。
すぐ横でざっという音がして、驚くと同時に足が止まった。涙に濡れた目のまま、音のしたほうを見た。茂みの中から、ユニフォームの影がこちらを見ていた。背格好と背番号で朝山東洋(背番号38)だとわかった。見られていたのだ!知らない間に!
恐怖に駆られて、栗原はほとんど何も考えないまま両手で銃を持ち上げ、引き金を引いた。またも「ぱん」という音とともに、強い衝撃が走った。朝山の影は、その前にすっと茂みの奥に消えていた。ざざざ、という音が続き、それもすぐに消えた。
栗原はしばらく銃を構えた姿のまま、がたがた震えていた。それからまたすぐに走り出した。走りながら混乱した頭で考えた。朝山東洋は自分を殺そうとしていたのだ。間違いない。そうでなかったら―――どうして茂みの中から自分を覗き見る必要があったというのか?きっと朝山は銃を持っていなかったのだ。俺が銃を持っていることがわかって、慌てて逃げたのだ。俺が気づかなかったら、そして急いで撃たなかったら―――朝山はナイフか何かをざっくり俺の胸に突き刺していたに違いない。ナイフ!油断しちゃダメだ。誰かに出くわしたら、容赦なく撃たなければ、自分がやられて!しまうのだ。―――やられる!
ああ―――こんなことはもうごめんだ。うちに帰りたい。焼肉。泥だらけのユニフォーム。マンガ!雪下ろし。米沢牛。泰志。シャワー。容赦なく。撃つ。撃つ!コタツ。焼肉。泥だらけの!ユニフォーム!容赦なく。米沢牛。
栗原の目から涙がぼろぼろこぼれていた。しかしその右手にはしっかりと銃が握られていた。
容赦なく!木村さん。殺される!撃つ。おふくろ。泰志!撃つ!撃つ!野球狂の詩!
栗原は狂いかけていた。

【残り34人】


午前六時の定時放送で目を覚ました河内貴哉(背番号24)は広池浩司(背番号68)とともに朝食をとっていた。広池が民家からとってきたというマーマレードジャムが、支給された味のないパンにアクセントを添えた。
「広池さん」という河内の声が聞こえ、広池は河内を見た。河内は立木に背を預け、左手に持ったパンに視線を落としていた。
「俺、あの入り口の前で広池さんを待ってればよかったんですよね、考えてみたら。そしたら、最初から一緒にいられた」
顔を上げて広池を見た。
「けど、俺、怖かったから…」
「そりゃそうだよ、遠藤と河野の死体が転がっていれば」
「河野さんも?―――俺、遠藤さんしか見てない」
「そうか。なら河野は新井以降の誰かが殺したんだな」
沈黙が二人を包んだ。正体の見えない誰かが仲間を殺しつづけている。その誰かは一人かもしれないし、複数かもしれなかったが、その誰かのせいでこの島にいる選手はだんだんと減ってきていた。
「ここに移動するまで、誰かを見たか?」
広池の質問に、河内は首を振った。
「そっか。下の公園の近くに神社があったろ」
「はい」
「あそこに誰かいた。しかも複数だ」
「―――そうなんですか?」
「うん。多分―――誰かを待っていたんだと思う。もっとも出てきたのは僕が最後だったんだけど。とにかく、僕には気づいていなかったみたいだ。複数だからたちまち敵になる人たちってわけじゃなかったんだろうけど、自分から仲間にしてほしいと出向く理由もなかったし、すぐにその場は離れたんだけど。それに―――そのほかにも二人、僕は見てる」
「本当ですか?」
「ああ。一人は、あまりがっしりしてない選手だった。ぼさっとしたくせ毛みたいな髪の毛だったから、たぶん鶴田さんだったと思う。僕がこの山の裾野のほうを動いてる時、茂みの向こうを移動していくのが見えた」
「声、かけなかったんですか?」
広池は肩をすくめた。
「ちょっと、ね。偏見かもしれないけど、こっちに来てまだ一年だし、それなら鶴田さんが僕らに情をかける理由もないだろ?」
ちょっと考えて、河内が頷いた。
「それと、あの前田さんを見た」
「前田さんかあ。こんな状況だからかもしれないけど、何となく怖いですよね」
「そうなんだよな、だから僕も声をかけるのは遠慮したんだけど」
広池はちょっと視線を空の方に上げた。すぐに河内の顔へ戻した。
「向こうも僕に気づいてたようだった。僕はちょうど公園に入ったところだったんだけど、前田さんが自分のすぐ先にいたんだ。ショットガンみたいなのを持ってた。僕は木の陰に隠れたんだけど―――前田さんはしばらく僕のほうを見てたはずだ。すぐどこかへ行っちゃったけど。攻撃してきたりはしなかった」
河内が「ふーん」と言った。
「しゃあ少なくとも、敵じゃないって事ですよね、前田さんは」
広池は首を振った。
「それはわからない。僕も銃を持ってることに気づいて、大事をとって攻撃するのはやめたのかもしれない。どっちにしても、僕はやめといた、前田さんを追いかけるのは」
「そうですか…」
河内は頷き、それから何か思いついたように顔を上げた。
「あの、俺、誰も見てないんですけど、建さんと横山さんが撃たれる前に、別の銃声がしませんでしたか?」
広池は頷いた。
「した」
「あれ、あのマシンガンとは別ですよね。あれも、建さんたちを狙ったんですかね?」
「いや、そうじゃないと思う。恐らく、高橋さんたちをやめさせるつもりだったんだ、あの銃声は。あんなことしてたら危ないことは分かり切ってるんだから。銃声に驚いて、高橋さんたちが隠れてくれないかと、撃った人は思ったんだと思う」
河内がちょっと興奮したように身を乗り出した。
「じゃあ、少なくともその人は敵じゃないって事ですね」
「そうだと思う。けど、合流する手だてがない。どの辺から撃ったか見当はつくけど―――だけど、もうその選手も動いてるよ。あのマシンガンの選手にも位置を知られたことになるから」
河内がいささか残念そうに体をひいた。
「まあ、そう残念そうにするな」
そう言うと、広池がデイパックを担いだ。
「何するんですか?」
「ゆっくり移動する。―――昨日、いいもんを見つけたんだ」

【残り34人】


朝日を受けてきらきらと光る瀬戸内海を、一隻の船が呉から宮島にむかって進んでいた。その船内には、船を操縦する男と、さらにもう一人、さも怒っているかの表情を浮かべている初老の男が乗っていた。
「杉ノ浦でええんかのう」
操縦する男が、もう一人の男に聞いた。
「そっちにしてくれ。なるだけ、向こうの桟橋から見えんようにの」

その連絡を受けた時、初老の男は、まあ仕方ないことか、としか思わなかった。プロ野球界もいまや不況の煽りをくっている。それへの対策を講じられるのは至極当然なことだと思ったが―――そのやり方を聞いて愕然とした。まさか、選手同士を殺し合わせるなんて。しかも、それを賭けの対象にしているなんて。
「誰にされますか?」
なんだかファミレスで「どちらになさいますか?」と聞かれる時と同じような口調に、受話器を握る手が震えた。もちろん返事をしないとあやしまれると思い、適当に野村謙二郎の名前を挙げた。
「ほうですか、さすがの人選ですねえ。あ、パソコン使われますかねー。とりあえず情報を逐一お伝えしますけど―――あ、使わない。それでしたら、野村に何かあったらまた連絡します。ほんで島の様子が気になるようでしたら、球団事務所に行って下さい。ええ、こっちから随時情報を送っとりますんで、はい。これも仕方ないんですよねー。あんなに視聴率取れないんじゃあ―――まあ、仕事は回すらしいですから、それはまた連絡待っといてください。わしも仕事がなくなるか思うてびくびくしとりましたよ」
陽気な笑い声の後、一言二言世間話をして、電話を切った。―――この腐れ外道が!
思わず出てきた叫び声に、台所で夕飯の準備をしていた妻が驚いて振り返った。
「いや、なんでもない」
妻に声をかけると、ちょっと考えて、それからすぐにまた受話器を取った。長年親しくしている友人に電話をかけた。無理を言って船を出してもらったのだ。
「わしゃええけど、ニュースで異常潮流がどうこう言っとったじゃろう。宮島のフェリーもしばらく欠航らしいんじゃが―――小さい船じゃけえ、船が沈没する覚悟はしときんさいや」
友人はそう言うと豪快に笑った。一緒に笑いたかったが、気が動転していてとてもそれどころではなかった。電話を切るとすぐに必要そうな荷物をバッグに詰め込んだ。
夕食を食べながら、妻に「明日古い友人と会うけえ、帰らん」とだけ言った。布団に入っても眠ることは出来なかった。この間にも選手たちは殺し合いをしとるんじゃろうか。―――そんなはずはないじゃないか!わしが手塩にかけて鍛えたあいつらが、そんなバカなことをしとるはずがなかろうが。しかし―――自分の頭の中で、殺しあう選手の姿と、それを打ち消す思いが一晩中かけ巡った。朝早く、まだ朝食も準備されていない時間に、家を出た。途中、球団事務所に行き(まだ信号さえ点滅している時間帯なのに、そこには数人の人間がいた。楽しそうに話すそいつらの顔を見るだけで虫唾が走った)、このゲームに関する資料を貰った。武器とか、首輪とか、禁止エリアとかぱっと見だけでは理解不能な内容がそこには書かれてあった。さらにパソコンからプリントアウトした選手名簿もありがたく頂戴した。名前の横に赤字で「死亡」と書かれている選手が半分近くいて、その事実にはただ驚くしかなかった。もちろん、そのそぶりを見せることなく、そこを出たのだけれど。再び車を走らせると、念には念を入れ呉まで遠回りをして、そして船に乗った。

「そろそろ着くぞ」
気がつくと、すぐ目の前に宮島があった。進行方向にコンクリートの防波堤が見える。それから二分ほど船を走らせただろうか、船はその防波堤に横付けされた。
「本当にすまんが、次に電話を入れたらまた迎えにきてもらえんか?」
「お安いご用じゃ。ま、ほどほどの時間に頼むで」
「おう」
男との会話が終わると、船はまた瀬戸内海を進みだした。それが見えなくなるまで眺め、そして、島へと足を運んだ。
―――何があっても残りの選手は救ってやる。達川の阿呆に一泡ふかせてやるわい。
これから知る惨状を予想するはずもなく、大下剛史(99年ヘッドコーチ)は宮島に上陸した。

【残り34人】


黒田博樹(背番号15)は、木の幹の陰からそっと頭を出した。山の中腹近く、山頂からは東よりの辺りにいるはずだ。周囲は低木、高木が入り混じった雑木林だったが、今黒田が顔を向けている頂上へ向けて、徐々に木の背は低くなっているようだった。
黒田は支給の武器のアイスピックを持ち直すと、低い姿勢から一度、後方を振り返った。木々に覆われて、最初隠れていた民家のある商店街はもう見えなかった。どれくらい進んだのだろう?プロと呼ばれるスポーツ選手なのだから、そういう距離には言わば身体感覚みたいなものができあがっていたのだが、山肌の起伏と昨日からの緊張感でその感覚自体にもいささかの狂いが生じてきていた。
支給されたまずいパンと水で食事を済ませ、黒田が意を決してそこを出たのは、腕時計が午前八時をさす直前だった。ゲーム開始以来、何度も銃声らしきものは聞こえていた。黒田はずっと民家の隅に身を潜めていたのだけれど、結局、隠れていても事態は好転しないと判断したのだ。誰か―――少なくとも自分の信用できる選手を探し出し、一緒に行動しようと思っていた。もちろん、自分にとって信用できそうな選手が、自分をやはり信用してくれるとは限らないのだが。
しかし、自分が会いたいと思っていた選手の名前は、何人かではあったが、達川が読み上げていた。今年一緒に二ケタ勝利を挙げた高橋建。オフのゴルフの時なんかはよく同じ組で回っていた(というか、回らされていた)横山竜士。同期入団の河野昌人(黒田の年のドラフトは四人しか指名されなかった。今年福良が解雇されて三人になってしまったけれど)。
でも、まだ生き残っている選手は多い。誰か探さなければ。左手のアイスピック(しかし、こんなものが役に立つのだろうか?)をぎゅっと握りしめると、ポケットに入れておいた小石を右手でつかみ出し、前方左右の茂みに向かって投げた。がさっ、がさっと石が茂みの中に落ちた。
しばらく待った。反応はない。黒田は茂みの間に開いた上り斜面に向けて足を踏み出しかけた。その時、黒田の前面の茂みから何かがひゅっと飛んできて、ちょうど黒田の横に生えてきた木の、顔の高さのあたりに刺さった。―――攻撃だ!黒田は矢の飛んできた方向に目を向けた。そういうこともあるだろうと予想したはずの事態だったのに、やはり体のどこかが震えていた。
黒田の視線が止まった。自分に右手に弓のついたライフルのようなものを向けている選手は、福地寿樹(背番号44)だった。ちくしょう、なんでよりにもよってこんな好戦的なやつに―――。
黒田は思ったが、問題はとにかく、自分が全身を福地にさらしていることだった。とにかくそれは危険だった。くるっと踵を返すと、もと来た方向にだっと走り出した。
「待て!」
背後から福地の声がした。ざざっと茂みをかきわけ、追ってくる音がした。
「待てと言ってるだろ!」今度は大声だった。
―――あほ、大声出すなよ。
黒田は数瞬のうちに逡巡し、しかし結局、足を止めた。振り返った。福地が銃か何かを持っていて撃つつもりなら既に撃っているはずだし、何より、その大声はまずいと思ったからだ。福地だけでなく自分も見つかってしまう。それで、辺りに素早く目を配ったが、先ほど自分が確かめた通り、どうやらほかに誰かいる気配はなかった。速度を緩めながら、福地が緩やかな斜面を下ってきた。手に持っている武器は今は黒田に向けられていなかったが、もし再び向けられた時、あれを躱して再度逃走できるだろうか?立ちどまったのは間違いだったのか?
―――いや。心の中、黒田は思った。福地は足のスペシャリストだ。いくら黒田が普通の人間より運動能力に秀でているといっても、いずれ追いつかれたことだろう。どちらにしても、もう遅かった。
福地が黒田と四、五メートルの距離を隔てて止まった。顔に浮かぶあいまいな笑みを見ながら黒田は考えた。―――いったいこいつは、どういうつもりなんだろう?矢をはなってきたという事は、仲間として見るのはちょっと無理があるかもしれない。黒田は慎重に口を開いた。とにかく、早々にこいつの前から姿を消したほうがいい。それが基本ラインだ。
「大声出すなよ」
「悪かったな」福地が答えた。「けど、お前が逃げるからだ」
「悪いが」と黒田は即座に言葉を返した。常に簡潔、単刀直入。俺のモットーだ。
「お前と一緒には、いたくないな。俺はこのゲームの、平和的解決をのぞんでるからな」
黒田は言って、もう一度踵を返しかけた。ちょっとその足が震える感じで、おぼつかないのがわかった。しかし、止めた。視線の端、福地が右手に持ったものを黒田に向けるのが見えたので。それで、黒田はゆっくり、もう一度福地に相対した。福地の右手のボウガンに、引き金にかけられたその指に注意しながら。
「なんの真似だ?」
「こんなことしたくねえよ」
福地が言った。まさに、その口調は黒田が大嫌いなそれだった。なんだ、こんな状況で言い訳か?自分のやったことをよく顧みとるんか?
「俺と一緒に組まんか?」
「ふざけんな。そんなもん突きつけられて、一緒に組めるか。とにかく、それを下げろ」
「逃げないんだな」
「聞こえんのか?」
黒田が強い口調で言うと、福地は不承不承それを下げた。
「そう怒るなよ。一緒に行動しよう」
黒田は肩をすくめた。怒りのせいで、ぎこちなさを感じなかった。
「さっき言っただろ、ごめんやって。じゃあな」
黒田はそう言い捨てると、福地の方を見ながらあとずさりしかけた。即座に、福地が手にしたボウガンを持ち上げた。その顔が歪んでいる。自分の思い通りにならない歯がゆさに。
「いい加減にしろ」
「じゃあ―――ここにいろ」
福地が吐き捨てるように言った。同時に首を傾けたその仕草は、幾分神経の高ぶりを抑えるような感じに見えた。
「俺は嫌だと言ってる」
福地はボウガンを下げなかった。しばらく二人でにらみあって、焦れた挙句、黒田が言った。
「お前、何考えとる?はっきり言えや。俺をすぐ殺すわけでもない、俺が一緒にいたくないと言ってるのに一緒にいろと言う。どういうことや?」
「俺が―――」福地は、そのどこかねばついた視線を黒田の方に据えたまま言った。
「お前を守ってやろうって言ってんだよ、エース様。二人でいた方が、安全だろ?」
「冗談じゃねえ」
黒田の声に今度は怒りが混じった。
「そんなもん突きつけといて、守ってやるも糞もあるか、ドアホ。俺はお前を信用できん。わかったか?もういいだろ?じゃあ、行くからな」
福地が「動くと撃つぞ」と鋭く言った。手にしたボウガンが、まっすぐ黒田の胸の辺りを狙っていた。そうして言葉に出して黒田を脅したことで、福地をともかくも常識のラインに(それにしても酷い常識だが)とどめていた最後のタガが外れたのかもしれない。福地はその姿勢のまま、「たかだか今年いい成績残しただけで図に乗るなよ」と言った。
「投手なんて野手に助けられてなんぼのもんだろ」
そこまででもう、黒田は完全に頭にきていた。しかし、福地はさらに言ったのだ。
「夏にへたれててエース扱いされるとはご立派な身分だな」
福地が何を考えているのかはわからない。もうまともな思考力を失っているとさえ思えた。しかし、だからといって自分がここまで言われる筋合いは毛頭なかった。お前だって永遠の代走屋のくせして何をほざいている?噴火寸前の怒りは唇の歪みとなって表れた。前々から黒田自身気づいていたが、最高に頭にきたとき、自分はいつもにやっと笑ってしまうのだ。その笑みを福地に向けて、言った。
「―――だから何なんだ?好きでそういう扱いを受けてるわけでもないんだけどな。こんな時に変なことで僻むなよ」
一瞬福地の右眉があがり、そして黒田と同じようにちょっと歪んだ微笑を浮かべた。
「こんな所で僻んでどうする?どうせ俺たちこの島で死ぬんだぜ。けど、のたれ死ぬくらいなら協力して少しでも長く生き延びたほうがお得だといってるんだ。そのエースとかいうくだらないプライドを捨ててな」
―――お前の言う“くだらないプライド”にこだわってるのはどっちだ?少しでも長く生き延びたいのにそうやって人の気持ちを逆なでするように武器をむけるか。おめでてーな。結局自分がかわいいだけだろう?ついに、黒田の口から低い笑いが漏れた。
「いいか、これが最後だ。俺はお前と一緒になんかいたくない。素直にそれを下げて、俺をほっとけ。じゃねーと俺は、お前がただ俺を殺したがってるだけだとみなす。なんなら相手してやる。長く生き延びたいんだろ?死ぬかもしれんぞ」
それでも福地はボウガンを下げなかった。それどころか、肩の高さにまでそれを上げ、黒田を威嚇してみせた。
「こっちこそ最後だ。俺の言う事を聞け」
このままでいけば話は平行線をたどるだろう。もはや、どうなろうと自分には責任が持てない。そこで黒田は、いずれにしてもこのクソみたいな男とのやりとりをさっさと終わらせるために、一歩を進めた。福地はちょっとびびったように身を固めたが、すぐに叫んだ。
「無駄なことはするなよ。俺は今すぐにでも、お前を殺す事だって出来るんだからな!」
黒田は胸がむかむかしていた。ついさっき、福地が「殺したりしないって」と猫なで声で言ったばかりだという事を思い出したのだ。
福地がちょっと間を置き、それから、幾分自慢気ですらある口調で続けた。
「俺はもう、河野を殺したんだぜ」
黒田はちょっとどきっとしたが、眉を持ち上げ、「へえ」と言った。それが本当だとしても―――こんな山の中で隠れていた以上、偶然出くわした河野を殺してしまったというのが正直なところだろう。そしてそのあと、誰か自分より強い選手がやってくるのを恐れて、この山に逃げ込んだに違いない。だがこいつのこと、逃げ回って生き延びた挙句、もし最後に残った相手が自分より弱い相手だったら、“仕方ないじゃないか”とか何とか言いながら、平気で殺してのけるかもしれない。
「考えたんだけどな」
福地が続け、その黒田の推論を自ら裏書きした。
「試合だと思うことにしたんだ、俺は、これを。だから、俺は遠慮しない」
黒田は相変らず、静かに福地の顔を見据えていた。かすかに笑みをたたえて。しかし、嫌悪感と怒りで背筋がむずむずしていた。
「試合か」福地の言葉を繰り返し、そして黒田はにやっと唇を歪めた。
「けど試合なら、チームの戦力はどうあれ、同じモン持って戦うだろうが。道具だけで優位にたって戦うなんて、恥ずかしくないんか?」
それで一瞬、福地がうちのめされたような表情を見せたが、すぐにこわばった感じに戻った。冷たい目が光っていた。
「死にたいのかよ」
黒田が即答した。
「撃ってみろよ」
一瞬だけ、福地が躊躇した。その隙を逃さず、黒田はポケットからそっとつかみ出しておいた小石をその顔に向かって投げつけた。福地が顔を覆ってそれを防ぐ間に、くるっと体を回転させ、デイパックは捨てアイスピックだけを握ったまま、もと来た方へと駆け出していた。

【残り34人】


背後で福地が舌打ちするのが聞こえたような気がした。いつも練習でやっているスタートダッシュで十五メートルたっぷりは離れたと思ったとき、右脚に衝撃が跳ね、黒田は前のめりに倒れていた。頬が湿った土から顔を出した木の根にこすられ切れるのが分かった。続いて襲ってきた脚の痛みよりも、黒田はその、顔に傷がついたという感覚に激怒した。毎週きまって人前で投げる、このローテーションピッチャーの俺の顔に傷をつけやがった、あのクソ野郎!
黒田は体をぐっとひねって土の上に座り込んだ。右脚太腿の後ろ側に、ユニフォームごしに銀色の矢が付き刺さっていた。傷の下側、よく発達した筋肉の上を血が伝い降りていくのがわかった。
福地が追いついてきた。黒田が座り込んでいるのを見てとって、ボウガンをがちゃっと地面に落とすと、代わりにベルトから短い鎖で結ばれた二本の木の棒のようなもの―――ヌンチャクを抜き出し、右手に構えた。その鎖がちゃらっと揺れた。
黒田は地面に落ちたボウガンをちらっと見て思った。お前、後悔するで、それを捨てたことをな。
「お前が悪いんだ」やや息を弾ませた福地が口を開いた。「俺を怒らせるからだ」
黒田は地面に座り込んだ姿勢のまま、福地を睨み上げた。この男、まだ言い訳を探している。全く、よくもまあこんな男と長い間、一緒に野球をやっていたもんだ。
「ちょっと待てや」
黒田はいい、福地が眉根をひそめる間に膝立ちに立ち上がると、背中側に右手を回し、歯を食いしばって一気に矢を抜いた。肉が裂ける感覚が伝わり、それでまた、どっと血が流れ出すのがわかった。矢を放り出すと、福地を睨みつけながら立ち上がった。大丈夫。痛みはひどいが、立つのに障害はない。アイスピックを右手に移した。
「やめとけよ」福地が言った。「無駄だ」
黒田はアイスピックを水平に倒して福地の胸を指した。予告ホームランでもやってるみたいだな、ホームランなんて全く縁がなかったけどな、と全く関係ないことを思って、言葉を発した。
「試合って言ったな。―――相手になってやる。てめえみたいなやつには絶対負けんわ。俺の全存在をかけて、お前を否定してやる。わかったか?理解したか?走るしか能のないやつにはわからないか?」
福地が顔を歪め、ヌンチャクを顔の高さに上げた。黒田もアイスピックを握りしめた。福地との間に、ぎりっと緊張が張り詰めた。体つきはそんなにかわらない。福地には俊敏さは負けるだろうが、タフさなら負けない(そりゃそうだ、俺は全球団見てもナンバーワンの完投能力の持ち主なのだから)。しかし、かなりの深手をおった右脚の傷が気になった。―――まあいい、こいつには負けない。絶対にだ。
いきなり、福地の方が動いた。前へ出ながら、ヌンチャクを斜め上から振り下ろしてきた!
黒田はそれを左手で受けた。二の腕にじいんと痺れが走って、脳の中心まで一気に突き抜けた。その痺れを感じながらも、右手のアイスピックを振り上げた。福地が顔を歪め、跳び退ってそれをよけた。再び、二メートルの距離。黒田の左手はじんじんしていた。しかし大丈夫、骨は折れてない。
第二撃が来た。今度はテニスのバックハンドの要領ですくいあげるようにヌンチャクを振り回してきた。黒田は頭を下げて体を傾かせ、それをよけた。そしてすかさず、その福地の右手首へ向けてアイスピックをふるった。ざっという軽い手応えが伝わり、福地がかすかにうめいて後ろへ退がった。
また距離ができた。ヌンチャクを構えた福地の手首に、赤い色が見えた。しかし、ダメージは大したことないようだ。一方、黒田の右脚の傷は、どくどくと脈打っていた。傷から下のユニフォームがほとんど真っ赤に染まっているのがわかった。多分、そう長くはもちこたえられないだろう。ぜえぜえという音にも気づいた。自分の唇から漏れている音だと、これもわかった。
福地が再び、ヌンチャクを振り回してきた。黒田から見て、頭の左上から、肩口の辺りを狙って。黒田は前へ出ていた。練習中に暇そうな若手を見つけては技をかけている(新井がいればたとえ誰がいてもそっちに走っていったが)金本がいつか教えてくれたことをこの時なぜか思い出したのだ。“間合いを外したらダメージはぐんと下がる。恐れることなく前へ出るってのも時には大事だ”。
肩にヌンチャクが当たったが、その通り、それは鎖の辺りでたいした衝撃ではなかった。黒田は福地の胸元へ飛び込んでいた。驚愕に目を見開いた福地の顔が眼前にあった。アイスピックを振り上げた。しかし、福地が空いた左手で黒田を思い切り突き飛ばした。黒田は傷ついた右脚からバランスを失って仰向けに倒れこんだ。福地が危うく刺されそうになった胸の辺りを左手で撫でながら、黒田を見下ろしていた。
「なんて野郎だ」
そう言うと、ゆっくり体を持ち上げた黒田に、福地はすかさずまたヌンチャクを振り下ろしてきた。今度は顔をめがけて!
黒田はアイスピックを持ち上げ、それを受けた。きいんという高い金属音とともにアイスピックが消え、すぐ近くの土の上に転がった。黒田の手のひらに重い痛みだけが残った。
黒田は唇を噛んだ。福地を睨みつけたまま、後ずさった。福地が口元を笑みの形に歪めて、一歩、二歩と前へ出た。くそ、こいつはまぎれもない異常性格者だ。目の前の人間を殺すことに何の禁忌も持っていない。むしろ、楽しんですらいる!
福地がもう一度ヌンチャクをふるった。すっと上半身を引いて躱し―――しかし、ヌンチャクはその黒田の体を追ってきた。多少その扱いに慣れたという事なのか、福地がなめらかな動きでその腕を伸ばしたのだ。
がん、と左の側頭部に衝撃がきて、黒田の体がぐらっと傾いた。左の鼻腔から、つっと温かい液体が流れ出したようだった。黒田の体が沈みかけていた。福地は、しとめた、という表情をしていたのかもしれない。しかし、そのぐらっときた姿勢のまま、黒田の切れ長の目がすっとすぼまった。体を倒しざま、その脚を伸ばして福地の左膝を外側から思い切り蹴っていた。ごっ、と福地がのどの奥からうめき声を漏らし、左膝をついた。体が泳ぎ、その左膝を軸に体が半回転した。背中が半分見えた。
ここでアイスピックを拾い上げることに執着していたら、黒田は敗れていたかもしれない。だが、彼はそうしなかった。福地の背中に飛びついていた。おぶさるように、その頭を抱え込んだ。体重がかかった勢いで、福地が前のめりに倒れた。
黒田は福地に半ば馬乗りになった姿勢で福地の短い髪の毛をつかんで、その頭をぐいと引き上げた。位置は、もちろんこんなことしたことはなかったが、見当がついた。福地が黒田の意図を理解したのか、反射的に目をつむるのがわかった。
無意味だった。フォークボールを投げる時のようにかまえられた黒田の右手人差し指と中指は、しっかり閉じられた福地のまぶたを割って、福地の眼窩にもぐりこんでいた。
「ああああああああああああああああ」
福地が絶叫した。腕をつき、膝をついた姿勢のままで体を起こし、ヌンチャクからも手を離して黒田の手をかきむしった。体をめちゃくちゃに動かし、黒田を払い落とそうとした。なんなんだ、俺はロデオをやってるわけじゃないんだ、そんなに暴れるなよ。
黒田はしっかり福地に組みついて離れなかった。さらに指を押し込んだ。人差し指も中指も、第二関節までずぶっと福地の目に沈んだ。途中黒田の手にちょっとした衝撃が伝わり、眼球が割れたのだとわかった。思ったより眼窩って小さいんだな、そんなことを考えた。しかし容赦なく、黒田はその指を内側に曲げた。みたことのない液体が、血と混じって変種の涙のように流れ出した。
「うがああああああああ」
福地が声を上げ、体を起こしてめちゃくちゃに手を振り回した。よし、次だ―――黒田はさっと福地から離れると、アイスピックを探した。すぐに見つかり、拾い上げた。福地は喚いて、見えない敵と戦うように(その通りなのだが)腕を振り回している。黒田は右脚を引きずりながらその福地に歩み寄ると、その傷ついた右脚を持ち上げ、福地のがら空きの股間を蹴り上げた。福地が「ぎゃっ」っとうめいて、今度は股間を押さえ、横向きになって胎児のように体を丸めた。
黒田は今度は左足でそののどを踏みつけた。体重をかけた。自分のはいているスパイクが、試合用のものではなく普通の練習時に使ういたってプレーンなものだったのがひどくおしまれた。くそ、刃があれば刺さってただろうに。福地が両腕を伸ばしてその脚をどけようともがき、力なく殴りつけかきむしった。
「たすけ…」
ハァ?おいおい、さっきまでの威勢はどこいったよ?黒田は思った。自分の唇が笑いの形に歪んでいるのがわかった。今度は怒ってるんじゃないな、と思った。楽しんでるんだ、間違いない。ひどい?人でなし?山本監督もよく言ってたじゃないか。まあ、ええことよ。
黒田は膝を折りざま、その福地の口の中に両手で保持したアイスピックを突き立てた。黒田の脚をもぎ離そうともがいていた福地の両腕が、びくっとその動きを止めた。黒田はアイスピックを押した。あまり抵抗なく、それはずぶずぶと福地ののどに沈んだ。福地の体が、胸からつま先まで、背泳ぎのバサロスタートみたいな感じでびくびくと痙攣した。やがて止まった。
右足の痛みが急にぐんと跳ね上がり、黒田は福地の横に倒れ込み、しりもちをついた。自分の口から漏れる呼吸が、短いダッシュを繰り返した後のようにかすれているのがわかった。
勝った。あっけない気もした。実際に格闘したのはほんの数十秒だったかもしれない。しかしもちろん、長くかかっていたら絶対に勝てなかっただろう。とにかく、勝った。何にせよ、とにかく。
黒田は血に染まった右脚を抱え込みながら、見世物小屋の芸人のようにアイスピックをのどから吐き出そうとしている福地の死体を、あらためて見下ろした。なんの感情も抱かず、とりあえず休息をとろうと、ふうとため息をつこうした、その時だった。

【残り33人】


「黒田さん」
唐突に背後から声がかかり、黒田は座ったままばっと振り返った。同時に手を伸ばして福地の口からアイスピックを抜き取り、構えた。東出輝裕(背番号2)が黒田を見下ろしていた。
黒田は東出の右手に視線を飛ばした。大型の自動拳銃がその手の中にあった。東出がどんなつもりでいるのかはわからない。しかし、もし福地と同じようにやる気になっているのだとしたら、勝ち目がない。拳銃が相手では、勝ち目がない。逃げなければ。逃げた方がいい。黒田は再び、痛む右脚を引き寄せ立ち上がろうとした。
「大丈夫ですか?」
東出が聞いた。ひどく優しい声だった。銃を黒田に向けることはしなかった。しかし、安心すべきではない。黒田は後ずさり、手近な木の幹につかまって何とか立ち上がった。右脚が急速に重くなりかけていた。
「ああ」
黒田が一言答えた。東出は福地の死体をまじまじと見つめた。それから、黒田が手にしているアイスピックを見た。
「そんなものだけでやっつけたんですか?すごいですね。なんか、やっぱ違うっていうか」
本当に、心から感心した、という口調だった。それどころかうきうきしているような感じすらあった。チームメイトに囲まれるとまだあどけなく見える顔(そのつくりはどことなく自分に似ていたのだが)の中、目がきらきら輝いていた。それを見ながら、右脚からの大量の出血のせいなのか、体がぐらぐらしているような感じを受けていた。
「そうだ」
東出が言った。
「僕が高校時代に投手やらされてたこと、黒田さん知ってますよね?一応、甲子園でも投げたんですけど」
黒田は東出の意図が読めないまま、その顔を見つめていた(似たような顔が二つ見つめあっているわけだ。知らない人が見たら、ご兄弟ですか?なんて声をかけてくるかもしれない)。
「僕、ちょっとうらやましかったんですよね」
東出が続けていた。
「黒田さん、全球団見渡してもなかなかいないってくらいのピッチャーでしたもんね。ほんと、今まですごいなって思った投手は桑田さんと大輔―――それと、黒田さんくらいだったから」
黒田は黙って聞いていた。何かおかしかった。すぐに気づいた。なんで東出は、過去形で、喋っているのか?
「僕」東出の目がいたずらっぽく笑んだ。
「さっき“やらされてた”って言ったけど、嫌いじゃなかったんですよ、ピッチャー。それで、普通だったら無理ですけど、こんな状態でカープも選手がいなくなってきてるじゃないですか。だから、もしかしたら投げさせてもらえるかもしれない。もしそうなったら、黒田さんみたいなピッチャーになりたいと思うんです。自分じゃわかってないのかもしれないけど、後ろからみててもマウンド捌きとかすごく格好よかったんですよ。で、もしそうなったら黒田さんと一緒に投げられる。こんな大投手と一緒にローテーションが組めるなんて、なんて素晴らしいんだろうと思ってたんですけど…その右足じゃとてもじゃないけどもう無理ですよね、昔みたいなボールを投げようだなんて。だからとても―――」
黒田は目を見開いた。ぱっと体を翻すと、走り出していた。右脚は引きずっていたが、それでも、さっきと負けず劣らず素晴らしいダッシュだった。
「だからとても―――」
東出はコルト・ガバメントをすいと持ち上げた。三度続けて、引き金を絞った。木立の中、ゆるい下り勾配をもう二十メートルばかり向こうまで離れ、なおぐんぐん遠ざかりつつあった黒田のユニフォームの背中、「15」の数字に正確に三つ穴が開き、黒田はヘッドスライディングするように前のめりに倒れた。俯せになったままずずっ、と地面を滑り、左が白、右が赤と鮮やかな対照をなした形のいい脚が宙に跳ね上がった。すぐに地面に落ちた。
東出が銃を下ろし、言った。
「とても残念」

【残り33人】


澤崎俊和(背番号14)は、茂みの中からそっと顔を出した。どのくらいその異様な光景を眺めていたのだろう、額には不快な汗がふきだし、そのせいで短い前髪が額に張り付いていた。
視界のすぐ先に黒田を撃ち終わったばかりのユニフォーム姿があった。野球選手としては小柄なその体、背中にはやや不釣合いな大きな「2」の数字―――東出輝裕だった。東出は銃を持つ手を下ろし、黒田が飛んでいった(あの状態では走って逃げたというより走って飛んだという方が適切だった。そのくらいの勢いだった)ほうを眺めている。
澤崎は息を整えた。寒かったし、その光景に多少同様もしたが、特に気にはならなかった。何しろ、澤崎にとって最大の使命を果たす時がきたのだから。
―――ジオン公国の一員として。
覚悟はいいか、シャア専用澤ザクよ。頭の中、自分をコントロールしてくれる最高のパイロット、シャア・アズナブルが聞いた。その声ははるか海を渡った広島の自室に飾ってある自分の分身(妻から「ただのプラモデルじゃないの」と揶揄されるそれ)から届いてくるようだった。
もちろんです。澤崎は答えた。私はあの悪魔が、酒井大輔と矢野修平を殺して現場から立ち去るのをこの目で見ていたのです。そのあと見失いはしましたが、ついさっき、再び発見しました。そして、野球において自分の最大のライバルであった黒田博樹までもを殺すのを見ました。あの男こそ、倒すべき敵なのです。そのために、ここまであの男を追ってきたのです。
―――よろしい。お前は、自分の使命をわかっていたのだな。
もちろんです。右ひじの手術を受けている最中、そう、あの手術室の幾重ものライトの中、麻酔に身をゆだねながらも私はあなたからのメッセージを受け取りました。私が、いずれジオン公国の独立のために地球にはこびる悪と戦うことになる人間だと。その時はよく意味がわかりませんでした。でも、でも今ははっきりとわかります。
―――よろしい。怖くはないか?
いいえ。あなたの導きに従い、私には何も恐れるものがありません。
―――よろしい。お前は私のために創られた選ばれたモビルスーツなのです。勝利の光があなたを包むでしょう。―――ん?何か?
いえ。いえ。ただ、シャア様。私と同じ使命を持っていたはずのランバ・ラル・ヒロキは死んでしまいました(かつての黒田は、澤崎が「お前はランバ・ラルだな。『ザクとは違うのだよ』とか影で言っていないだろうな」と問い詰めるたびにあくびを隠していたのだが、まあとにかく)。彼は―――
―――彼は最後まで戦いましたよ、ザク。
ああ。ああ。やっぱり。けれど、けれど彼は敗れたのですね、悪に。
―――まあ、そういうことだ。しかし、お前には彼の叫びは聞こえなかったのかい?『見ておくがよい…戦いに敗れるということを。こういうことだー!!』という最期の叫びが。そしてその思いを受け取らなかったのかい?細かいことは気にするな。何より、彼のために戦うんだ。そして、勝つのだ、ザクよ。あの悪に若さ故の過ちというものを知らしめてやるのだ!
澤崎の中に光が満ちた。温かい、すべてを包み込む大宇宙の力を。澤崎は安息の中でもう一度頷いた。はい。はい。はい。
それから、両刃のナイフを鞘から抜き出した。顔の前に両手で構えた。その青い刃に白い光が満ち、澤崎はその光ごしに東出を見た。東出の背中が見えていた。がら空きだった。
―――今だ!今こそ、あの敵を打ち倒すのだ!!
はい!
澤崎は音を立てないように茂みを躱し、だっ、と東出の方へ走った。わずか十五センチのナイフの周りに光が噴き上がり、それは長さ数メートルの剣へと変わった。光の剣は自分たちに立ち向かう地球連邦軍のモビルスーツを真っ二つに破壊するだろう。
東出輝裕は何事もなかったかのようにくるっと後ろを振り返ると、その右手のコルト・ガバメントをもう一度持ち上げ、二度、引き金を絞った。一発目が澤崎の胸に当たってその動きを止め、二発目が正確にその頭を撃ち抜いた。
緩やかにカーブした赤い線をその傷口から空に曳きながら、澤崎はどっと後ろに倒れた。「シャア…私を導いてくれ」と思ったかどうかは定かではないが、ともかく、澤崎は光の国へと旅立っていった。
東出輝裕はあっけなく力尽きた澤崎から視線を外すとその死体に背を向け、その場を走り去っていった。

【残り32人】


遠く五発の銃声がして、河内貴哉(背番号24)も広池浩司(背番号68)も窓の外を見やった。
「あれ―――」
広池は頷いた。
「また銃声だな」
しかし、すぐ作業に戻った。言い方は悪いが、ほかの選手の事を気にしている場合ではなかった。
二人は集落にある、とある家の中にいた。二階の子供部屋と思われる部屋の机で、広池はノートパソコン(河内はパソコンのことはよく知らなかったけれど、普通のものとはちょっと違う形のそれについているリンゴのマークくらいは見たことがあった)と向かい合い、河内は広池が何をしているのかわからず、ベッドに腰を下ろして広池の方を見ていたのだった。その手には広池のベレッタがある。もちろん、ほかの侵入者がやってきたときのためだ。
「広池さん、そろそろ何してるか教えてくださいよ」
じれったげにそう言った。そう、パソコンと携帯電話をケーブルでつないで広池が忙しくパソコンのキーを叩き始めたものの、河内には何の説明もしていなかったのだ。
「ちょっと待っといて―――もうちょっとだから」
広池はさらにキーボードを叩いた。モノクロ画面のほぼ中央、ウインドウの中に“%”だの“#”だのが混じった英文が流れ、広池もそれに応えて打ち返した。
「よし」
最後にデータのダウンロードを指示し、広池は手を止めた。基本操作は当然ユニックスだが、ここばかりはマックに合わせて自分が設計した通り、ダウンロードの進行状況を示すグラフィックが別のウインドウで現れた。広池は腕を上に伸ばし、伸びをした。あとはダウンロードを待つだけだ(もっとも、終わったらログを書き換えて証拠を消さなきゃならない)。そのあとは、データをもとに作戦を練ることになる。単にデータを書き換えてしまうか、それとも独自のプログラムを組んでより巧妙に相手を騙すか。後者の場合ちょっと手間だが、それでも半日もあれば十分だろう。
「広池さん、説明してくださいよ」
河内がもう一度言い、広池は笑むと、自分もパソコンから体を離して椅子の背もたれに体を預けた。我ながらいささか興奮しているなと思ったので、気を落ち着かせるために一つ息をついた。無理もなし、さっきこの家に着いた時はまだはっきりしなかったのだが、今となってはもう―――勝ったも同然だった。ゆっくり、口を開いた。
「とにかく僕は、ここから逃げることを考えたんだ」
河内が頷いた。
「それで」
広池は自分の首を指差した。鏡を通してでないと見ることはできないが、そこには河内の首にあるのと同じ、銀色の首輪がしっかりとあった。
「本当は、これを何とか外したかった。これのせいで僕らの位置は達川さんたちにばれてるわけだ。つまり、今こうやって、二人一緒にいることも。このおかげで僕たちは逃げようとしても簡単に捕捉されるし、あるいは、中の爆弾に電波を送られたら一発で殺されてしまう。なんとか外したかった」
広池はそこで手を大きく開いた。肩をすくめてみせた。
「けど、あきらめた。内部構造がわからない以上、いじりようがない。取ろうとしたら爆発するって達川さんが言ってたけど、あながちうそでもないだろう。多分、起爆用のコードが外装の内側に張り巡らしてあるんだ。それを切ったりしたらどかんといく、そういう感じだと思う」
河内がまた頷いた。
「そこで考えた。ならいっそ、僕たちの捕捉とその爆破用の電波を管理してるあの神社のコンピュータに一働きしてもらおうって。本殿の奥にいろいろ置かれてたの、見てただろ?」
またまた河内は頷いた。というか、頷くしかできなかった。
「で、僕はパソコンを探したんだ。当たり前だけど携帯も持ってる。自分のパソコンがあれば一番よかったんだけど、さすがに練習に持ってこようなんて思わないし。まあ、とにかくこれが見つかったからいいんだけど」
広池が続けるうち、河内はそのパソコンと携帯電話が一体何をしているのかようやくおぼろげに理解し始めたらしかったが、しかし、急に何か思いついたように口を挟んだ。
「けど、電話は使えないって達川さん言ってたじゃないですか。携帯電話は使えてるんですか?」
広池は首を振った。
「いや、だめだった。一回適当に117って押したんだ。そしたら何が流れたと思う?“宮島さんの神主が〜”ってやつだったよ。すぐ切ったけど。この調子じゃ携帯電話の一番近い中継局をおさえてる。多分その電話会社のやつもだめだ」
「じゃあ」
広池は左手の指を一本立てて河内を制した。
「でも考えたんだ。達川さんたちだって外と連絡を取らないわけじゃない。それに、コンピュータだってここだけじゃなくて、きっと他のコンピュータにもつながってるはずだ。コーチが関わってるとなれば、球団も関わってる可能性が大きい。そしたらたぶん、いろんなデータを広島の方に送ると思うんだ。そしたら、それはどうやって送ってる?―――こんな大それたことができるなんて思わなかったけど、たぶん特定のナンバーだけ選択的に通してるように細工をしたと思う」
話が大きくなりすぎて、本当にそんなことが可能なのか河内は疑いたくなった。
「もちろん問題が起こらないとは限らない。―――何事も完璧ってのはないからね。そしたら、もしものために電話会社の人間が回線をいじれるようなことはしているんじゃないかって思ったんだ。そこで、こいつだ」
広池は携帯電話を手に取った。
「貴哉と違って、僕は野球エリートじゃなかったから、ここまでくるのに遠回りをしたんだ。僕がドミニカに行ってたっていうのは、知ってるよね」
河内は頷く。
「どの国にも裏ってもんがあってね。ドミニカでは僕もそっちの方々にずいぶん世話になったよ。その時に、日本の裏事情も色々と教わってきた」
広池が笑みを浮かべた。自分とはどこかかけ離れた、ワールドワイドな話だな、と河内はのんびり思った。
「その時の悪知恵の一つがこれに使われててな、これには電話番号と暗証番号のロムを二種類積んでる。外から見たってわからないけど、ここのネジを九十度回したら切り替えられる。そしてそのもう一つの番号ってのが、ま、もともとインターネット用にタダ電話がかけられれば、って作ったもんなんだけど」
電話から手を離した。
「電話会社の技術職員が使う回線テスト用の携帯電話の番号なのさ」
「ってことは…」
「理解したか?そっからはたいした話じゃない。この持ち主が使ってるケーブルもうまくつながったし、簡単に電話回線に入れた。それから一旦、自分のコンピュータにアクセスして、こういうのは特殊なツールがいるんだけど、それを取り寄せた。そんでここのプログラムを探すのに球団のサーバに侵入していろいろいじってみたら、普通こんなバカげたことしないんだが、作業用のバックアップファイルを残してたんだ。まあ細かいことはややこしいから説明しないけど、その中に一つ意味ありげな暗号文字があった。その解析は昨日のうちにやった。それが、これだ」
広池はパワーブックに手を伸ばし、通信状態はそのまま、別のメモファイルで開いて、ばかでかい表示で河内に見せた。
“tachukawa-michuo”
「タチュカワ?」
「そう。わざわざ子音の入れ替えで複雑にしてあるんだけど、とにかくこれがルートのパスワードってわけ。これがわかれば後はやり放題。それで今、神社の中にあったコンピュータの中のデータをまるごと頂戴してるところなんだ。僕はそれをいじって再度あそこのコンピュータに入り、まずはこの首輪を使えなくしてやろうと思ってる。そしたら禁止エリアも何も関係がなくなるから、あとはみんなを探して逃げればいい。なかなかだろ?」
もはや、河内は放心したような表情をしていた。
「すごい」
広池はその反応に満足してにこっと笑った。何にせよ、自分の能力を誰かに褒めてもらうというのはうれしいことだ。
「広池さん、なんで、広池さんみたいな人が野球選手やってるんですか?」
河内が放心したような顔のまま、広池に聞いた。
「ははは、くだらないこと聞くなよ」
笑顔で河内を見つめると、言葉を続けた。
「野球が好きだから、野球選手になりたかったから、なったんじゃないか。お前だってそうだろ?そりゃ、貴哉は高校時代から注目されてた人間だから、その辺の苦労はなかったのかもしれないけどさ。野球がなかったら僕だってこんな知識持ってないかもしれないし、その辺は偶然の積み重ねでこんなことになっちゃってるけど、どんな知識を持ってたって、僕も貴哉も同じ野球選手に変わりないよ」
わかったか、と言おうとしたその時―――ぶん、という音がした。広池は眉根を寄せ、いささか急いでパワーブックに視線を戻した。なぜならその音は、マッキントッシュ標準の警告音だったからだ。そしてその画面を見て、目を見張った。そこに出ているメッセージは、電話回線が切断され、ダウンロードが中断した旨を告げていた。
「―――何でだ」
広池の口から漏れた声は、うめきに近いものだったかもしれない。慌てて、キーボードを操作した。しかし、回復はできなかった。一旦ユニックス用の通信ソフトを終了し、別の通信ソフトでモデムから電話をかけるための操作を行った。
“回線がダウンしています”のメッセージが出た。何度やっても同じだった。モデムと電話の接続がおかしくなった様子もない。それで、今度は逆にモデムと携帯電話の接続を無効にしておいて、直接携帯電話のプッシュボタンを押してみた。とりあえず再び117を。しかし―――携帯電話はもはや、何の発信音も伝えてこなかった。ばかな。広池は携帯電話を握りしめたまま、今はただ停止しているパワーブックの画面を茫然と見つめていた。
ハッキングを気づかれたわけではない。そもそも気づかれないようにやるのがハッキングなのだ。そして、広池には十分その技術があった。
「広池さん?どうしたんですか?」
河内が声をかけていたが、広池は答えることができなかった。

【残り32人】


背中から三発の弾丸を撃ち込まれた後三十分以上経っていたにもかかわらず、また、その傷及び福地寿樹にボウガンを撃ち込まれた脚の傷から大量に失血していたにもかかわらず、黒田博樹はまだ生きていた。東出輝裕はとっくに立ち去っていたが、いずれにしてもしれは黒田の知るところではなかった。
黒田は半ばまどろみ、夢を見ていた。家族が―――父親と母親、それに六つ年上の兄が、シャッターの閉まった実家のスポーツ用品店の前から黒田に手を振っていた。今日は阪神ファンにシャッター壊されてないな、とまず思った。ふと見ると、兄の英彦が涙を流しているのがわかった。「さよなら、博樹、さよなら」と言っていた。元プロ野球選手で八十近い歳なのに大柄な父親と、黒田がその顔の大方の特徴を受け継いだ母親は、ただ哀しそうな顔をして黙っていた。あほやなあ、と黒田は夢の中で思った。ろくでもないな。俺、まだ二十六年しか生きとらんのやで。兄貴、親父とお袋の事、頼むな。自分の家族ばかりにうつつ抜かしとったらあかんで。
あーあ、ほんまろくでもない。まだめぼしいタイトルも何もとってないのになあ。
それで、場面が変わって市民球場のマウンドの上に立っていた。ああ、これは幻想じゃない。実際にあった場面だ。これは―――野手陣が集まっていた。1回表の相手チームのスコアボードには「5」の数字が入っている。二、三年前のマウンドだな。いつの試合かわからない程、初回大量失点を当たり前のようにくり返していた。ベンチからコーチがやってくる。あれは大野さんだ。ということは、これは一昨年か。笘篠さんがまだ00番のユニフォームを着ていた。そうだ、笘篠さんはセカンドを守ってたんだ。ああ、赤い33番のユニフォームを着た江藤さんもいる。外野から金本さん、緒方さん、前田さんがあきれたようにこっちを見ている。この三人が揃ってるのもなんだか久しぶりに見た。でも、やっぱりいい外野陣だな。
場面がまたまた変わった。これは、まだ試合前の練習中だ。
「黒田、俺がいなくなるんだから、お前が投げる試合は全部勝てよ」
声をかけてきたのは佐々岡さんだ。そうだ、佐々岡さん、抑えに回るんだっけ。それじゃ、これは今年の風景だ。
「そんなプレッシャーかけないでくださいよ。なんで抑えなんか引き受けるんですか」
「俺だって先発やりたいよ。けど自分の都合よりチームの事を考えるとな、やっぱり断れないだろう?」
そうだよなあ。いくら自分の希望があっても、それがチームの望む方向にないのなら俺だってチームの方針に従うもしれない。変なこと言っちゃったなあ、佐々岡さんに。
自分を心配する佐々岡の顔が浮かんだ。泣いていた。
「黒田、死ぬな」
何なんですか、いきなり。泣かないで下さいよ。建さんじゃないんですから。いっそ俺まで泣きじゃくって、チームの三本柱を泣き虫で結成しましょうか。相手チームに(特に紳士球団巨人のお行儀のいいミナサマに)散々野次られそうですけどね。
神のいたずらというやつなのか、黒田はもう一度だけ覚醒した。ぼんやり目を開けた。朝のやわらかい光の中で、佐々岡真司(背番号18)が自分を見下ろしていた。最初に思ったのは、佐々岡が泣いていないという事だった。疑問はその後でやってきた。
「どうして…」
自分の唇から漏れる声が、錆びついたドアを無理矢理こじあけるような感じだった。それで、ああ、もう長くは生きられない、と確信した。
「…ここにいるんですか?」
佐々岡は、「ちょっとな」とだけ言った。佐々岡は黒田のそばに膝をついて、黒田の頭だけをそっと支え起こしてくれているようだった。自分は俯せに倒れたはずだが、仰向けになっている。近くの茂みに佐々岡が運んでくれたのか、右てのひらに下草の感覚があった(左手は―――いや、左半身全体が痺れていて、何も感じなかった。福地寿樹に側頭部をぶんなぐられた、その後遺症かもしれない)。
佐々岡はそれから、静かに「誰にやられた?」と聞いた。そうだ。それは、重要な情報だった。「東出」と黒田は答えた。福地の事は、もうどうでもよかった。「気をつけて」の言葉に、佐々岡が頷いた。それから、「すまんな」と言った。黒田は何のことかわからず、じっと佐々岡の顔を見つめた。
「俺、今日の朝、お前が走ってるのを商店街ぬけたところで見たんだ。けど、あのとき、銃声が聞こえて、一瞬だけ気をとられてしまった。それで―――お前、全速力で走っていっただろ。見失ったんだ。お前の消えた方へ走って呼んだんだけど―――もう、遠くへ行った後だったんだろうな」
黒田は、ああ、と思った。確かに、隠れている家を出て走り出してしばらくしたときに、何かかすかに声が聞こえた気はしたのだ。でも、銃声でなかば混乱していて空耳かと思ったし、そのまま全速力で走りぬけたのだ。
ああ。佐々岡は自分を呼んでくれたのだ。危険を冒して、あんな誰が隠れているか
わからないようなところで、自分を呼んでくれたのだ。それで多分―――さっき佐々岡は“ちょっとな”と言ったけれど、自分の事をずっと探していてくれたのかもしれない。そう思うと、黒田は泣きそうになった。しかし、かわりに顔の筋肉を何とか動かして、笑みをつくった。
「そう―――だったんですか」と言った。「ありがとうございます」
黒田は、もうあまり言葉を喋れないのがわかっていたし、何を喋るべきか選ぼうといくつか考えていたのだけれど、全然どうでもいいことが頭に浮かんで、それを口に出してしまった。
「佐々岡さん、俺―――エースになれますか?」
佐々岡は静かに眉間にしわを寄せて、「そうだなあ」と少し考えるように言った。
「年間通して勝つことはできないし、四球は多いし、一発病だし、何回も打球を足に当ててコーチやトレーナーを心配させすぎるし、まだまだだなあ」
「そうっすか…」
中には佐々岡に当てはまるようなものもあったが、それはあえて言わず、黒田は一つ、大きく息をした。奇妙にとても冷たく、そしてなぜか同時にとても熱く感じられる体の中に、じわっと毒が腫れ上がるような感じがした。
「もしよかったら、もうちょっとこのままでいてもらえますか?すぐ…終わるんで」
それで、佐々岡が唇を引き結ぶと、黒田の上半身を起こして、自分の右腕を黒田の背中に回してその体を自分の肩に預けるようにおいた。黒田の首がぐったり後ろに倒れそうになったが、それも佐々岡が支えてくれた。まだ―――まだひとこと言えそうだった。
「佐々岡さん、来年はずっと先発ローテにいてください」
―――もう一言いけるかな。黒田は佐々岡の顔を覗き込んで、にっと笑った。
「最後には、佐々岡さんを追い抜いて、俺がカープのエースになりますから」
「わかった」と佐々岡が言った。「けど、そんなに簡単にその称号は渡さんからな」
黒田はふっと笑み、わかってます、と言いたかったのだけど、もうのどから十分な息が出なかった。ただ、佐々岡の顔をずっと見つめていた。感謝していた。少なくとも、俺はひとり寂しく死ぬわけじゃない。最後に一緒にいてくれる誰かが、佐々岡さんでよかった。本当によかった。
その姿勢のまま、黒田博樹は、約二分後に死んだ。目は最後まで開いたままだった。佐々岡真司は、生命を失ってぐたりと全身を自分の肩に委ねている黒田の体を支えたまま、しばらく、泣いた。

【残り31人】


人気のない道路の真ん中でなぜかテニスのラケットを振っている選手がいた。林昌樹(背番号53)である。毎日欠かすことのない朝のトレーニングをここでもやっていた。
デイパックを受け取った林は住宅地に一目散に逃げ込んだ。一晩寒空の下布団一枚だけで寝かされていた事もあって、数日前からひいていた風邪が悪化したのである。もう寒い中外で過ごすのはごめんだった。適当な民家に飛び込んで中から全ての鍵を閉めると、物色して探し出した風邪薬を飲み、一日ぐっすりと寝たのであった。おかげで体調も大分回復し、その家の子供部屋と思われる部屋から見つけてきたラケットでいつものトレーニングをしていたのであった。こんな早い時間だったら大丈夫だろうと外へ出て。
テニスのラケットを振っていると林は無心になれた。これのおかげで自分は今年一軍に上がることが出来たのだ。二軍に落ちた後もラケットを振ることだけはやめなかった。やり続けることでもう一度一軍にあがれるという希望を持ちつづけることが出来たからだ。それはきっと来季も同じであろう。もっとも、ここから無事に広島に戻れればの話だが。
どれだけラケットを振っただろうか。ふとその手を止めた。ひんやりとした朝の風が顔を流れる汗に触れて心地良かった。これが宮島でなかったら、いつもの朝とかわらない。
ふいに自分の後ろで何かが落ちる音がして、林は慌てて振り返った。
「…いた」
林の視線の先にいた男はただ一言呟いた。一瞬西山秀二(背番号32)かと思ったが、すぐにそれが間違いだと言う事に気づいた。
「カズさん?」
足元に自分のデイパックを落としたまま、木村一喜(背番号27)が立っていた。とりあえず武器を持っていないか確認したが、それらしきものは見当たらなかった。もちろん、林にも攻撃する気などなかった。ただ、立ち尽くしている木村に対してどう反応してよいのかわからず、黙って木村を見やるよりほかなかった。まるでそこだけ時が止まったかのように、しばらくの間お互いただ立ったままだった。その沈黙を破ったのは木村だった。
「トレーニングか。もう無駄かもしれないのに」
「そうかもしれないけど」
「なら何で」
「何でと言われても…頭では無駄だとわかってるつもりです。だけど、もしかしたらこのゲームが突然終わるんじゃないかとも思えるんです。このまま広島に戻れて、無事に来年のシーズンも戦えるなら…」
言っていることが滅茶苦茶なのは林自身理解していた。銃声も聞こえる。決まった時間に放送も入る。チームメイトはだんだんと少なくなっている(その放送を信じるならば、だ)。このゲームが突然終わりを迎えるなんてまずないだろう。それでも、それでも―――。
「そうだな―――帰れるかもしれない」
木村の口から漏れた一言に林は妙な違和感を感じた。―――なぜ同意したんだ?てっきり楽観視しすぎだとでも言われると思ったのに。それともカズさんは帰るための方法を知っているとでも?
「キャッチボール、せんか?」
さっきまでの話題とは全く関係のないその言葉の意味さえ理解することができず、いぶかしげな表情を浮かべた林は木村に視線を戻した。
「いや―――やらせてください、だな」
何か思うところでもあるのだろうかと自然に思えるくらい、その言葉はずっしりと重たく響いた。木村が何を目的としているのかは林にはわからない。でも、その呼びかけにのらない理由もなかった。
「ちょっと待っといてください。グラブとってくるんで」
林はそう言うと一旦家屋の中へ戻った。荷物の中からグラブを引っ張り出して、念のために支給されたスタンガンをポケットの中へ突っ込み、再び外へ出た。木村もキャッチャーミットを左手にはめ準備は出来ていた。
「やるか」
木村のその一言でキャッチボールは始まった。グラブから聞こえる「バシッ」という音と、右手でつかみなおしたボールの感触がやけに心地良い。
「なんか懐かしい感じですね」
林はそう木村に声をかけたが、返事は返ってこなかった。どことなく神妙な顔つきでボールを受けて、投げる。普通ならそんな辛気臭い顔をしないでくださいと叫んでいるかもしれなかったが、こんな状況だから何があったとしてもおかしくはない。それを聞こうなんて野暮なことをする気も林には全くなかったので、木村に合わせて黙々とボールのやり取りをすることにした。二人とも無言のまま、しばらくそのキャッチボールは続いた。木村から返ってくるボールとグラブのぶつかる音がだんだんと響きのあるものにかわってきている。―――自分に向かって投げられるボールの勢いが増している?
「林」
ボールを受け取った木村が林を呼んだ。
「座って構えてもらっていいか?思い切り振りかぶって投げたいから」
それは普通ピッチャーがキャッチャーに頼むことでしょう、と心の中では問い返した林だったが、「わかりました」とだけ返事をしていつも木村がやるみたいにグラブを(キャッチャーミットではないが大丈夫だろう)ど真ん中に構えてみせた。それを見届けて木村は何も言わずセットからオーバーハンドのフォームでボールを投げた。
重いストレートが林のグラブにおさまった。そのボールを受けた林は、ただ自分の左手に電流のように走った痺れを感じるだけだった。そしてやや間があって、それからふと我に返って言った。
「ストライクです。―――木村さん、ピッチャーでもやれるんじゃないですか?」
その言葉を聞いて木村はほんの少しばかりの微笑を見せ「ありがとう」とだけ言った。そして、左手のミットを外した。
「俺、そろそろ行くわ」
「え、行くって、どこへ?」
その質問には答えずに木村はミットをしまうと、デイパックを担いだ。
「会えたのが林でよかった」
またも即座に理解できない一言をかけられて、林には返す言葉がなかった。
「林と最後のキャッチボールが出来て、よかった」
木村はそう言うと林に深く一礼をして、逆方向へ歩き出した。“最後”という言葉とあいまった木村の後姿を見ていると、そのまま木村が帰ってこないような気がして、不安になって無意識のうちに林は叫んだ。
「待ってるんで」
その言葉に木村の足が止まる。
「何するかしらないですけど、ここで待ってるから帰ってきてください」
木村は少しばかり立ちどまっていたが、その言葉を断ち切るかのように走り出し、やがて見えなくなった。木村が投げたボールを握りしめたまま、林はその姿を見送った。わけもなくあふれる涙で目に映る風景が歪んでいた。

【残り31人】


「何じゃ?誰もおらんじゃないか」
ぶつぶつと不機嫌そうに独り言を呟き、大下剛史は歩いていた。この宮島に選手たちが集められているという話が嘘だと思えるほど、周囲は静まり返っている。もちろん、人の気配がないというのは普通の街並みとしてもおかしい光景ではあるのだが。
実は大下が歩いている道に面して存在する住宅地は、あの矢野修平(背番号66)や酒井大輔(背番号67)が隠れていたそれであって、彼らの死体は意外と近くにあったはずなのだが、それを大下が知る由もない。球団事務所で受け取った書類は彼らの死を伝えていたが、二人を殺めたのが他でもない東出輝裕(背番号2)であることさえ、この時点では大下は想像することもできないのだから。
「しかし―――」
大下の右手にそびえたつ学校の校舎にちらりと目をやった。
「―――誰もおらんじゃないか」

「名古屋に行くのが憂鬱じゃのう」
昨日のユニフォーム姿とは一変し、ラフな服装になった達川光男(前監督)はゲーム進行のためのミーティングが終了してから、幾度となくそう呟いていた。
「仕方ないだろう?片岡なんかはともかく、大野は解説もこなしてるし現場復帰も絶対ありえる人材なんだから、知らせないほうがおかしい」
「そりゃそうじゃけど詰め寄られたりしたらかなわんけえ。よりにもよって次の試合は確実にバッテリー組むことになっとるし」
「その辺は阿南さんがうまくやってくれるはずだから。三村さんや外木場さんもいるんだし、そう一人で抱え込むな」
「ならええんじゃけど、わしがこのゲームの指揮をしとることを阿南さんが伝えてしもうたら、あの正義感の塊が何を言い出すかわからんけえねえ。ああ、マスターズリーグなんて参加するんじゃなかったわい」
これからゲームの存在を知ることになる大野との再開に脅えきった達川を見て、北別府学(投手コーチ・背番号73)はやれやれといった感じで一瞥すると、松原誠(チーフ兼打撃コーチ・背番号71)のもとへ足を運んだ。
「―――黒田が赤字になってますね」
「ついさっき首輪の電波が途絶えてな。私から見ても惜しい選手だったと思うが」
たしかに、まだ細かい改善点はあったが、それでも黒田は広島のエースになったと言ってもよかった。しかしとうとう、そのエースも消えたか。
北別府の心にはそれだけしか浮かばなかった。何の感情もわかない自分にやや驚きはしたが―――しかし、競争なんてこんなものだ。
「なんだこれは」
松原の一言に北別府は再びモニターに目を移した。

「それを降ろせ、木村」
「山崎さんこそ、その構えてるやつを降ろさないと巻き添えにしますよ?」
普通は猟銃とでも呼ばれているだろうその銃を構えつつも、山崎隆造(一軍守備走塁コーチ・背番号76)は焦っていた。―――なんで俺が見張りをしてるときに来るんだ、この馬鹿は。ちくしょう、俺はまだ人殺しになんかなりたくないぞ!だけど、ここで始末しなかったら俺たちが死んじまうじゃないか!どうすりゃいいんだ。
“この馬鹿”というのは山崎の目の前で右手にライター、左手にダイナマイトを持って構えている木村一喜(背番号27)のことだった。ゲームを動かす機械と、このゲームを進行させている達川をふきとばすから入り口を通せと言うのである。通せといわれて「はい、そうですか」と通す見張りなんているはずもなく、それを阻止するため山崎は見張りの当番がきたコーチに渡される猟銃を木村に向けて構えていた。
二人は極度に張り詰めた空気の中お互いを見つめあっていたのだが、その中で山崎は焦りと、そして迷いを感じていた。―――こいつが来たら俺は撃つべきなのか?通すべきなのか?このゲームは結局なんなんだ?
「うわあああああああああ」という声にその思考がフリーズした。突撃してきたのだ、木村が。引き金にかかった指に汗を感じる。―――どうする、どうすればいい、俺は?
「撃て!!」
突然後ろからかけられた声に山崎は思わず引き金を引いた。自分の意志ではなく、反射的にではあったのだが、瞬間、予想以上の衝撃が山崎を襲い、ドンともちをついた。上半身を支えきれずに、軽くではあったが後頭部も地面に打ち付けた。それで自分のしたことに気がついて慌てて起き上がったのだが、自分とは違い、木村が起き上がることはなかった。山崎の放った銃弾はちょうど木村の左頬のあたりから斜め上に向けて頭を貫通して、それと一緒に木村の脳や眼球、その他もろもろが吹き飛んでいた。間違いなく、即死だった。
「今時特攻隊もどきをやるやつがおるとは考えんかったな」
再び後ろからした声で気がついたことだったが、後ろには松原が立っていた。―――ああ、あの「撃て」の声はこの人だったのか。命令する方は何とも思ってないだろうが、俺はとうとう人を殺してしまった。どうしてくれるよ、松原さん?
松原に対していい思いはしなかったが、「あれは他に始末させるから、少し休んだほうがよかろう?」との松原からの促しには体が素直に反応した。何を考えるにしても、とにかくこの場からは離れたかった。
本殿に向かう時に松原は一言だけ吐き捨てた。
「木村は多少、“気”の出過ぎだったな」

【残り30人】


長谷川昌幸(背番号19)はいつも持ち歩いていたガム(いたってシンプルなミント味のそれ)を噛みながら川沿いを茂みに隠れて移動していた。長谷川も一晩を商店街に程近い民家で過ごした。ちょっと不自然かな、とも思ったが雨戸を閉め、それから六畳ほどの居間でテレビを見た。音が漏れるといけないので消音にしないとしょうがなかったが(イヤホンを探したけれどもその類いのものは見当たらなかった。―――そこまでことがうまく運ぶわけもないか。テレビが見られるだけでもありがたく思わないと)、ニュースなどはそのテロップでだいたいの内容を知ることができた。
地方版のニュースで「広島湾異常潮流続く フェリーも欠航」というテロップが出た時に、長谷川は驚いた。そんなニュース、俺らが広島にいる時には全くなかったじゃないか。だいたい船も出せないほどだったら、俺たちはどのようにしてここまで連れてこられたんだ?宮島に住んでる人間はどうやって消えたんだ?―――もしかして、このゲームはカープだけの問題じゃなく、広島すべてを動かしてる?
長谷川には答えを見出せなかった。見出したくもなかった。その答えには長谷川には想像もつかない何か大きなものが隠されているような気がして、鳥肌がたった。冷や汗が出てきた。即効性の毒が体に回るように、言い表せない不安が自分の体を包み込むようだった。
深夜番組を見ていて(本当に見るだけだったが)ふと水が飲みたくなった。台所へ行くと、シンクの上のすりガラスの窓の外、何か空全体が光っている。しばし考え、窓を開けた。小さな窓だったので全てを理解するのはちょっと難しかったが、どうも山頂付近から何か火の手が上がっているような感じだった。山火事?それとも山頂にある建物でも燃えているのだろうか?
長谷川には何の関係もない出来事だったが、気になった。何が起こったのか見に行きたい。もちろん危険であることはわかっているけれども、みんながみんな殺し合いをやっているわけじゃないだろう。自分が下手に出ていれば、攻撃されることもないだろう。そう思って朝食のあとにそこを出たのだった。
山は意外に高いのか、結構歩いてるのにと思うのだけれど、山頂に着いたような気配はなかった。途中で川を発見し、それにそって歩いているから、もしかしたらちょっと遠回りになっているのかもしれない。
長谷川は足を止めた。噛んでいたガムを吐き捨てると、デイパックの中からペットボトルを出し、水を口に含んだ。―――うまい!そこまで疲れてはいなかったけれども、それでも全身がリフレッシュするような冷たさと美味しさがあった。
水の音はかわらずさあさあと耳に心地良かった。なんなら顔の汗でも流そうか。そう思って茂みの中から川へ出たのだが、流れる水を見てぎょっとした。無色透明のはずの水の中に、一本、少し太めの赤い水の帯があった。これは―――その正体を本能的に感じ取って長谷川は視線をあげた。ほんの数メートル先、岩に誰かの上半身が倒れこんでいるのが見える。我を忘れて長谷川は川の中を駆け登った。ばしゃばしゃとはねる水のことなど気にもならなかった。
岩まで駆け寄ってその倒れこんでいる選手を見て驚いた。
「倉さん!」
そう、そこにいたのは今年途中までバッテリーを組んでいた倉義和(背番号40)だった。そのユニフォームの後ろ側には二個の穴が開いていて、それとは逆、胸のほうから流れ出る血が、綺麗な川に赤い帯を流していたのであった。長谷川は倉の体を揺らしたが、まだ温かさは残っていたものの、倉が反応を返すことはなかった。
長谷川は茫然とした。―――なんで?どうして死んでるんですか、倉さん?
長谷川の意識が一発の銃声で戻ってきた。一瞬の事で長谷川は立ち尽くしたままだったが、その弾は長谷川をかすめて倉の首の付け根辺りに命中した。びくっと体を震わせ、おそるおそるその弾の出所と思われる方向を見た。
長谷川のほぼ右斜め前、茂みの中に一人の選手が立っていた。長谷川と似た体型にぼさぼさの髪。今年広島にトレードでやってきた鶴田泰(背番号17)が拳銃を構えて立っていた。

【残り29人】


滝のほとりから場所を移し、三十メートル程下った辺りの茂みの中に新井ら三人は隠れていた。木村のトカレフを合わせ、一人一つずつ銃を持っていた。移動してきた後、まだ木村の死が頭を離れないのか、誰も口を開かず沈黙だけがその場を包んでいた。
「なんでこんなゲームなんかやらされてるんだろう、俺たち」
ふいに森笠が口を開いた。
「そりゃ理由は達川さんが言ったけれど、でもどうしても納得いかない。俺たちを試したいんだったら、他にいくらでもやり方はあるはずなのに…」
「そうだな」
前田の言葉に二人が反応した。
「オフをなくすとか、ゴルフをさせないとか、無休キャンプをやるとか、うちのチームならなんでもやりそうだ」
冗談なのかそうでないのかいまいち判断しにくい台詞にどう反応していいか、新井にも森笠にもわからなかった。
「けどな、それじゃ駄目なんだ。新井、このまま選手が死んでいったらどうなる?」
「え?―――数が、減ります」
「あほ、それは誰でもわかる。減ったらうちのチームはどうなる?」
「…いや、チームっていうか、チームにならないじゃないですか」
前田はただ押し黙ったまま、新井を見つめている。その横から突拍子な声がした。
「あ」
「わかったか、森笠」
「けど、別にこんなゲームで選手の存在まで消し去らなくても、他のチームに引き取ってもらうとかあるじゃないですか」
「まあ二十年くらい前の年俸だったら、どこも余裕はあるじゃろう。けど、いまじゃ年俸なんか億単位が当たり前になってきとる。正直言ってどこの球団もいっぱいいっぱいだ。まあ、それでも、いいプレーヤーはほしがられるが」
「じゃあ」
「―――今のプロ野球界何でもありだ。特に金を持ってる球団が裏でいろいろやってくる。金本や緒方なんかツバつけられそうなもんだ。そう思ったんだが、みんなこのゲームに参加させられてる」
森笠はだいたいのことがわかったようだが、新井にはいまいちピンと来ない。
「まさかとは思ったんだが―――その裏工作の得意なあそこも、うちと同じ目にあってたら?」
「それはないでしょう。かりにも球団の盟主なんですよ」
「そりゃそうだ。しかし、前にあそこのおっさんは1リーグ10球団にしろと吠えたことがある。今年はオーナーを降りるとも言っとったな。そりゃ結構なことだが、あのおっさんが他人色に染まったチームを見たいと思うか?わしは無理だと思うがな」
苦笑して、前田は言葉を続ける。
「だとしたら、オーナー降りるついでに球団ごとなくしてしまえばいい。いまやあのおっさんの戯言には誰も逆らえん」
森笠の顔がこわばった。そんな夢物語みたいな話、あるわけがない。そう思いたかったが、人物が人物だ。もしかしたら―――
「けど、僕たちの立場は?」
「そんなもんどうだっていい。クジでも何でも、決めようと思えば決めれるし、うちはあそこには何度か潰されかけた事もあったらしいけえ、その影響もあるかもしれん」
森笠の思いつめたような顔にちらっと視線を向け、前田は最後に一言、言った。
「そう思い込むな。あくまで、想像だ。今のわしらには現実を知ることはできん」
「あの―――」
新井が横から口を挟んだ。
「―――今、何の話してるんですか?」
その瞬間森笠は開いた口がふさがらなくなり(まさに言葉どおり!素晴らしいポカン口だ)、前田はこりゃダメだと言わんばかりに頭を両手で抱え込んだ。しかしすぐに顔を上げると、いつもの眼光で新井をきっと睨んだ。
「…このド阿呆がっ!だから選手がいなくなるってことはな―――」
説明の言葉を続けようとしたその時だった。銃声が連続した。二発、三発。先に鳴った銃声の方が、わずかに音の響きが大きいような気がした。また一発響いた。今度は小さいほうの音だ。
「銃撃戦だな」軽い舌打ちの後、前田が言った。「元気な連中だ」
当座自分たちに危険がないとわかりほっとした新井だったが、しかし、知らず知らずのうちにも唇を噛んでいた。また誰かと誰かが殺しあっている。しかも、すぐそこでだ。そして、自分はここで息を潜めてそれが終わるのを待っている。
「止めに行こうなんて思ってないだろうな、新井」
前田が新井の思いを見透かして(何を考えているか本当に簡単にわかるな、こいつは)言った。新井はごくっと唾を飲み込み、やや口ごもるように「いや…」と言った。けど―――
また銃声がした。そして再び沈黙。新井はぐっと奥歯を噛み締めた。右手にはスミスアンドウエスン。
「あ、こら」
前田が言うのが聞こえたが、新井はもう駆け出していた。

【残り29人】


反射的に駆け出した後、新井は四方に目を配りながら斜面を上がった。目の前は深い藪に覆われていたが、それをかきわけ進んだ。そうしているうちにも銃声は交錯していた。
上り勾配の斜面が急に行き止まりを迎えて、その先を見た。斜面の下には川が流れていて、その向こうの藪に隠れるように、鶴田泰(背番号17)が姿勢を低くしていた。そしてその鶴田がうかがっているのは、川を挟んだ先の茂み(つまりは新井と地続きなのだが)、華奢なユニフォーム姿が見え、それが長谷川昌幸(背番号19)だとわかった。もちろん、二人とも銃を手にしていた。二人の距離は、川を挟んで十メートルもないだろうか。どういう状況で撃ち合いになったのかはわからなかった。しかし、この光景をただ指をくわえて見ているわけにはいけなかった。少なくとも、これをやめさせなければ。
そうして状況を見て取っているうちにも、長谷川が鶴田に向けて一発撃った。何だか、子供が水鉄砲で遊んでいるような手つきだったが、それが水鉄砲ではない証拠に銃発音が響き、真鍮の小さな薬莢が空に舞った。鶴田が二発続けて撃ち返した。こちらの方は随分堂にいった撃ち方で、薬莢は飛ばなかった。一発が長谷川の近くにあった木に当たり、乾いた木皮がくずとなって上がった。長谷川が慌てて頭を引っ込めた。
新井の位置から鶴田のほぼ全身が見えており、鶴田がリボルバーのシリンダーを開き、空薬莢を排出するのが見えた。それで、鶴田の左手が真っ赤に染まっているのがわかった。腕のどこかを長谷川に撃たれたのかもしれない。その手で、しかし、かなり素早い動作で新しい弾を詰め直した。また長谷川の方へ身構えた。
それもこれもわずか数瞬の事だったが、新井は行動を起こす前に、悪夢を見ているような感覚に襲われた。長谷川は今年やっと花開いたピッチャーで(阪神戦には強いな、と北別府コーチから半ばからかいともとれる言葉ももらっていたが)九勝をあげていた。一方の鶴田は紀藤真琴とのトレードでカープにやってきて、途中怪我はあったものの要所要所の試合でナイスピッチを見せていた。二人とも来年も先発ローテを期待されていた投手なのだ。その二人が撃ち合っている。真剣に、それも実弾でだ。当たり前だが。
―――そんなことを悠長に考えている場合じゃない。
新井は脚に力をこめて立ち上がると、空に向けてスミスアンドウエスンを一発撃った。なんだが西部劇に出てくる保安官みたいだな、とちらっと思い、しかし間髪いれずに叫んだ。
「やめてください!」
鶴田と長谷川がぎくっと凝固し、同じタイミングで新井の方を振り返った。新井はその二人の顔を見ながら続けた。
「撃ち合いなんかしないでください!俺は前田さんと森笠と一緒にいるんです!信用してください!!」
なんと陳腐な台詞だろう。しかし今の新井にはそこまで考えている余裕はなかった。
すぐに新井から視線をはずし動かしたのは鶴田の方だった。再び、相対する長谷川へと。そして―――長谷川はぼんやり突っ立って、新井の方を見ていた。新井はその一瞬に気づいた。長谷川の体は半分茂みから露出し、がら空きだった。完全にノーガードになった長谷川に向けて、鶴田が銃を構え、撃った。二発続けて。
一発目が長谷川の右の肩口に当たり、長谷川の体がくるっと右に半回転した。二発目が半回転したことによって鶴田のほうを向いたその左胸をとらえた。新井は見た、長谷川のその胸から噴水かなにかのごとく赤い血が勢いよく噴き出るのを。長谷川は茂みの中へどっと崩れ落ちた。鶴田はちらっと新井を見やり、すぐに身を翻すと川とは反対の方へ走り出した。茂みに飛び込み、新井の視界から消えた。
「―――くそ!」
新井はのどの奥からうめき、迷った後、長谷川の倒れた茂みへと走った。長谷川は茂みの中仰向けに倒れていた。自分の手で左手の傷口をおさえていたが、血は止まることなく流れ、長谷川の左手も赤ペンキの缶につっこんだように赤い液体にまみれていた。新井はかけよったが、もう虫の息だった。
半開きの目で新井の姿を確認した長谷川が「倉…さんが…」と呟いた。聞き取ることが出来ないようなか細い声で。
「倉さんがどうした?」
新井は必死に長谷川に問いかけたが、長谷川からの答えは返ってこなかった。ふうっと一つ息を吐いて、そのまま息絶えた。
新井はぶるぶる震えていた。真っ白になった頭の中で何度も反芻していた。もう長谷川は起き上がることはないのだ。あのマウンドにのぼる事もできないのだ。俺がもう少しうまいやり方をしていたら、長谷川は死なずにすんだんじゃないのか?
新井の後のついて様子を見にきたのか、茂みの中から前田と森笠が顔を出していた。新井の膝元で死んでいる長谷川を見て「だから言っただろ」と言いたそうな表情を前田は見せたが、しかし、何も言わなかった。ただ、冷静にも長谷川の銃とデイパックを拾い上げ、それから思いついたように腰を屈めて右手の小指側で長谷川のまぶたを伏せさせると、「行くぞ。早くしろ」とだけ告げた。
新井はその場を動くことが出来なかったが、長谷川の最期の言葉を繰り返すように、「倉さんが」と呟いた。
「倉さんがどうかしたんか?」
「長谷川さんが最期に言った。倉さんが、って」
森笠と新井のやり取りを聞いていた前田がまた一つ舌打ちをすると、デイパックをその場に放り出し辺りを見回し始めた。茂みに一通り目を通した後で、川へ出てすぐ「森笠」と呼んだ。
森笠が慌てて前田のもとへ行くと、前田が川下を見るようあごで促した。視線をやると川下の岩の上に誰かが倒れこんでいる。間違いない、背番号でわかった。倉だ。
「あれ、とってこい」
「僕がですか?」
「わしゃ脚が痛いんじゃ」
睨まれながらそう言われて、誰が断ることが出来ようか。川を駆け下り倉の死体を抱きかかえると、また駆け上った。重力に逆らうことのないその死体は思ったより重かった。前田の横を通り過ぎるとき、横で声がした。
「長谷川と一緒においといてやれ」
倉の死体を抱えた森笠を見て、ようやく新井は長谷川の言わんとすることを理解した。長谷川の横に寝かされた倉の胸の部分は背中側よりも大きな穴が開いていた。二人の死体を目前にしてからも新井は言葉が出なかった。―――長谷川さんはこの目で見たからともかく、倉さんまでも鶴田さんは殺めてしまったのか?
「行こう。いい加減危ない」
前田が再び長谷川のデイパックを手に取った。

【残り28人】


「玉木さん、ちょっと」
自分の名を呼ばれて、玉木重雄(背番号30)は顔を上げた。
「こっち来てもらえます?あれなんですけど」
菊地原毅(背番号13)に呼ばれるままに窓によって、その指差すほうを眺めた。
「んん?」
目を細めて校庭の先にある道路を見やった。一人の男がバッグを抱え歩いている。ふと、その男が自分達の方に顔を向けた。
「うわっ!!」
慌てて玉木と菊地原が窓の下にしゃがんだ。
「見ました?あれ」
「見た。大下さんじゃんか…」
「ですよね。あの人もこれに参加してるんですか?」
「知らないよ。―――けど、達川さんとすごく仲悪かったのによくここに来たな、大下さん」
「でしょう?松原さんもいるし、まさかいるとは思わなかったんですけど」
「にしても、なんでこんな所をうろついてるんだ、あの人は?」
「さあ―――遅れてやってきたとか」
「そうかなあ。あの人ならまず真っ先に陣頭指揮をとりそうなものだけど」
「もしかして呼ばれてないけど勝手にきたとか」
「そこまでするかあ?もしそうだとしても、何しに来るんだ?」
「いや、僕らを助けに」
菊地原の一言に玉木が吹き出した。
「そりゃいくらなんでもないよ。だってあの大下さんだよ」
「ですかねえ。あの人って結局は愛情の裏返しでああなってると思うんですけどねえ」
「うーん、それにしては厳しすぎるよ。あの時のキャンプ覚えてるだろ?野村さんなんか素手でノック受けてたんだぞ」
「あれはさすがに酷かったですけど、達川さんがとめなかったっていうのもあったし」
「達川さん云々の話じゃないよ。たぶん坊主が流行ったのもあの年じゃなかったっけ?」
「坊主、いいじゃないっすか!楽なんすよ、これ」
菊地原が自分の坊主頭をなでながらいうので、玉木はちょっとだけ呆れた顔を見せた。
―――坊主ねえ?ファッションとしてならまだしも、うちのチームの連中が集団でやると「根性」とか「忍耐」とか、そういう感じなんだよなあ。
そう、玉木は坊主頭を見てもあまりいい気分はしなかった。なにせ彼はハイスクールまでブラジルで過ごしてきた男だった。サッカー同様、野球は楽しくやるものだと思っていたので、来日当初は言葉よりも野球観の違いに戸惑ってしまった程だった。
「…もういいよ。やめとこう、大下さんの話は。どうせ見回りか何かだろう」
それだけ言って玉木は再び頭を出した。大下の姿はもうなかった。
「玉木さーん」
扉の向こうでまた自分を呼ぶ声がした。玉木は腰を上げた。
「とにかく、大下さんがいるっていったらみんな驚くかもしれないから、これは僕とキクだけの秘密な」
それだけ言い残して、玉木は部屋を出て行った。それを見届けてから、菊地原も再度窓の外を見やった。
「大下さん、いい人だと思うんだけどなあ…」

【残り28人】


弥山の西の中腹、高木低木生い茂った斜面の一角に腰を下ろしたその男は、ずっとその視界にいる男だけを追い続けていた。何せ目の前で自分の友人を殺されてしまったのだから、そいつに。せっかく狙っていた自分の友人たちを。―――ま、貴方がかわりになってくれるんなら別にいいんですけど。
彼が広島東洋カープに入って一年近くがたとうとしていたが、彼の秘密を知るものはまだいなかった。野球選手とは思えないほど極端に身だしなみに気を遣うその様子は、仲間内でも半ばからかいの対象になっていたが、しかし、その正確な理由は誰にも知られていなかった。チーム内でも一、二を争える愛嬌のある顔をした男―――石橋尚登(背番号65)はとにかく――――

オカマだったのだ。

位置関係を言うなら、そこは木村拓也が栗原に銃殺されたあの滝から西に百メートル程の所にあった。ここまでに彼は否応なしに田村恵の死体、そして高橋建や横山竜士の死体も見せつけられていた。金本が殺したわけではないが、行きずりで黒田博樹の死体まで見た。そう、結局はかれこれ八体もの死体を見せられていた。オカマと言えども立派な男性、死体を見たところで恐怖など全く感じなかった。―――黒田さんと高橋さんはイイ男だったから、ちょっと惜しかったかしら。
石橋が今見下ろしている茂みの中には、ゲーム開始以来既に七人を片付けた、あの金本知憲(背番号10)がいた。もう一時間以上、そこから動いていなかった。
か・ね・も・と・さ・ん。ね・ちゃ・っ・た・の?
石橋は薄い唇を歪めてにっと笑った。―――不用心じゃないの?まあ、さすがの貴方もアタシみたいな下っ端がここで貴方を見張ってるなんて思わないでしょうけどね。
そう、石橋はデイパックを受け取り厳島神社を出た後、まっすぐ約束の場所へ向かった。林を抜ける直前、長崎元と誰かが話しているのを見て、駆け出そうとしたその時に、その“誰か”の銃が火を噴いたのである。長崎の倒れた近くには他の選手の死体も見えた。きっと約束を交わしていた四人は皆殺されたのだろう。
その後、その場を離れて歩き出した金本の後をつけ始めるまでに(多少それまで時間があったから、もしかしたら金本さんはアタシを待っていたのかもしれない。あのね、アタシはそんなに馬鹿じゃないわよ)既に石橋はそれからの行動方針を決定していた。
このゲームで最後まで生き残る選手を選べといわれたら、石橋はまず真っ先に金本を挙げたであろう(勿論他にも候補はいたが、何より皆、致命的な怪我持ちであるというところが減点対象だった)。そしてその思いは、金本がこのゲームに乗ったのを確認したことで、ますます強くなった。おまけに、少なくともマシンガン(これは一体、金本の武器だったのか、それとも、長崎以外の三人のうちの誰かの武器だったのか?)と、長崎の持っていた拳銃を手にしていた。恐らく、正面からぶつかっては誰も金本に勝てないだろう、と思えた。
石橋は、顔に似合わず(というのは失礼な表現だが)俊敏な男だった。足も速くて、それが村上スカウトの目にもとまったのだが、その他にもどこかに忍び入ったり、万引きしたり(若気の至りよ)、果ては尾行まで(好みの男の子を見つけるとストーカーしまくった)できた。加えて、石橋のデイパックの中から出てきた武器は、ハイスタンダードの二二口径二連発デリンジャーだった。カードリッジはマグナムだから恐らく至近距離なら致命傷を与えることは出来るが、撃ち合いに向く銃ではない。そこで石橋は考えた。たとえ金本がこのまま最後まで生き残るとしても、その過程のうちには必ずや誰か匹敵する相手―――多分、あの前田智徳とか(あんなオーラを持つ人が普通の女と結婚しちゃうなんてとても残念だったわ)、あるいはずる賢そうな印象でいけば東出輝裕(そうね、あのクールさが好みなのよ)とか―――とやり合い、多少の手傷を負うに違いない。そして、その戦闘の疲労も蓄積されるに違いない、と。だったら―――アタシは最後まで金本さんを追っていって、最後の最後に金本さんを後ろから撃ってやればいいんじゃない?金本さんが最後の誰かをやっつけて気を抜いたまさにその瞬間に、このデリンジャーで。まさか金本さんだって、自分自身が追われてることとは思いもしないでしょ?コトに最初の集合に来なかったこのアタシが追っているなんて。
同時にそれは、チームメイトを次々に殺さねばならないというこのゲームで、自分が手を汚さずに済む方法でもあった。この点、石橋の倫理観が強かったというわけではなく、ただ、面倒なだけだったのだ。―――だって、誰かを殺してる隙をつかれて別の誰かに殺されたらただのアホじゃない。誰かを殺すのは金本さん、アタシはただ金本さんの後を追っていくだけ。ま、最後は言わば正当防衛で金本さんを殺すんだけど。だって、金本さんを殺さないとアタシが殺されちゃうんだもの―――といった具合に。
また、金本を尾けていくことには別のメリットもあった。例の“禁止エリア”とやらの問題だった。金本も当然それは考えに入れているだろうし、多少距離をとってくっついていけば、エリアにかかる恐れはないと判断した。もし不安でも、止まったところで地図をチェックしてエリアに入っていないことを確認すればいい。
そして、事態は石橋の考えたとおりに進んでいた。金本は西松原を離れると、南の道路に沿って移動し始めた。途中、その道沿いの民家二、三件に入り(きっと何か必要なものを手に入れたのね。結構マメなんだから)、途中の寺で田村恵の姿を発見した。後ろからあっさり田村を殺してしまうと、また南へむかい山に入った。日も落ちようとする頃に、高橋建と横山竜士がすぐ近くの公園からマイクで呼びかけを始めると即座に動き出し、結局誰もその呼びかけに答えないのを確かめた後(そういえばあの時、別の銃声がした。あれはどうも、高橋と横山に呼びかけを停止し隠れるよう促したのだと思えた。あら、すごい、こんな中でも人道的な選手がいるんだわ、と石橋は感動した。感動しただけだったが)、二人を撃ち殺した。そしてそのあと再び山へ入った。それからは寝てしまったのか移動する事もなく一夜を明かした(ここで寝首を掻いてもよかったが、一度決めた予定を変更するのも馬鹿馬鹿しかったので、石橋も大人しくしておいた)。明け方に一発の銃声が響いて、金本も反応を示したがそれは見送った。それで、これはつい先ほど、それ程遠くはないと思われる距離で銃声が聞こえると、今度は動き出した。しかし銃声を追った金本が見たのは(従って石橋が見たのは)、木を背もたれにして座っているように死んでいる黒田博樹だった(黒田を殺した選手か、あるいは第三者がそうしたのだろう。なにせ背中に銃弾を受けていたのだから)。金本は黒田の荷物を探していたのだろうか、しばらくあたりを見回していたが、どうやら荷物は誰かに持ち去られた後のようだった。そしてそのあとまた少し動いて―――
今、ここ、自分のすぐ下の茂みの中に金本はいるのである。
金本の作戦は単純なようだった、少なくとも今のところ。誰かの所在がわかったら、駆けつけて弾をばらまく。高橋建と横山竜士を殺した容赦のないやり口にはいささか呆れもしたが(全く金本さんって武闘派というか肉体馬鹿というか、やることが無茶苦茶なんだから。アタシみたいに頭を使わないと、脳味噌まで筋肉になっちゃうわよ)、しかし、そんなことにケチをつけてもはじまらない。とにかく今は、金本が自分の存在に全く気づいていないという事に満足すべきなんだろう。金本の行動に逐一注意しないといけないせいで、石橋は一睡も出来なかったが、二、三日の徹夜くらいどうってことなかった。金本と比べても十は若いし、男よりオンナの方が基礎体力があるらしいので。ものの本によるとだが、まあとにかく。
ふと視界の端、眼下の茂みがちらっと揺れた。石橋は慌ててデリンジャーをつかみ出し、デイパックを左手にとった。茂みの端から、金本の頭が現れた。ゆっくりと左右に視線を走らせ、それから、東の方角―――ちょうど石橋の左手、斜面の上―――に目を向けた。銃声がしたわけではない。物音がしたわけでもない。金本が見ているほうに、一体何があるのだろう?石橋も同じ方向に視線を飛ばしたが、特にそこに動きがあるわけでもなかった。
金本はすっと茂みから全身を出した。左肩にデイパックをひっかけ、右肩にはマシンガンを吊って、そのグリップを握っている。木々の間を縫うように、斜面を登り始めた。すぐに石橋のいる高さまで至り、さらに上へ向かった。それで、石橋は自分も身を起こすと、後を追い始めた。
石橋の動きは、百七十六センチの体に似合わず猫のようにしなやかだった。木々の間にちらちらとのぞける金本のユニフォームから、ぴったり二十メートルの距離を保っていた。この点、確かに石橋にはそれなりの運動能力があったのだと見てとっていいだろう。そして、前を行く金本の動きもまた、正確で迅速だった。時々木の陰に立ちどまっては前方を伺い、深い茂みのあるところでは、地面に膝をついてその下を確かめてから進んでいた。ただし―――
背中ががら空きだわ、金本さん。
そのまま百メートルばかり進んだだろうか。ふと、金本が足を止めた。金本の前方で木々の列が途切れ、未舗装の細い道が横切っていた。―――これは、登山道。さっきも横切ったわ、黒田さんの死体を見る前に。
そして、今金本が目を向けている右手の方、そこはちょうど山頂までの道のりの休憩所というようなことなのか、ちょっとした広場になっており、一脚のベンチとともにベージュ色のプレハブトイレが備え付けてあった。金本は辺りを見回し、さらに石橋のいる背後にも目を向けたが、石橋はもちろん、既に茂みの陰に身を隠していた。それで、金本はすっと道の方に出ると、そのトイレに駆け寄った。ちょうど石橋の方を向いている扉を開くと、そこに入った。また辺りを確かめ、静かにドアを閉じた。何かあった時にすぐ逃げられるようにという事なのか、完全には閉め切らず、わずかに隙間を空けていた。
それを見ているうちに石橋は何だかおかしくなって、相変らず身を低くしたままではあったが、笑いを噛み殺さなくてはならなかった。確かに、石橋がずっと金本を追っていたその間中、金本が用をたした場面はなかった。あるいは、高橋と横山を殺す前に入った家でトイレを借りたのかという推測も立ったが、まあ、どっちにしてもまるまる一日我慢できるようなものじゃない。多分、じっと茂みの中に身を潜めている間に済ませているのだろうと思っていた(石橋はそうした。音を立てないのに苦労したが)。しかし、そうではなかったのだ。―――わざわざ用を足すのにきちんとしたトイレを探すなんて、とても金本さんらしくないですね、湯布院キャンプでは毎年半ケツを披露しているのに。
すぐに、水が便器を叩いているのだろう、ぱらぱらという音が石橋の耳に届いてきた。それで石橋は、また笑いを噛み殺さずにはいられなかった。―――ねえ、雅人。貴方を殺したのはこんなに面白い人だったのよ。
石橋の脳裏には、金本に殺された仲間の姿がよみがえっていた。特に同い年の甲斐雅人(背番号57)―――飯を食うのも、練習するのも、寮の部屋でゲームしたりマンガを読んだり、何をするのも一緒だった彼はもうこの世にはいない。そのことは石橋を悲しみのどん底に突き落とすのに十分だった。なぜならば、甲斐こそが石橋の人生の伴侶(どちらがどちらであるかはこの際放っておくとして)だと、石橋本人は確信していたのだ。―――ああ、こんなことになるって分かってたんだったら、アタシも雅人もプロには入らなかったわよね。なんだか「どっちが先に一軍に上がるか」なんて話してたのが馬鹿みたいだわ。初めて出会った九州大会に戻りたい。
石橋と甲斐は二年前、秋の九州大会で対戦していた。二人が顔を合わせたのは二回戦だった。先制は高鍋、初回に飛び出した甲斐のツーラン。しかし波佐見もその裏に逆転、その後はシーソーゲームになった。試合を決めたのは石橋自身のスリーラン、投手は三回からマウンドに上がっていた甲斐だった。結構大きなホームランでそれ自体の思い出もあったが、何より打たれた甲斐のうなだれる姿が石橋にはとても華麗で素敵に見えたのである。その姿を忘れることはなく、ドラフトで甲斐と同じチームに入団できると知った時にはどれほど喜んだことか。入団して多少打ち解けた頃に(石橋のオトメゴコロでは話しかけるのも精一杯なのであった)九州大会の話をしたら「打たせてやったんだよ」なんてとぼけてたけど(センバツをかけた試合でそんなことするわけないじゃない)。そんな幸せな日々が二度と帰ってこないと思うだけで石橋の胸は潰れそうになるのだった。
ぱらぱらという音はまだ続いていた。石橋はまた小さく笑みを浮かべた。―――随分我慢してたのね、金本さん。長く続くその音を聞いていて、石橋の心がちょっとだけ揺れた。
―――もしかしたら、金本さんはアタシが尾けていたのに気づいてた?用を足しながらも、もしかしたらあの中でこれからのことを考えてるの?いいえ、まさか。これだけ長いのはずっと我慢してたからでしょ。だいたいアタシに気づいてたら、あんなに背中をがら空きにして移動したりなんかしないわよ。
「ねえ、背中がら空きだよ」
―――そうそう、背中がら空きなんかでね。
と納得しかけて、一気に血の気が引いた。その声の主を知ろうと石橋は慌てて振り返ったのだが、その視線の先には銃口があった。目の前でいきなり何かが爆発して、石橋の顔はちょうど目の間のあたりから破裂した。銃弾の勢いで後ろに弧を描きながら、いろんなものが飛び散った。もちろん、即死だった。
「金本さんが逃げたの、見てなかったの?」
顔が形をなしていない目の前の死体に向けて、東出輝裕(背番号2)は冷たく言い放った。
その死体をまたいで、トイレのドアを開けた。そのトイレの中、天井から水の入ったボトルがひもで吊り下げられていて、吹き込んだ風によってゆらゆらと揺れた。恐らくナイフか何かで穴をあけたものだったのだろう、そのボトルから細い水の線が落ち、ボトルの動きに合わせて、ぱたぱたっ、ぱたぱたっ、と音がしていた。
―――金本さんは要注意だな、意外に頭脳派というか。まあ、さすがスタープレーヤーってとこか。
銃声をあげてしまったのでは、誰かがやってくるかもしれない。東出はそれだけを確認すると、再び藪の中へ入って行った。  

【残り27人】


『…ーい、正午になりました。いつもの定時放送だぞー。』
島中にうるさいくらいに鳴り響いているはずの達川の声がどこか遠くから聞こえるようだ。
―――おかしいな、苦情でも出て音量をさげたのだろうか?はは、そんなはずはないよなあ。だってここには俺達以外いないはずだ。そうそう、ここで俺たちは…
闇の淵からゆっくりと意識が覚醒してきてそろそろと見開かれる空間から光が差し込んで―――はっきり目を見開くと同時に栗原健太(背番号50)は思い切り体を起こした。瞬間、頭に鈍い痛みが走ったが、たいしたことはない。上下左右を見回して、自分がいつの間にか草むらの中に倒れこんで意識を失っていたという事実を飲み込み、同時にあの朝の悪夢、半狂乱で走っていたこと、そしてその途中で足を踏み外し数メートルの丘を転がりながら滑り落ちたことが走馬灯のように脳裏によみがえった。つまりは、転がり落ちた先がこの草むらなのである。太陽は青空の中にある。もし意識の中で響いていた放送が現実のものだったのなら、今は正午という事になる。意識を失って数時間しかたっていない。そして、まだ、ゲームに参加させられたままなのだ。
「起ーきーたー?」
上から降ってきたやや呑気とも受け取れる声に目をはっきり見開き振り返った。自分が落ちてきた丘の上、足を投げ出して薄い笑みを浮かべ栗原を観察していたのは岡上和典(背番号37)だった。
「こんな所で優雅に昼寝か?」
まさかそんなはずないでしょう。そう栗原は言ってやりたかったが、言えなかった。なぜなら岡上の口調は純粋に質問するようなものではなく、むしろ全てを知っていて栗原をからかうかのようにあえて聞いているようなそれだったからだ。不快だった。丘から落ちた拍子に頭をうったせいもあったのかもしれなかったが(さっきの鈍い頭痛で栗原自身はそう判断していた。うっていなかったとしたら、何らかの不調の合図なのかもしれない)、それ以上に岡上の言葉、口調、笑み、態度、とにかく全てが何か不快だった。
「まあね、一心不乱に走ってたら眠たくなるのも無理ないかな」
そういって岡上はくすくす笑った。―――やっぱり岡上さんは俺の事情を知ってるんじゃん。そう思うとその低い笑い声さえひどく癇に障った。
「あと、つけてきたんですか?」
投げやりに言葉をぶつけた。すぐに岡上の笑いが消えた。いや、表情にはまだ残っていたが、それはあくまで口元に浮かんでいるだけで、栗原を見つめるその目はとてもじゃないが笑いとは対極にあるような感情しかこもっていないように見えた。
「そりゃ、こんなゲームの真っ最中だからねえ。殺さないと帰れないんだぞ?わかってる?」
“殺さないと帰れない”―――この言葉でまた木村拓也がスローモーションで倒れ込む情景が浮かんできて軽い頭痛がした。ああ、この頭痛は木村さんの恨みか?
「寝てるうちに殺してもよかったんだけど、それじゃあんまりでしょ?」
その言葉にぎょっとして再び岡上に視線を戻して、栗原は再び全身を強張らせた。なぜなら彼の左手、今まで見えていなかったその左手に握られた357マグナムリボルバーが自分を標的としているかのようにしっかりとこちらを向いていたのだ。瞬時にやばいと判断した栗原は、手探りで周囲に自分の銃が落ちていないか探すが―――ない。銃も、デイパックも、ない。ない。ない。
「もしかして、武器とか探してるの?嫌だな、先輩に逆らう気?」
その嘲笑が混じった嫌な質の声がますます栗原に焦りを感じさせた。しかし、ない。両腕を思い切り広げて探せるところまで探すが、草と土の感触しか返ってこない。
「あー、そういえばね」
いかにも笑いをこらえきれない様子で上から声が降ってくる。
「こういうの、落ちてたんだけど」
もしかして―――と思った栗原が三度目に視線を向けたそこには、栗原の拳銃があった。岡上の右手にあった。銃口は左手の銃と同様、こちらを向いていた。「それ…」と口にした言葉を言い切るその前に、『それ』は炎を噴いた。左手にあった銃とともに炎を噴いた。栗原は倒れた。血をふいて倒れた。倒れて、倒れて―――起き上がることは、なかった。
「二丁拳銃!」
ヒューと口笛をふいて、満足気に栗原の死体と細い煙が出ている両手の銃を交互に眺めた。久しぶりの拳銃の感触だったが、岡上にはとても心地良く感じられた。このゲームが岡上の感覚をどこか狂わせてから随分と時は過ぎていた。
「…さ、て」
拳銃をポケットとデイパックにそれぞれしまいこみ、立ち上がって尻についた土をはらった。左膝の痛みは相変らずだったが、どれほどこのゲームが続くか分からない。限りある薬がゲームのジ・エンドの前できれるようなことがあってはどうしようもない。この程度の痛みなら我慢するしか他なかった。そんな心配を振り払うためにも、自分にできることはただ一つ。殺して、殺して、ただ殺すだけだ。それなら―――
「どっちを先に追おうかな」
丘を挟んで草むらと正反対を眺めた岡上のその視線の先、そこにはほんの数十分前に激しい銃撃戦が繰り広げられた、あの小川が静かに流れていた。

【残り26人】


『死んだ人は以上でーす』
達川の明朗な声が響いていた。正午の放送だった。新しく葬式待ちのリストに並んだのは、福地寿樹、黒田博樹、澤崎俊和、木村一喜、そして倉義和と長谷川昌幸と今までの放送の中で最も多かった。
『みんな、仲間が死んで辛いかもしれんがのう、元気を出すんやぞー。君らがくよくよしてたら応援してくれるファンが悲しみまーす。わかったなー』
追加される禁止エリアを淡々と述べ、その後相変わらず能天気なセリフを吐き散らして達川の“放送”はぶつっと切れた。
「27人か、ちくしょう…」
いらだちながらも野村謙二郎(背番号7)はそう吐き捨てるしかなかった。歩けども歩けども同じユニフォームを着た仲間に出会うことが出来ない。そうするうちにその仲間は一人、また一人と消えていっていた。―――早く皆に会いたい。会って広島に帰るんだ。
野村はともに行動している緒方孝市(背番号9)に視線を向けた。禁止エリアを確認しているのか、いつもの仏頂面のまま地図とにらめっこしている。―――こいつは策士だ。かつて盗塁王を獲り続けていた時も相手投手の癖を気が遠くなりそうなほど詳細に分析して、かつ塁間のステップさえ細かに研究していた。そういう男なのだ。ただ、一つ昔と異なることがあるとすれば、ここは一般常識さえ通用しなくなった“異常な空間”だということだ。そんな中でいつも神経を張り詰めさせていれば、いつかは狂ってしまうはずだ。
「緒方」
声をかけられた緒方が表情を変えずに顔をあげた。
「もし食べ物がまだ残っているなら今食べておこう。1日1回は何か入れておかないと体がもたんぞ」
少し間をおいて緒方が口を開く。
「いや、今はあまり…」
「どうした?食欲―――」
野村は言いかけ、再び視線を落とした緒方の顔が、真っ青になっているのに気づいた。そういえば、先を急ぐあまり会話は少なくはなっていたが、その中でも緒方から口を開くことがなくなっていた。
「緒方?」
野村は緒方の肩に手をかけた。青ざめた顔の中、緒方は口を真一文字にくいしばっていた。その唇の隙間から苦しそうな息遣いが漏れているのに、野村はようやく気づいた。ユニフォーム越しに伝わってくる緒方の体温が、何か小鳥を抱えているように高かった。おそるおそる肩においていた手を緒方の額へと伸ばした。
めちゃくちゃに熱かった。同時に、緒方の額に浮いた冷や汗が野村の手のひらをじとっと濡らした。
「大丈夫です」
緒方はそう言ったが、その声はあまりに力なかった。
「…あほ!なんでもっと早く言わなかった!!」
緒方はすまなそうに視線を下げた。野村はもっと問い詰めたかったが、とりあえず自分を落ち着かせた。最初から一緒に行動していたわけではないので、緒方の体調不良の原因を断定することは出来ない。しかし、一つ思い当たる点がなくもなかった―――緒方と出くわした時、あの深夜の寒空の中、緒方はユニフォーム姿で倒れていたのだ。それはあまりに無防備すぎた。なぜすぐに気づいてやれなかったのか、野村は唇を噛んだが、今は後悔している余裕などない。
「寒いんじゃないのか?」
「少し…」
「そうか…まだ歩けるか?」
「俺のことは気にしないで下さい。気を遣われて両方無駄死にしてたらしょうがないでしょう?」
―――こいつは。いかにも緒方らしい一言に野村はニヤリと笑い、そして自分のデイパックから支給されたペットボトルを取り出すと緒方に投げ渡した。
「きつかったらそれを飲め。今から町におりる」
ペットボトルを左手に持ったまま、緒方は野村を見つめる。
「方向転換だ。まず薬を探そう」
「そんなことよりみんな…」
「わかってる。お前のためだけじゃない。これから会うやつが怪我や病気をしてるかもしれないだろ?」
緒方をたしなめるようにして、それから再び笑みを浮かべて一言付け加えた。
「ま、俺がいつ熱を出すとも限らんからな」
それにつられて弱々しいながらも緒方は口元を緩め、野村には聞こえないくらいの小さな声で「すみません」とだけ呟いた。

【残り26人】


雲の隙間から差し込む日差しで冷たくもまぶしく光る山道へ向けて、鶴田泰(背番号17)は動き出した。本来なら茂みの中に隠れているのが一番安全だったのだが、彼にはそれ以上そこに留まる事ができなかったのだ。全身が熱く、この真冬の薄暗い山中にいても炎天下の砂漠にいるような気分だった。
水。
水が必要だった。
長谷川昌幸(背番号19)に撃たれた傷は、左腕上部だった。血でぐっしょり濡れたアンダーシャツの袖を破いて確認したところ、どうやら弾丸は完全に鶴田の腕を貫通していた。特に銃創の出口側で皮膚が大きく裂けていたが、太い血管を危うくそれたらしく、破いたユニフォームの袖を包帯代わりにくくりつけた後、出血はしばらくして止まった。しかし―――徐々にその傷は熱を持ち、全身にそれが広がっていた。正午の達川の放送を聞く頃には、鶴田は手持ちの水を全部飲み干してしまっていた。長谷川を倒した後、新井から逃れて二百メートルほど走り、そのとき、傷を洗おうとして水をかなり使ってしまったこともある(ひどく後悔した、それを)。
それから一時間ほどしか時間はたっていなかったのだが、体の様子は明らかにおかしかった。しばらくはユニフォームの下、汗が大量に噴き出していたのだけれど、今はそれも出なくなっていた。脱水症状に近づいていたと言っていい。要するに、鶴田は撃たれた傷が原因で敗血症を起こしかけていたし、さらにはその傷を消毒しなかったこともあってか極めて早く症状が進行していたのだけれど、もちろん鶴田自身そんなことは知る由もなかった。
ただ、―――水だ。
くすんだ緑で覆われた山肌をそれでも精一杯慎重に移動している鶴田の頭の中を、長谷川への憎悪がぐるぐる回っていた。全身ののどの渇きが、その回転を加速していった。
鶴田はこのゲームで誰一人として信用するつもりはなかった。もちろん彼は広島東洋カープの一員であることははっきり自覚していたし、背番号でいうとチームの大黒柱である佐々岡真司(背番号18)の一つ前、従ってスタート後すぐに佐々岡と合流することもできたのだけど、それはしなかった。
たしかに鶴田自身は自分はカープの一員だと思っている。しかし、他のメンバーは本当にそう思っているのだろうか?三ヵ月半も怪我で離脱して、ほとんどチームの役に立てなかった自分を。チームのムードメーカーだった紀藤がトレードといえどもほぼ戦力外みたいな形でチームを追いやられ、そのかわりにのこのこと中日からやってきた自分を。喋るのが苦手で、それほど喋りかけてこない選手には特に交流を持とうとしなかった自分を。
結局、鶴田はカープの選手であることを自分に思い込ませていただけかもしれなかった。“生え抜きでない”という意識がマイナスへマイナスへと働いてしまう。それはカープの選手がほぼ生え抜きであるという、他チームと比べるとやや特殊な事情があったからかもしれなかった。西山秀二(背番号32)や木村拓也(背番号0)など、数少ないながら他所からきた選手もいるにはいたが、木村は広島で花を咲かせた、いわば遅咲きの選手であったし、西山にいたってはたった1年で南海からカープにやってきた、よってカープの“生え抜き”と間違われてもほとんど違和感のない選手だった。それに比べると一度中日で活躍してその後移籍した自分はやはり疎外感を抱かずにはいられなかった。中日から一緒にやってきた島崎毅(背番号47)や佐藤康幸(背番号48)は1年で解雇されてここには来ていない。その事実は鶴田をよりいっそう孤独にさせた。
ゲームが始まって、初めてまともに出くわした選手、倉義和(背番号40)は笑顔で話しかけてきた。「鶴田さん、大丈夫だったんですね」。その一言が神経を張り詰めさせていた鶴田の、その神経の奥底にあった何かに触れてしまったのかもしれない(もっともその時点で鶴田の神経にはどこか狂いが生じていたと言うべきなのだが)。―――大丈夫じゃいけなかったのか?「イキテイタノカ」とでも言いたいのか?その笑顔はどういう意味だ?ああ、俺は騙されない。きっと馴れ馴れしく近づいて、いつかは気を許すはずの俺をその時殺すのだろう?そうだ。そうだ。お前だけじゃない。お前らみんなそうなんだろう―――?
一度高ぶって破裂した感情は、もう元には戻らない。鶴田の脳裏の中でなにか黒ずんだ感情がぐるぐると回る中、無意識のうちに彼は自分の武器であるコルト・ハイウェイパトロールマン三八口径を手に取り、目の前にいた悪魔の笑みを浮かべる(倉の笑みは仲間が見つかったという安堵した笑みだったのだが、少なくとも鶴田の目にはそう映ってしまっていた。一種の幻覚症状みたいなものである)敵を撃っていた。敵は一発目で倒れたが、引き金にかかった指が自然と二発目を繰り出していた。しばらく何も考えず―――考えられず突っ立っていたのだが、突然襲ってきた足の震えのせいで鶴田はその場にしゃがみこんだ。
とにかく今までの人生の中で見たことも触ったこともなかった拳銃を何の違和感もなく使った自分に驚いていた。倉を撃ったという後悔はなかった。はぁはぁと音の漏れる浅い息の中、彼は自分に言い聞かせた。―――いいか、俺は平気で人殺しをするような人間じゃない。その点は確かだ。ただな、正当防衛なら話は別なんだ。まだこの辺をうろついている奴らが自分を騙して殺そうとするなら、それは全くいたしかたないことなんだ。
そして勢いに任せてこうも思った。―――もしも、もしも正当防衛で最後まで残れたんなら一刻も早くうちに帰ろう。娘たちをまっさきに抱っこしてやろう。美香と美味しいシャンパンでも飲もう。広島に来ることで負担をかけてしまった家族のことを一番に思いやって余生を過ごそうじゃないか。
そう思うと、不思議と笑い声が出た。いつの間にか足の震えも消えていた。とりあえず、その場を離れようと立ち上がってユニフォームについた土埃を掃き、視線を前に戻したちょうどその時、鶴田の目は長谷川をとらえたのだった。長谷川はどうも倉の死体しか見えていないように鶴田には思えたので、挨拶代わりに倉の死体にもう一発ぶち込んだ。長谷川がはっきりと鶴田の姿を認識し、しばらく睨みつけるような目つきで弾の飛んできた方向を見ていたのだが、心の中、踏ん切りがついたのだろう。自分の持っていた銃に手をのばすと鶴田めがけて発砲した。
それはあっという間の出来事で、長谷川の撃った弾は鶴田の左腕をとらえ、勢いで軽く飛び上がり、そのまま地面に不時着した。それでも何とか体勢を立て直し、支給の銃を構えて撃ち返した。そしてすぐ後ろにあった繁みに飛び込み動くに動けずに釘付けになっている時、新井貴浩が現れたのだ。
あのモミアゲ男―――。ふだんは遊び歩いて練習にも遅刻してくるような悪ガキのくせに、遠慮なく俺を殺そうとしやがった。とにもかくにも長谷川は片付けることができたのだけれど(俺は最初長谷川に向けて撃たなかった。あっちから攻撃してきたんだ。正当防衛だ、これは。市民球場の少ない客もみんなそう言ってくれるさ)、他の連中も倉や長谷川と同じような感じなのだとしたら、やはりこっちも容赦すべきじゃない。
それから鶴田は新井貴浩のことを考えた。少なくとも新井は自分に銃を向けてはいなかった(だからこそ余裕を持って長谷川を撃つことが出来た)。前田や森笠も一緒なのだと言った。
―――あの三人、一体どうして一緒にいるんだろうか?三人で逃げ出そうとでもいうんだろうか?
鶴田は無意識に首を振った。
ろくでもない。こんな状況で誰かと一緒にいるなんて、そんなやばいことはない。グループなんか組んでたら、後ろから撃たれても文句言えないじゃないか?それに、逃げ出すなんてとても無理だ。森笠や前田の姿は見えなかったけれど、もしあの話が本当なのだとしたら、一番可能性があるシチュエーションとして前田は森笠と新井を殺すだろう。もしかしたら森笠、あるいは新井が下克上を起こすのかもしれないが、それはわからない。誰が残っても―――その時は、またその一人とやりあうことになるのかもしれない。しかし、そんなことは今はどうでもいい。とにかく―――
水だ。
いつの間にかかなりの距離を移動していた。太陽は西に傾きかけていた。それでも、まだこの島に光をもたらしている。熱を帯びた自分の体をどうにもできない鶴田にはそれさえ忌々しく感じられた。
長谷川と倉を倒したリボルバーを握り締めたまま、鶴田は茂みの間をざざっと走った。頭を低くし、息を殺した。茂みの陰からそうっと顔を出した。狭い畑の向こうに家が一軒、ぽつんと建っていた。畑を隔てて鶴田と反対側にはやや築年数の経った家が数件建っている。地図からするとその数件の家の向こうにはホテルや寺院があり、さらにその多くに観光客用の商店街があるはずだ。移動前に確認した通り、禁止エリアの心配は今のところこの付近にはない。
鶴田はのどの渇きを我慢して、しばらく目の前の家を観察した。辺りはしんと静まり返っている。とりあえずタイミングを見計らって、姿勢を低くしたまま畑を抜けた。家のある敷地は、畑より少し高くなっていた。鶴田は畑の端で止まり、まず後ろを見回してからもう一度家を観察した。何の変哲もない、古びた平屋建ての農家だ。瓦葺の屋根には三月の地震(芸予地震と呼ばれたそれは、四国でオープン戦を行っていた時に体験したが、この辺ではめずらしく大きな地震だったらしい)で被害でも受けたのだろうか、青いビニールシートがかぶせてある。鶴田がいる畑の左手から未舗装の道路が引き込まれていて、家の前に軽トラックが一台止まっていた。原付と自転車も一台ずつ見えた。
そして反対側に顔を向けたとき、鶴田の目に探していたものがとまった。―――水道だ。たぶん畑へ水をまくときに使用するものなのだろう。もう一度周囲を確認した鶴田は人の気配のないことを確信し、水道の方へ走った。渇きと熱で頭がぐらぐらしていた。
高さ五十センチ程度の支柱から生えた蛇口に手を伸ばす。―――水だった。よかった、水道は使えた。
鶴田はリボルバーをポケットに差し、痛む左肩から、右手でデイパックをおろした。土の上に、それがどさっと落ちたが鶴田は一向に構わなかった。蛇口の下、水の出る先に自分の口を置き、がぶがぶと飲んだ。自分でも信じられないほど、水はのどの奥へと落ちていく。飲んで飲んで飲んで、頭を逆にむけ目いっぱい水をかぶり、頭を上げた鶴田の視界に人の影が映った。
ほんの四、五メートル先、ユニフォーム姿の男の影がびくっと足を止めていた。鶴田は家の方に背を向けていたのだったけれど、その影の向こうで勝手口らしいドアが開いていた。
その影が足を止めた様子で、鶴田の脳裏を幼い頃の記憶が―――鬼が振り返ったときに動いてたらダメ、というやつだ―――無意識によぎったが、そんなことはどうでもよかった。問題は、その首をすくめておどおどしている男―――田中由基(背番号34)が、両手に細いリボンのようなものを握っていることだった。一瞬のうちに、鶴田はそれがベルトなのだと確認した。
見ろ―――田中由基は、カープでいまだ芽の出ない救いようのないサウスポーだ。確か酷いノーコンで、1軍のマウンドだときっかり計ったように4回2/3で降板するというもっぱらの評判の投手だ。そんな能無しが―――俺を殺そうとしている!
ビデオ映像の一時停止が解かれたかのような感じで田中が唐突に動き、左手で握ったベルトを振り上げて襲いかかってきた。大き目のバックルが太陽の反射光を一瞬引きずった。あんなもので殴られたら肉が弾け飛ぶだろう。距離はわずかに四メートル―――。
十分だった。
鶴田は右手を体の前へ走らせ、リボルバーを握った。すっかりおなじみになったグリップの感触が手に伝わった。
田中は、もう目前に迫っていた。撃った。今度は三発続けて撃った。その全弾が田中の腹に命中し、田中のユニフォームが鮮やかに裂けるのが見えた。
田中はくるっと半回転すると―――俯せに横たわった。土埃が少し舞うと、もう、ぴくりとも動かなかった。
鶴田はリボルバーを再びポケットにつっこんだ。余計な時間を食ってしまった。とにかく今は―――水だった。
銃声をたててしまったことで、外で自分の姿をみすみす晒すのは危険だと判断した鶴田は自分のデイパックを拾い上げると、家の中へ入った。家の方に背を向けていたのはうかつだったが、もう誰かが隠れている気遣いは絶対にない。そして、田中の持っていた水があるはずだ。
その思いはあっさり現実になる。田中のデイパックはドアの内側に見つかった。鶴田はしゃがみ込み、右手だけで何とかジッパーを開けた。水のボトルがあった。一本はまだ封を切っておらず、もう一本もまだ半分残っている。ありがたかった。
鶴田は膝をついた姿勢のまま、半分残っている方の蓋を開けると、しゃぶりつくように唇を押し付け、ボトルを傾けた。これを全部飲み干しても水道水を入れれば問題はない。携帯用のペットボトルが増えるということは、それだけ水のない場所にでも隠れられる時間が増えるということである。今はここに隠れておけばいいわけだが、そのうち禁止エリアに指定されるだろう。その時は、また移動しなければならないのだ。
ごくごくと水を飲み干した。うまかった。さっき飽きるほど飲んだような気がしていたが、それでもまだ水は自分の体へ滲入することが出来た。水がないことを確認すると、ボトルを口から外し息をついた。
突然、のどにしゅるっと何かが巻きついた。ちょうど、選手の誰にも平等につけられた首輪の上の辺り。げほっと咳き込み、口の中に残っていた水が唇から霧になって飛んだ。
鶴田はその、のどの下に食い込んだものを使える右手で引き離そうともがきながら、首を捻じ曲げた。自分の顔のすぐ右側に、引き攣った男の顔があった―――田中由基、ついさっき死んだ男の顔が!
ぎりぎりとのどが締め付けられた。自分の首を巻いているのが、さっき田中が手にしていたベルトだと理解するのに数秒を要した。
なんでなんでなんで―――なんで生きているんだ、この男は?
家の中の家具や差し込む光が赤い色に染まり始めた。ベルトを引き剥がそうとする鶴田の右手の指から、爪がばりばりともげていた。血が指を伝った。
そうだ銃を―――
鶴田は思い出し、ポケットに差した銃に手を伸ばしかけた。
その腕が、鋭い歯が光るスパイクを履いた足に蹴飛ばされた。ぼきっと音がして、鶴田の右手は左手に続いて感覚を失っていた。その一瞬、ベルトが緩んだが―――すぐに元に戻った。鶴田はもうベルトを握ることもできず、ただ、不気味に歪んだ右腕を振り回した。
それも、数十秒のことだった。腕がだらんと垂れた。体がぐったり力を失った。鶴田は長谷川とまではいかなくともまずまずバランスのよい体型(他と比べるとやや細くはあったが)で、顔も地味ながらそう大きくもなかったのだが、その顔はうっ血して腫れ上がり、通常の倍ぐらいに膨張した舌が、だらっと口の中央から下へこぼれていた。
五分余りが立ち、ようやく田中はベルトを鶴田の首から離した。もう息をしていない鶴田の体がぐたりと前に傾き、上がりがまちの上にどさっと倒れ込んだ。ぱきっというこもった音がした。鶴田の顔のどこかの骨が折れたのかもしれなかった。元々くせのある鶴田の髪はめちゃくちゃな方向へ乱れ、袖を破り取った左腕だけが、鮮やかに白く浮き上がっていた。
田中由基は、しばらくぜえぜえと荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。まだ腹に痛みはあったが、さほどじゃない。全く、デイパックを開けてグレーのごわごわした変なチョッキが出てきたときはなんなんだと思ったが、性能は添付の仕様説明書通りだった。たいしたものだった。
―――すごいな、防弾チョッキというやつは。

【残り25人】


診療所は、平屋建ての小さな古い木造家屋だった。板壁は黒ずみ、屋根を葺いた黒い瓦も時間の経過を示して角の部分が白くなっている。鶴田泰(背番号17)が死んだ農家とは違い、外れの方ながらも住宅街に位置しているその診療所には、一応舗装された道が横付けされており、しかしすぐ後ろには野晒しの崖と、それにつながる山がそびえていた。診療所の前には、医者が使っていたものなのか、白いライトバンが一台停まっていて、短い冬の日差しを受けたその影がやや横長に道路に映し出されていた。
とにかく、野村謙二郎(背番号7)と緒方孝市(背番号9)は、一応の目的地に着いたのだった。無傷で山を下りられたのは、僥倖だったに違いない。マシンガンの銃声に追われることもなかった。地図上ほんの二キロ足らずの行程だったが、いつ誰に襲われてもおかしくないという緊張感と緒方を守ろうという責任感の中での移動で、野村はひどく疲労していた。早く診療所内に誰もいないことを確かめ、緒方のことだけでなく、自分も一休みしたかった。
緒方に「ちょっと待ってろ」とだけ言うと、野村はショットガン(レミントンM870)を構えてまずライトバンを調べた。車の下も覗き込んだ。次に建物にすっと近寄り、周囲を一回りした。戻ってくると、引き戸になっている玄関を調べた。鍵がかかっているらしく、野村はショットガンを持ちかえると、切り詰めた銃床の端でスリガラスをかしゃんと割った。頭を下げ、しばらく待った。それから、逆三角形に開いた割れ目から手を突っ込んで戸を開き、中へ入って行った。
軽く十五分は経過しただろうか、野村が緒方のもとへ戻ってきた。相変わらずだるそうな緒方の荷物も持ち、診療所へ連れて行った。診療所の玄関先には普通の病院とかわらない蛍光灯入りの看板と、さらには玄関の横に診療時間等が書いてある少々文字色のあせた看板がかかっていた。野村は緒方を先に中へ入れると、すぐに自分も入り戸をぴったり閉めた。さらには先ほどの“調査”で見つけたほうきでつっかい棒をした。
慣れた様子でスパイクのまま上へ上がり、右側の部屋の扉を開け、「ベッドで横になっとけ」と緒方に言うと、野村は一つ奥の部屋へ消えた。扉の開かれた部屋には窓側に木の机と医者用らしい黒い皮張りの丸椅子が一つ、そしてその手前にグリーンのビニール張りの丸椅子が一つあった。小さな診療所でもそれはそれなり、消毒液の匂いがした。
金属パイプに緑色の薄い布を張った間仕切りの奥にベッドが二つあった。手前のベッドにだけ白いシーツがかけてある。そのシーツの皺の寄った様が、手馴れていない人間のやったものだと緒方に語りかけた。それで緒方は、野村が診療所から戻ってくるのに時間がかかった理由をようやく飲み込んだ。
野村が薄いブラウンの毛布を小脇に抱えて再び部屋に戻ってきた。「とりあえず二枚な」とだけ差し出された毛布を緒方は慎重に受け取り、それを広げかぶって横になった。野村に心配をかけないよう、きちっと肩口を覆った。その間も野村は、それが薬棚なのだろうか、単なる事務用のそれを変わるところのない、グレーのキャビネットを引っ掻き回していた。
「大丈夫か?」
作業を続けたまま野村が聞いた。緒方は「はい」とだけ呟いた。ベッドで横になった安心感で気が緩んだのか、全身の熱がさらに上がったような感じを受けていた。
「水飲むか?」
余程緒方の声が力なかったのか、野村が今度は振り返って聞いた。それには首を横に振ってだけ答えた。その様子を受けたせいか、野村は低い位置にある別の棚を引っ掻き回して、その中から紙箱を一つつかみ出した。蓋を開け説明書を読んでいたが、納得したのか中から一錠ずつ梱包されている白一色のカプセルを二錠分切り離し、緒方へと持ってきた。
「とりあえず解熱剤だ」
梱包からカプセルを取り出すと、水ボトルをゆっくり傾けつつそれを飲ませた。熱と疲労と睡魔とで緒方の意識は途切れる寸前だった。
「しばらく寝ておいた方がいい。これからの話はその後だ」
それだけ言った野村の顔を見て安心したのか、緒方はそのまま眠りの淵へと落ちていった。

【残り25人】


厳島神社の平舞台を満潮の海水が囲み、その上では達川光男(全監督)が広島へ自分を運ぶ船を待っていた。そう時間もたたないうちに、視界に小型の船が入ってくる。それを確認して、達川はちらりと後ろを振り返った。厳島神社の後ろに聳え立つ弥山、そこでは自分の指揮に従って二年間のペナントを戦ってきた選手が、自分の生命をかけて戦っている。残った選手はそう多くはない。突然の出来事に屈さなければならなかった男たちは、最後に自分に対してどのような感情を抱いて死んでいったのか。
達川は、ふっと、それこそほんの一瞬だけ笑みを浮かべた。―――何を傷心的になっとるんじゃろうかのう、わしは。恨むならわしを恨め。わしもこの指揮をとらなければ、お前らと同じ運命にあったんじゃ。仕方なかろうが。そうだ、わしはこのゲームじゃただの操り人形じゃけえのう。本当の黒幕はな、黒幕は―――。
ドッドッドッというエンジンの音に達川はふと我に返った。遠くにいたはずの船が既に目の前にあった。ふう、と一息つくと達川は足元の荷物を持とうと屈んだのだが。
「荷物はとらなくても結構ですよ」
えっ、と驚きの声をあげそうになって屈んだまま声のほうを向いた。船から下りてきたのは一人の男。穏やかな笑みと知的な表情を浮かべるその男は、紛れもない。三村敏之(元監督)だった。
「上のほうからの命令です。マスターズリーグは私とともに欠場しろと」
「それは本当なんか?わしは一言も聞いとらんぞ」
「そりゃ、聞いてたら私がここに来るまでもない。本当は私がここに来るはずではなかったんだけどね」
「………?」
「そういえば、死亡者リストを見せていただきましたよ。妥当な結果が出ているみたいだが」
船から降りてきた時と変わらない笑みを浮かべたまま、三村は話題を変えた。
「私はねえ、岡上に期待しているんだ。あれは技術と精神力を磨けば、それこそ現役時代の私以上の成績は残せるはずだ。それだけ面白い。私が監督だった時代にあの選手がいたら間違いなく使っていただろう。どうせ死ぬんだし」
「“どうせ”?」
「お前が監督になった最初の年、大野が投手コーチだったのは覚えてるだろう?自分のことだから」
三村が何を意図として話をすすめているのか、達川には全く分からない。どうせ?大野?一体何の関係があるというのか。
「あの時投手起用を全部大野にまかせてたと聞いて、私にはピンとくるものがあったんでね。あの時は周りからはものすごい批判の浴びようだった。特に調子のよい投手を次から次に使っていく様は」
「それはわしの甲斐性の無さも…」
「はは、それも多分にある。しかし、あの時既に大野は知っていたんだよ」
変わらない笑み。しかし、やっと達川は気づいたのだ。三村の目は決して笑っていないということに。
「このゲームが行われることを」
「まさか!そんなことはなかろう?」
達川は声を荒げた。しかし、三村の表情は一向に変わらない。それどころか、声をあげて笑い出した。
「ははは、まさか、か。じゃあ、もっといい事を教えてやろう。私が監督最後の年、それまでロクに使わなかった横山と新人の幹英を登板させ続けたな。あれも計算づくだったんだよ」
いまだ笑いがこらえられないといった様子で語る三村とは対照的に、達川には焦りとも怒りともとれる態度がわらわらと表れていた。
「まさか…」
「そのまさかだよ。あの時点で私もゲームの存在を知っていた」
後頭部を勢いよく殴られたかのような衝撃を達川は受けた。何年も前から既にカープは動いていたのだ―――球団消滅の為に!
「だいたい自分でおかしいと思わなかったのかね。いくらなんでも一軍の監督を任されるのは早いだろう。球団も全て計算していたんだよ。このゲームの“表向きの指揮者”には誰が一番適任なのかさえも」
「ほいじゃあ、もしかしてこの計画は…」
「ええ、これは私が監督を引き受けるもっと前に決定していたこと。ただ、当時のカープにはそれなりの強さというものがあったから、それを落とすのに意外と苦労したよ。まあ、横山と幹英の使い方はもっと別の理由があったんだが」
「別…?」
「大野が高橋をフル活用した理由もきっと一緒だろうね。目の前にいる選手はほとんど全て死ぬことが決まっているんだ―――中にはゲームの前にこの世界から消えていくのもいるのだろうが。その中に一番の旬を迎えようという選手がいる」
三村が浮かべていた今までの穏やかな表情が初めて崩れた。笑みにはかわりなかったのだが、何か別人のような、とても醜く、邪心さえ読み取れるようなそれだった。
「旬を味わいたいのは、食べ物でも選手でも同じことだ」
この人は―――べっとりと脂汗をかいた手のひらを達川がぎゅっと握り締めた。ゲームとはここまで壮大なものなのか?もしかしてこのゲームが終わったあと、わしは―――。
「しかし、いい加減立ち話もなんだから、指揮を取っている場所に案内して頂きたい」
いつの間にか表情を戻した三村が促した。達川がちょっと躊躇した態度を見のがさず、三村は言葉を続けた。
「本当は私ではなく大野がくるはずだったんだ。稲尾が『投げさせる』なんてマスコミに公言したばっかりに大野は来られなくなってしまったが」
「じゃあ、本当に大野は…」
「当たり前だ。全て知っとる。この計画を前から知っていたOBしかマスターズリーグにも推薦してないんだよ、球団は」
またしても知らされていない事実。カープのOBでは大野の他にも安仁屋宗八、外木場義郎、高橋慶彦などそうそうたるメンバーが出場していたが、本当に彼らも全て知っていたのか?
達川の心のうちでも読んだのだろうか、一言だけ三村が付け加えた。
「まあ、例外はお前ぐらいのもんだったんだ」

【残り25人】


不気味なほどの静けさを背後に支えつつ、やや引きつった表情で、そして自分が踏んだ枝の折れる音にいちいち両肩をほんのわずかではあるが飛び跳ねさせながら歩く男。それは、その年のドラフト入団生の中では端正な顔立ちをしていたお陰で、巨人の高橋由喜に似ているとさえ言われた井生崇光(背番号64)だった。
その端正な顔には宮島に放り込まれてからの疲労がありありと浮かんでいた。もっとも、彼はその時間のほとんどを水族館の中で過ごしていたので、他のチームメイトよりはまだマトモだったに違いない。今まで会ったのも偶然に迷い込んできた鈴衛佑規(背番号63)一人である。
なぜその井生が弥山の麓でうろついているのか、答えは単純明快であった。水族館のある一帯が禁止エリアに指定されたのである。ゲームスタート以降世話になった安全な逃げ場と、そして水中でゆらゆらと手を振る鈴衛の死体に別れを告げ、まだ自由に身動きの取れそうな弥山の麓へと逃げ込んだのだった。
差し込む日差しのせいか、極度の緊張のせいか、井生は歩くのをやめ、道の脇の草が生い茂る斜面にもたれかかるようにしてしゃがみ込んだ。デイパックからペットボトルを取り出し、一口だけ水を飲んだ。長期戦になるのなら食料のストックは必要になってくる。疲れたとはいえ迂闊に支給された食料を減らすことだけはできなかった。
それにしても、禁止エリアは相当効率よく考えられていた。まるで魚を網で捕獲するかのごとく、外側から外側から指定されている。生きている選手は追い詰められてただ一ヶ所空いた自由なエリアへと逃げ込み、遭遇する確率も―――全員進んでそうしているのかは分からないが、殺しあう確率も高くなっていくのだ。網で捕獲される魚は捕獲した人間の手によって運命が委ねられる。それでは、今その魚のように捕獲されようとしている俺の運命は誰の手に委ねられるのだ?ゲームを進める達川以下首脳陣?こうやって生き延びようとしている俺自身?それとも―――俺を殺すかもしれない誰かか?
突然激しい身震いが井生を襲った。嫌だ、嫌だ、俺はまだ死にたくない!宮島にきて何度も何度も叫びたかった言葉が、ここでも口をつきそうになった。たった二年間プロの世界に身をおいただけだったが、井生自身は薄々感づいてはいた。自分がこの世界では大成できないだろう、ということを。同期である東出との比較、過去大成していった選手との比較、さらには外野へコンバートされても結果を残せない自分のモチベーションの低さ―――全てが井生に「プロでの成功」から目をそむけさせていた。ただ、プロで大成しなかったからといって自分の人生が全部否定されるわけではない。それからどのような仕事に就くか分からないわけだし、その仕事で成功すれば、もしかしたらプロ野球選手としての稼ぎ以上の報酬さえ手に入れることが出来るかもしれないのだ。―――だから、俺は生きたい。これからの人生の可能性をここで絶やしたくない。だから、俺はまだ死にたくない!
もたれかかった斜面からほんの少量の土砂がこぼれ落ち、井生の頭や肩に降り注いできた。ふと顔を上げ見上げたその斜面から、今度はもっと勢いよく土砂とそして人間が―――。
「ひっ」
突然のことに井生は頭を抱えて突っ伏した。ざざざざ、という音と体に降りかかる土砂を浴びながら。
「…つうっ…」
土埃の中、誰かの声がした。こぼれかかる土の勢いが弱まったことを背中で確認して井生はおそるおそる声のしたほうを確認する。そしてそこにいたのは、自分より小柄な選手。
「―――岡上さん?」
そう呼ばれたその人影はぎくっとしたように振り返った。まさかこんなところに人がいたなんて思いもしなかったらしい。一瞬張り詰めた空気が二人の間に流れたが、それはすぐに消えた。
「なんだ、井生か。変なとこ、見られちまったな」
「いや、僕こそびっくりしましたよ。まさかこんな所で」
「お前、ヘルメットなんかかぶって何してるんだよ?」
「あ…」
それでふと、井生はかぶっていたヘルメットの存在を思い出した。何かあったときのためにと、水族館を出たときからかぶっていたものだった。
「これ、俺の武器らしいんですよ。くだらないっすよね」
「ほんとだな」
岡上は笑みとともに言葉を返したが、それもわずか一瞬、すぐに顔をゆがめて膝に手をついた。井生もその様子に一変、不安げな顔を見せて岡上に近づいた。
「岡上さん、まさか膝…」
「そっか、井生には言ったことがあるもんな。あまり調子がよくないらしい。これも仕方ないけどな、もうすぐ手術する予定だったんだから」
岡上が一軍に昇格するまでは、井生も岡上も共にウエスタンの試合に出場することがほとんどだった。だからこそプレー上の悩みとか、怪我についてなどはある程度宿舎での話題として知っていたのである。特に井生はコンバート前、岡上と同じくショートストップとして試合に出ていた。昔のことではあるが、同じポジションのライバルの調子というのが気にならないはずはなかった。
「それじゃ無理したらやばいっすよ」
「…そうだけど」
それだけ言うと岡上は不安そうに落ちてきた斜面を見上げた。何かを悟ったように井生の表情が凍りつく。
「まさか、岡上さん、今誰かから逃げてきたとか…」
岡上は何も言わずただ一回、首を縦に振った。井生の顔から血の気が引く。
「まじっすか!俺こんな所で死にたくなんかないっすよ!ねえ、岡上さんもそうでしょう!ねえ!」
「落ち着け、井生。静かにしろ。死にたくないから逃げてきたんじゃないか」
「もう嫌だ!なんで俺野球選手になんかなっちまったんだろう…岡上さんもそう思うでしょう…」
今にも泣き出しそうな顔で岡上にしがみつく井生を何とかもとのように斜面に座らせると、岡上も並んで座った。その方が足にも負担はかからない。
「俺は野球選手になってよかったと思ってるよ。将来どうなるかは分からないけど」
「そうっすか…俺はこのゲームの前から迷ってましたよ。怪我したときも、外野守るようになってからも、今年も上に上がらないままシーズン終わってしまって。なんか俺の時のドラフトで一番結果残せてないじゃないですか。矢野も酒井も一軍で投げて、俺だけ取り残されて」
「まあ、それは悩むけどな。かと言って、そのまま野球人生が終わるってわけでもないけど」
「そうっすかねえ?」
「そんなもんだって。大学時代の俺見たいだな、お前」
井生にはこのほんのひと時が、変な殺人ゲームに巻き込まれているのさえ嘘のように思えた。馴染みの友達と二人、居酒屋で酒を酌み交わしながらどうでもいいことを喋って笑っている、そんな時間を過ごしているかのようだった。
「なんか、ちょっと吹っ切れましたよ、俺。野球選手辞めたらどういう人生送って、どうやって幸せになるかとか、そんな計画ばかり考えてましたから、ここに来てずっと」
「将来の計画、か…」
「そういえば岡上さん、さっき誰に追われてたんですか?やっぱり本当にいるんですね、殺し合いやってる奴って」
「―――まあ、誰にも追われてはいなかったんだけど」
「え?」
聞き返そうと岡上のほうを見ようとして見えたのは、目の前で打ちあがった花火―――のはずはなく、いつの間にかポケットから岡上の右手へと移動していた357リボルバーの銃口から噴き出した火花で、それが井生がこの世で見た最期の光でもあった。弾は井生の額の右側から斜めに頭部を貫通し、ヘルメットの中までもをその外観と同じように赤く染めたはずだ。焦点の合わない目を開けたまま、しかし生きていた時と同じように井生の死体は斜面にもたれかかっていた。
「将来よりどうやってここを生き延びて脱出するか考えた方がよかったと思うよ、俺は」
そう呟いて再びその死体の横に岡上は腰を据え考えた。井生は今までこのゲームで会った人間の中で一番警戒心がなかった奴だったが、それが井生らしいといえばそれらしい。緊迫感がないというか、現実から目をそむけているというか。ただ―――このゲームが始まって以来、初めて岡上がプロ以前の自分を振り返るほど自分を出した瞬間とも言えたであろう。それは思いもよらなかった偶然の再会がそうさせたのか、今までで一番酷い膝の痛みで井生に見せてしまった自分自身の弱さを隠すためにそうしてしまったのかは岡上自身にも謎ではあったが、ここで思い出した過去の記憶が、このゲームで岡上を動かす部分の根底にあるということを―――岡上自身はっきりと確信したのだった。

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