それは秋季キャンプも、ファン感謝デーも終わったある冬の日だった。新井貴浩(背番号25)は突然球団から呼び出しを受けた。ユニフォーム持参だという。
―――このお寒い中練習かよ!怪我してもしらんぞ。
と思ったが、契約更改を控える身としては無駄に印象を悪くして給料を減らされることになったら困る。その日の全ての約束を断り、新井は大野練習場へ急いだ。室内練習場について新井は驚いた。若手のみならず、自由契約になった選手と帰国している外国人選手を除いた全ての選手が呼び出されていた。その割には山本監督(背番号8)の姿はない。いるのは松原ヘッド兼打撃コーチ(背番号71)1人である。
「今日の練習はすぐ終わるんだが、その後報告することがある。多少時間がかかるから、どうせオフになって怠けてるんだろうし、ランニングでもしてもらおうと思ってな。まあここでめいめいに練習していてくれ。準備が出来たら呼ぶから」
そう言って松原コーチは出て行ってしまった。投手も野手も、若手もベテランも一同に集まっている。これでドラフトで指名された新人がいれば新年の合同自主トレと何ら変わらない、そんな雰囲気である。オフに入ってトレーニング施設で見たやつもいれば久しぶりに会う選手もいる。選手たちは近くにいたチームメイトと話に花を咲かせ始めた。
10分程たった頃だろうか、新井は体が妙にけだるいのに気付いた。新井だけではない。周りの選手たちが自分の体を支えきれないといった感じで壁にもたれたり、あるいは膝をつき倒れこんでいる。倒れる選手が時間を追うに連れだんだんと増えていく。新井もやがて自分の体を支えきれなくなり近くのパイプ椅子に座り込んだ。そしてものすごい眠気に襲われる。それを振り払おうとするがどうにもこうにもできない。
ガラス窓をひっかくような音がして新井は重い頭を何とかそちらに向けた。前田智徳(背番号1)が上半身を壁でおこし、右手で窓を開けようとしている。しかし、窓は開かない。鍵でもかかっているのか?前田は思い通りにいかない窓にいらだちをぶつけるかの如く、右の拳を窓に叩きつけた。2度目を叩きつけようかとしたその時に、前田の体自体がガクリと地面に落ちた。
―――前田さん、何をやってるんで…
心の中の問いが終わらないうちに、新井も意識を失った。
【残り54人】
波の音が聞こえる。海の匂いだ。子供の頃飽きるまで来た、瀬戸内海の匂い。でももっと暖かい時期に遊びに来たはずだ。なんでこう、突き刺すように冷たい海風が吹いてるんだ?違うだろう、焼けるような日差しと青い海―――。
新井は目を覚ました。視界にははるか遠くに輝く無数の星が散らばっている。それが夜空だというのはすぐに理解は出来た。新井は体を起こす。起こして新井は驚いた。自分のいるその場所は見慣れた厳島神社の、本殿から海に突き出した平舞台である。今は暗くて見えないが、きっとこの舞台の先にはあの有名な鳥居があるのだろう。広い闇の向こうには対岸の明かりが見えた。
平舞台には自分だけでなく、練習場に集まっていたはずの選手全員がそこにいた。なぜか、ご丁寧にも毛布がかぶせられていたのだが。それにしても毛布があっても一時的な寒さしのぎにしかならないくらい寒かった。
―――なぜ、自分は…いや、自分たちは宮島なんかにいるんだ?あの練習場の光景はなんだったんだ?
平舞台で寝ていた選手たちもだんだんと起き出した。そして新井同様自分がなぜここにいるのかわからない、といった様子であたりを見回している。ほとんどの選手が起きた頃に、隣の選手も起きた。森笠繁(背番号41)である。同期の大卒野手は森笠しかいなかったので、新井と森笠はプライベートでもよく飲みに出かけたりする仲だった。
「…新井?…どこ、ここ?」
「宮島っぽい」
「は?宮島?」
その時である。セットされていたのだろう照明が一斉にともった。あまりのまぶしさに目がくらむ。
「はいはいはーい、おきましたかぁー?」
どこかで聞いたことのあるクセのある広島弁―――明かりの中から出てきたのは、前監督・達川光男(背番号74)だった。
【残り54人】
「はいはいはーい、おきましたかぁー?みんなねぼけとらんかー?わしが誰だかわかっとるかー?」
去年までベンチで見ていた74番のユニフォームに身を包んだ達川が拡声器を通した陽気な声を発する。袖には懐かしい50周年のワッペンもされたままだ。そこにいる選手は皆何が起こったかわかっていない様子だ。
「わかっとるけど、これはなんなんですか?」
選手の視線が声のしたほうに注目した。佐々岡真司(背番号18)である。眉間にしわをよせて言葉を続けた。
「わしら球団に呼び出されて大野に集まったはずです。なんでこんな所に連れてこられてるんですか?」
佐々岡の問いに選手たちが一斉にざわめきだした。
「そういや球団に呼び出されたんじゃ」「今何時だ?」「なんなんだ、これ?」
「はいはいはーい、静かにせんか」
達川が拡声器のボリュームを上げて叫んだ。あまりの音に選手のさわめきが止む。
「わかった。説明しちゃるけんのう。今年はよう頑張った。わしが監督やったらここまでの成績は残せんかったじゃろう。しかし、結果は4位じゃ。またAクラスを逃した。あとひとふんばりが足らん。闘志が足らんのんじゃ。しかし人間誰しも内に秘めた力を持っとるはずでのう、今回それを見せてもらおうと思うとる。そこで、みんなにはこれからちょっと殺し合いをしてもらいまーす」
皆一様に耳を疑った。今達川は何と言った?コロシアイ―――?
「達川さん…冗談はやめてくださいよ」
さっきから立ちっ放しの佐々岡が信じられないといったように言った。それはここにいる選手全員の思いだったかもしれない。しかし。
「冗談じゃと思うか、佐々岡。ほんならなんでここまで連れてこられたんじゃ?」
佐々岡は言葉を失った。答えが見つからない。まさか、そんな。
「なんじゃ、お前ら、信じられんのか。ほいじゃこれを見りゃわかるじゃろう」
【残り54人】
達川が「お願いします」と言った。本殿の方からユニフォームを着た男2人が担架みたいな物を運んでくる。その男は―――なんと松原コーチ(背番号71)と北別府投手コーチ(背番号73)である。担架からはダラリと…右腕が垂れ下がっている。新井は言いようのない嫌な感じに襲われた。
「松原さんもペーもこの計画にはすぐ頷いてくれたんだけどねー、山本監督だけは反対してたんだよー。ほいでねー、話つけるのもたいぎかったけぇ、こうなっちゃいましたー」
達川が一際明るい声で説明し、担架にかけられていた布がとられた。一番前にいた矢野修平(背番号66)や林昌樹(背番号53)が人間の声ともつかない声で叫んだ。それを見て他の選手も身を乗り出す―――が、同様の反応しか起こらない。新井も前へ出ると悲鳴の対象を見た。そこにはミスター赤ヘルと呼ばれた山本浩二監督が、いた。いや、いたではなく、それらしい「物体があった」。
真っ白なユニフォームは血にまみれている。シーズン中ずっとかけていた黄色の眼鏡(それがもとで選手の間では「ピーコ」と呼ばれていたのだが)は左半分しかなかった。そりゃそうだ、頭半分しかないのだから。思わず新井は吐き気を催し、舞台の端へ駆け出すと海に向かってそれをもどした。
「はいはいはーい、大の男だろー?静かにしろ!!」
達川はベルトから拳銃を抜いた。空に向かって威嚇射撃でもするのかと思ったが、銃口は監督に向けられ、そのまま2発、もう動くことのない監督の腹に打ち込まれた。その体は交通教室で轢かれる人形のように波打ち、しかしそれだけだった。
達川が視線を上げた時には、選手の悲鳴はやんでいた。
「それでいいんでーす。さーて、これからゲームの説明でもしようかのう」
達川が笑みを浮かべ言った、その時であった。新井の後ろから罵声が響いた。
【残り54人】
「冗談じゃない!!」
選手が一斉に顔を向けた。そこには嶋重宣(背番号00)が立っていた。
「僕らは野球をしにカープに入ったんです!なんですか、殺し合いって?そんなことをするために埼玉からきたんじゃない!!それに自分には家族もいる。こんな所で死んで家族が納得すると思うか!?」
「嶋クンねー、気持ちはわかるんじゃけど、カープに入った以上は球団の方針に従ってくれんかのう。それにのう…そういうデカい口を叩くのは一人前になってからにしてくれんか。期待するとすぐ怪我や不調で2軍落ちしよって」
達川が意地悪く笑った。嶋の表情がみるみるゆがむ。
「このやろっ…!」
「やめろ、嶋!!」
嶋の隣にいた横山竜士(背番号23)の静止を振り切り(嶋と横山も仲がよかった。それとともに、同期入団で昔投手だった嶋を横山はライバル視していた)、嶋は達川の方へかけだしていった。
「殺すんならまずあんたからだ!」
そう言って嶋は猛然と達川の方に駆け寄る。しかし、達川がそれをあざ笑うかのように右手をすっと出すと、その先に握られていた拳銃が1発、2発と火を噴いた。それに呼応するかのように嶋の体が2度揺れると、そのまま後ろへどさっと倒れこんだ。倒れこんだ嶋の顔を見た田中由基(背番号34)が「ひっ」と声を漏らした。二つ穴のあいた胸元から血がみるみる滲み出していた。
―――嶋!!
新井は思わず嶋のもとにかけよろうとした。入団した年が違ったとはいえ新井と嶋は同学年だ。森笠同様飲みにいったりもしたし、新婚の嶋のところへおしかけ奥さんの手料理を頂いたこともあった。その嶋が、あっさりと殺されてしまったのである。しかも、去年まで頼りにしていた前監督に。
「やめとけよ、新井!!」
かけよろうとしたその足に横山がしがみついた。しかしその横を、新井よりも早く嶋のもとに駆け寄った選手がいた。森笠だった。銃声が響く。森笠の左足が不自然に右へはらわれるような格好になり、はずみで前のめりに倒れた。左足のふくらはぎ横が擦り切れた感じで破け、赤いものがつたわり始めた。
「だーかーらー、静かにしろと言ったじゃろうが!!」
今まで見たことのない厳しい表情の達川がそこにいた。一通り繰り広げられた光景で選手たちはやっと悟った。―――これは、現実だ。
達川が新井に視線を向けていった。
「新井、わしにつっかかる元気があるんじゃったら、森笠をそっちへ連れて行け」
【残り53人】
「さて、いい加減みんなには殺し合いをしてもらうけぇのう」
気がつくと東の空がうっすらと明けてきている。一体自分たちはどのくらい気を失っていたのか、そして今までの悪夢はどのくらいの時間行われていたのか。森笠を横山とともに自分の横に運び、側にあった荷物の中から取り出したタオルで森笠のふくらはぎを縛ってやりながら、新井は何度も何度も考えた。
「舞台はこの宮島。勿論住人の方には出て行ってもろうとる。素手で殺しあえとはいわん。出発の際にデイパックを一人一つずつ渡すが、その中に武器が入っとるけぇ、それで殺りおうてくれ。武器にも当たり外れあるから、外れた場合は日頃の行いが悪かった思うてあきらめい。なんか質問はあるか?」
沈黙をやぶってどもった声が響いた。
「お、俺はドラフト1位で入ってきた。エエエリートなんだ。なんか、と、特典はないのか?」
捕手の瀬戸輝信(背番号28)である。こんな時になっても自分の身の保全しか考えてないのか、この人は?
「あのねぇ、瀬戸君は平等って言葉しってるよね。いいですかぁ、人間は生まれながらに平等なんですよー。ドラフトで何位であっても、結局選手としてスタートラインを切るのは同じ瞬間じゃろう?ドラフト云々で、その後の君たちの選手としての価値が決まるわけじゃない。選手の価値は活躍に応じてファンが声援で表してくれとる。瀬戸君にそれが聞こえとらんはずはないと思うがな。だから瀬戸君も自分だけが特別なんてそんな勘違いを―――するんじゃない!」
いきなり一喝されて瀬戸はペタンと腰をおろした。達川はしばらく瀬戸を睨んでいたがすぐに笑顔に戻った。
「このことはご家族の皆さんにはちゃんと報告しとるからなー。家族のことは心配するんじゃないぞ。新婚の金本や2人目が生まれたばかりのキムタクには申し訳ないがなー」
自分の名前が出され金本知憲(背番号10)も木村拓也(背番号0)も表情がこわばった。
「この殺し合いから脱出して向こうに帰れるのは、たった一人。いいかぁ、チームメイトを殺しあわないと帰れないぞー」
思考回路が停止した。おそらくこの場にいる皆そうだっただろう。今まで仲間としてともに戦ってきたチームメイトが敵?この人たちが消えないと帰れない?守るべき家族のある選手は勿論、そうでない新井のような選手でも両親や兄弟、友人、さらには将来妻になるであろう女性にさえもう会えない?理解しがたい言葉が次々と選手を襲っていった。
【残り53人】
「そうそう、忘れとったわ。みんなの首には首輪がついてまーす。こら!無理に外そうとするなー。外そうとすると…」
達川が一瞬言葉を切ったことで選手の手が首にのびる途中で止まる。
「…爆発するぞ」
またもや選手の動きがとまった。バクハツ?コロシアイ?ブキ?そんな言葉が頭の中を渦巻いている。
「その首輪でみんなの動きをわしらがチェックしとる。とりあえず同じ場所に隠れとらんように、どんどん立ち入り禁止エリアを設けるけぇ。禁止エリアに入ってもその首輪がドカン、じゃ。地図はバッグの中に入っとる。宮島も意外と広いけえ、最初からある程度の所で有刺鉄線をはって島の向こう側に行けんようにしとります。えーとなー、フェリー乗り場の向こうに自然公園があって、そっから―――あの後ろの山は弥山(みせん)言うんじゃが、その頂上を経由して一番奥の登山道に沿うようにはったはずやったのう。ま、確認すりゃわかるが、いいか、そっから向こうには入るなよー。禁止エリアと同じじゃど。あとな、皆隠ればっかりで、ずっと死人が増えんようやとわしらも広島に帰れんけぇ、24時間死亡者が一人もでなかったらこれまた爆発するようになっとる。そん時は、優勝者は、なしよ、っつうことじゃ」
あまりに人ごとのように言う達川に怒りを覚えないわけがなかったが、視界には倒れたままの嶋がいる。自分がああなってもいいのか、と新井は自分に言い聞かせた。
「そうじゃ、お前ら携帯を持っとろうが、使うなよー。電波もこっちがチェックしとるからなー。あと、この厳島神社はみんなが出て行って二十分後に禁止エリアになります。命が惜しけりゃとっとと離れろよー。誰が死んだとかどこが禁止エリアになるとかは毎日午前午後の零時と六時に放送を流すからよく聞くように。建物は自由に入っていいけど、ロープウェーはとめとるからなぁ、その鍛えた足腰で山登りでもしてくれや」
山登りだと?笑わせる。いや、笑い事ではない。わかっているようで、これは夢なのかもという思いも心のどこかにある。
「じゃあ背番号順に出て行ってもらうから、呼ばれたら返事して出て来いや。そうそう、出口は厳島神社の入り口のほうな。逆走せぇよ。自分の荷物は勝手にもっていってええからのう」
達川の後ろにはたくさんのデイパックを持った松原コーチと北別府コーチがいる。ああ、これは夢ではないのだ―――。
「嶋…はわしが殺してしもうたんじゃったのう。じゃあ0番木村拓也ー」
木村から三分ほどおきに次々と選手が出て行く。そして、新井の番がやってきた。本殿のほうに駆け出す瞬間、嶋の横を通る。
―――嶋、何もしてやれなくてすまん。カタキは必ずとってやるから!
そう心の中で叫ぶと新井は、デイパックを受け取り入り口のほうへただ走った。
【残り53人】
入り口を出てとりあえず新井はあたりを見回した。新井は多少期待していた。誰かいてほしい。しかし誰もいなかった。いや、いるにはいたのだが―――それは胸から20cm程度の棒―――その先には戦闘機の尾翼みたいなのが4枚ついていたのだが―――を生やして仰向けになった遠藤竜志(背番号21)の死体だった。
「は…はは…」
無意識のうちに乾いた笑いが漏れた。これは何かの冗談だろ?よく出来た蝋人形だな?おい遠藤さん、起きてくださいよ…遠藤さん?
遠藤に近づこうとしたその時、ヒュンと鋭い音がして、新井の眼前を銀色のものがかすめた。新井は思わず内角を突かれた時のように体をのけぞらせる。その銀色の…遠藤に生えてるものと全く同じ矢は後一歩のところで新井をとらえることなく新井の足もとに突き刺さった。新井は瞬間的に地面に突き刺さった矢を抜くと眼前に広がる雑木林を見やった。何かが動く。
―――そこか!
獲物を捕らえた新井の動きは素早かった。立浪のライトオーバーのヒットを早く捕球しアウトにした時に投げたボールと同じくらい(もっともあの時はディアスのナイスカバーもあったが)美しい軌跡を描いた矢はその獲物を襲った。矢を受けた“それ”は「うっ」と短い呻き声をあげるとバランスを崩し、そのまま地面に落ちてきた。空はさっきよりさらに幾分明け、近づけば人の見分けくらいはつくようになっていた。
落ちてきた影を見て新井は驚いた。それは河野昌人(背番号12)であった。河野の体の先に武器と思われるボウガンが転がっていて、さらに足もとに落ちているデイパックには無数の矢が残っている。
新井は血の気が引くのを感じた。間違いない、この糞みたいなゲームは既に始まっているのだ!少なくとも河野はこのゲームに乗り、遠藤を殺したのだ。やばい。逃げよう。河野のほかにこのゲームにのった人間がいたとすれば…と考えて新井の頭の中にある人物が浮かんだ。
―――森笠が危ない!あの足ではロクに逃げられない!!
しかし新井と森笠の背番号=出発の順番は大分離れている。危険を承知しながらも負傷した友を見捨てることができず、新井は雑木林の中に身を隠した。
【残り52人】
新井は待っていた。森笠を、ただ待っていた。
待っている間、厳島神社の入り口からは背番号順に次々と選手が飛び出していった。勿論遠藤の死体はそのままだったので、皆一瞬その場で立ちどまり、このゲームが始まってるのを悟ったのか四方に逃げていった。新井にとって不幸中の幸いだったのが、その中で誰も雑木林のほうに逃げ込んできた選手がいなかった、ということだった。
小山田保裕(背番号39)が出発した。同期入団の小山田とも新井は仲がよかった。佐々岡の負傷からとはいえ、彼が昨年の開幕戦の巨人戦以来のセーブを甲子園であげたときは自分のことのように喜んだほどだ。そんな友人と戦うなどしたくはない。しかし、遠藤の死体を、河野の行動を見た後でそんな言葉を純粋に吐き出すことは、不可能に近かった。
倉義和(背番号40)も出発した。長谷川昌幸(背番号19)とのコンビで一時期名をはせた倉さん。そういえば倉さんも去年結婚したばかりだったなあ、と思い出した。本当に、本当にたった1人しか、すぐ近くに見えているあの広島に戻ることは出来ないのか?海の向こうを見ながらほんの昨日までの思い出に浸ってると入り口からまた1人選手が出てきた。
―――森笠!
森笠は他の選手と同じく遠藤の死体に気付くと立ちどまった。顔面蒼白という言葉がピッタリである。遠藤の死体を避けるように動くと、そのままタオルをまいた左足を引きずるようにして走り出した。
「おい、待て森笠!!」
不意に呼び止められて森笠は振り返った。雑木林から新井が降りてくる。
「そんな足でどこいくんだよ!」
「あ…」
森笠はさっきの遠藤の死体がよほどショックだったのか声さえ出せないようだ。
「ったく、一緒に逃げるぞ!」
そんな森笠の腕をつかむと、新井は弥山のほうに向かって走り出した。
【残り52人】
しばらくして河野は意識を取り戻した。頭を打っていて、意識を取り戻した当初はただただ「頭が痛い」としか思わなかった。いや、「頭が痛いんじゃ!」という感じだった。自分ではどうしようもできない不快な気分。シーズン始まって調子が上がらなかった自分を「体重がしぼれてないから」と批判したマスコミに対して、「肘が痛いんじゃ!」と発言した時のような、そんな気分だった。
倒れているせいで視界には薄く白んでいる空ばかりが映るが、その右のほうに雑木林が映っているのに気がついて、自分が何をやっていたかを思い出した。達川、山本監督の死体、出発、とりあえず身を隠した雑木林、デイパックの中のボウガン、倒れる遠藤、日頃世話になっていた高橋建(背番号22)を見送り、しかし矢をつがえる間に横山竜士(背番号23)を取り逃がし、さらには河内貴哉(背番号24)にさえも、オフシーズンのランニング番組でMVPをもぎとった彼自慢の足で逃げられてしまったこと。そして―――。
河野は慌てて身を起こした。楽に殺せると思った新井に逆にやられてしまった。ちっ、やつはどこだ。俺は妻と子供のために帰るんじゃ。シドニー代表の実力をあなどるな!そのためにはボウガンを―――と目をやった先に、福地寿樹(背番号44)がいた。
「おおおおおおい、だだだ大丈夫か?これ、お前のか?」
そう聞く福地の右手には河野のボウガンが握られている。
「ああああああああああああ」
河野はその武器を取り返そうと妙な叫び声を上げて福地に襲い掛かった。
「わああ」
あまりに突然のことに福地は驚き、そして、河野に向かってそのボウガンの引き金をひいてしまった。
矢は河野めがけて一直線に突き刺さり、河野は、そう、漫画なんかで見る、攻撃をくらった主人公みたいに体をくの字にすると、そのまま倒れこんで、しかしそれらの主人公とは違って二度と起き上がることはなかった。
福地は混乱した。俺が殺した?殺し?違う、これは正当防衛だ。河野の方が先に襲ってきたんだ。河野を殺ってしまったのは仕方がないんだよ。盗塁を試みた時にボールを送球する相手のキャッチャーと同じさ。やらなければ自分がピンチに陥るんだよ。そうだ、そうだよ。
そう考えると、痺れたようになっていた頭の一部にようやく感覚が戻ってきたような感じがした。福地はあたりを見回し、ボウガンと、河野の足もとに転がっていた彼のデイパックを奪うと、その自慢の足で走り始めた。
【残り51人】
長崎元(背番号58)は厳島神社の出口側に海に突き出した形で存在する西松原の林の中を慎重に歩いていた。支給のデイパックと自分のバッグを肩からかけ、右手には支給された武器である小型のオートマティックピストルを握りしめていた。なぜ日本の1つの(しかも貧乏な)プロ野球チームであるカープが(あるいはこのゲームの首謀者であろう達川が)このような武器を渡すことができるのか、それは長崎の知る範囲ではなかった。
高校を出て一,二年目しかたってない野手の何人かが平舞台上で固まって座っていたことが幸いしていた。達川の目の届かないところで、長崎らは小声で話しあった。西松原の一番端で落ち合おう、と。
出発の順番は話し合った仲間内の中では後ろから二番目であった。だから西の砂浜へ着けば誰かがいる。それだけを信じて長崎は目的地へ向かった。そして、それはもう目の前にあった。
しばらく歩き、林を抜ける寸前で人影を確認することが出来た。朝日が海面に乱反射してそれが誰だか見分けることが出来ないが、岩場に座って人を待っているようである。長崎は駆け出してしまったのだ。喜びの余り。
長崎は無防備に人影に近づいていき、大分近づいたところで、それが約束をかわした仲間でないことがわかった。そこにいるのは尊敬すべき主力選手、金本知憲(背番号10)であった。
長崎は自分の探していた人間ではないとわかって足を止めたが、金本の気さくな一面をテレビを通して見ていたので、警戒心をもたなかった。むしろ、この人が一緒だったら、あの頭のおかしい達川や松原コーチを倒して皆で広島に帰れるのではないか、とも思った。長崎の姿を確認して「長崎」と控えめな笑みを浮かべた金本を見て、長崎のその思いは一層強くなった。
「金本さん、僕、人を探してるんですけど…」
と言いかけて長崎は気付いた。金本の座る岩場の影に何かが打ち上げられているのを。それが何かを認めて長崎の表情が凍りついた。
「か、か、金本さん、そ、そ、そ、そこにあるのは」
震えが全身を襲いうまく喋ることが出来ない。金本は事も無げに長崎の質問に答えた。
「これかい?―――俺を殺そうとしたんだよ。末永も、田村も、そして甲斐も。だから、俺が…殺ったんだ」
―――ああやっぱり!そこには長崎と約束を交わしたはずの末永真史(背番号51)、田村彰啓(背番号56)、甲斐雅人(背番号57)が既に冷たい人形となって波とたわむれていた。一瞬にして頭が真っ白になる。足がガクガクと震える。
「聞いてくれるかな」
落ち着いた表情で金本が口を開いた。
「俺は、どっちでもいいと思ってたんだ」
「どどどどどどっちでもいい、って」
口の中の渇きを感じているのだが、長崎にはそれをどうすることもできない。
「たまに何が正しいのかわからなくなる時がある。今回だってそう。帰れなかったら今まで自分のやってきたことは全て水の泡だ。何のための野球だったんだ?何のための練習だったんだ?―――お前らが小声で話し合っていたのを俺は見ていた。それでとりあえずここに来てみた。そしたら、案の定末永がやってきた。逃げようとした末永をつかまえて、俺はポケットにあったコインを投げた。表が出たらお前らと組んで達川さんを殺りに行く。裏が出たら―――」
金本の言葉が終わらないうちに、ようやく長崎は気付いていた。長崎は全神経を集中させて拳銃の引き金を引いた。潮風が舞い、三人から作られた血だまりから立ち上る匂いがそれに入り混じった。いや、その三人に、さらに一人加わっていた。
長崎が引き金を引く前に、金本の持つイングラムM10サブマシンガンからはパララッと小気味よい音が響いていた。長崎はしばらくたったままだったが、潮風に押されてどっと倒れた。その体には四つの指が入るくらいの穴が開いていた。
「―――お前らを殺して、このゲームにのる」
そう呟くと金本は長崎の動かない右手から拳銃を奪った。そしてしばらくの間もう一人くるであろう彼らの仲間を待ったが、障害物のない砂浜に長居するほど無駄なことはないとでも思ったのか―――腰を上げ林の中へと消えていった。
【残り47人】
宮島で一、二といわれる高級旅館の屋上で苫米地鉄人(背番号54)と玉山健太(背番号52)はおちあった。山梨学院大附属高校の野球部の先輩後輩でもあった二人は、今年はほぼファームでの生活になったわけだが、練習中も声を掛け合ったり一緒にランニングや打撃練習をしたりと、その姿は先輩後輩というよりかはただの仲良しといってもおかしくないほどのものだった。
「まさかこんなことになるとはなあ…」
苫米地がポツリと呟いた。玉山は今にも泣き出しそうな表情でうつむいている。その気持ちは察するに余りあった。誰が殺し合いなどをしにプロの世界に足を運ぶなどと考えるだろう。一軍で活躍して、綺麗な奥さんをもらって、引退後は解説でもして暮らそうかなどという青写真が彼らの心の中には少なからずあったはずである。しかし、それを叶えられる人間は、少なくともこの島にいる選手の中には一人しかいないのだ(まあ、実力のない選手なんかが生き残ってしまえば、その夢を叶える前にクビになってしまうだろう。その前にチームが組めないからどっかに移籍か。それも大変だな)。後の選手は皆、まわりの人間に会うことなくここで命を落とさねばならなかった。入り口の前にあった遠藤の、そしてそこから林のほうにしばらく行った所にあった河野の死体は、彼らにその事実を十分に認識させた。
「先輩は生きてください。あんなにファンもいたし、先輩がいなかったら悲しむ人は絶対多いですよ」
涙をうかべて玉山が言った。
「俺はほかの人間を殺してまで生きようとは思ってないよ。野球に未練はあるけど、正直なところ人気ばかりが一人歩きして、それが俺にはつらかったし」
「そんな…」
「それより生き残るべきなのはお前のほうだ。俺より若いし、まだ未来はあるよ」
苫米地が笑いながら言った。
「嫌ですよ!…なんで、なんでこんなことになっちゃったんだろう…」
ほぼ泣き声で玉山が声を漏らした。怖いのだ。隣に信頼できる苫米地という先輩がいても怖いのだ。玉山は達川が監督だった頃のカープを知らない。しかしドラフトで指名され、正月に苫米地と自主トレをしている時にいろいろと話は聞いていた。達川さんは面白いよ。それが苫米地の達川評だったはずだ。
―――面白い?どこが?去年まで一緒にいた選手を顔色一つ変えずに殺した。監督だってあの人に殺された。そして自分たちに殺し合いを要求しているあの男が面白いだなんて、それこそ面白い冗談だ。
「とにかく誰かを殺すくらいだったら俺は自分から死ぬ」
ポツリと苫米地が言った。端整な顔立ちをした彼のその横顔には、どことなく諦めのようなものさえ見えた。
「お前は、逃げろ。俺の分まで戦って来い」
「嫌ですそんな!先輩が死ぬんなら俺も死ぬ。殺し合いなんて殺し合いなんて…」
玉山はあふれる涙をこらえきれなかった。緊張の糸はギリギリにまで張り詰めていた。気が狂いそうだった。
「落ち着け健太」
苫米地が玉山の顔を見て諭すように言った。よく見ると苫米地も涙目になっている。あのいつも強気だった先輩が―――それを見て、あれほど騒がしかった心が急速に落ち着くのが自分でも分かった。
「お前、ここで死んだらもう誰にも会えないんだぞ?わかってんのか?それを承知で言ってるのか?」
「はい」
「…もう一度聞く。冷静になれ。本当にいいんだな」
「はい」
迷いはなかった。島の向こうに広がる土地―――東へ行けば家族も友人もいる―――その場所に未練がないわけはなかった。けれどもそれ以上に、今まで仲間だと思っていたチームメイトを殺すなどできない、世話になった先輩たちを手にかけることなどできない、その思いのほうが強かった。
「わかった。…お前のバッグの中の武器を見せろ」
苫米地の指示に従い、玉山はデイパックをあさった。しかし出てきたのはわずかばかりの食料と備品、それと、鍋の蓋。それを取り出したとき、苫米地はプッと吹き出した。
「よりにもよって鍋の蓋かよ」
その笑い声につられて玉山も笑った。ああ、笑うってなんて素晴らしいことなんだろう。しかし、勿論その笑い声は長くは続かなかった。笑いながらまた涙が落ちてきた。こればかりは止められなかった。
「それは使えないな。俺の武器なら大丈夫だ。それでいいか?」
苫米地が取り出したのは、生まれて初めて見る拳銃(357マグナムリボルバー)だった。
「はい」
「オーケー。…お前、俺を撃って自分も撃つ覚悟はあるか?」
突然の問いに玉山はちぎれんばかりに首を左右に振った。
「なら、俺がお前を殺す。その後必ず自分も死ぬ。それでいいか?」
今度はまたちぎれんばかりに首を上下に振った。とまらない涙は首の動きにあわせて四方八方に飛び散った。苫米地はその玉山の頭を自分の胸に抱きかかえた。そして銃口を玉山のこめかみにあてた。
「最後に言う事は?」
つとめて冷静に苫米地は、おそらく最後になるであろう質問を玉山に投げかけた。
「…今までありがとうございました。先輩と一緒にいた野球生活、忘れません」
最後のほうは泣き声で言葉になっていなかったが、苫米地はそれをしっかりと聞き届けると、引き金を―――引いた。その瞬間、玉山は、というか玉山だったそれは、苫米地によりかかってきた。まだ温かいその死体を抱いて苫米地は震えていた。後輩には決して見せなかった顔がそこにはあった。涙と鼻水でグシャグシャになっていた。声を上げて泣きたかった。でもぐずぐずしたくはない。玉山との約束をすぐにでも実行しなければ。
自分の右手を今度は自分自身のこめかみに向けた。
「健太、ありがとう」
そう呟いて、さっきと同じように苫米地は引き金を引いた。
【残り45人】
藪の中をジグザグと走り、追跡者がいないことを確認し、勿論周囲に人の気配がないことも察知すると新井は足を止めた。山に着くまでそこそこの距離があり、スポーツ選手とはいえ休みなく走ったためにさすがに息があがった。そして森笠の怪我を考えると、ここらへんが限界だろうと思った。
「足、大丈夫か?」
「心配するんならむやみに走らせるな」
森笠が苦笑して答え、足に巻いていたタオルを取った。傷口から流れ出る血はまだ止まっていなかった。
「タオルじゃ限界があるな」
新井は自分の荷物から私服を探し、そのポケットにあったハンカチを取り出すと、帯状に畳み包帯代わりにきつく巻き始めた。当面の止血だけならこれで何とかなるだろう。ハンカチを巻きつけながら新井は「ちくしょう」と呟いていた。
「―――嶋のことか」
「嶋のことも河野のことも、このゲームもみんなだ。なんなんだ、これは…」
「河野?…まさか遠藤さんのやつは河野が?」
「ああ。俺も狙われたよ。出口のところに隠れていて、俺が矢を投げたら落ちてきた」
新井はそこまで口にして、そしてようやく河野をそのまま放置してきたことに思い当たった。気絶して当分起きないと、さっきはほとんど無意識にそう思ったのだが、自分たちが逃げている間に意識を取り戻しているだろう。そしてまたあのボウガンで人殺しを続けているのかもしれなかった。
「まさか選手の中からこんなゲームにのる人が出てくるなんて思わなかった。たしかにルールはルールだけど、本当に人を殺すなんて」
「たしかにな」
森笠は呟いて、そしてしばらく何かを考えて再び口を開いた。
「けど監督や嶋の死体を見ただろ。あれは冗談なんかじゃない。現実だ。―――怖いよ。恐怖心でいっぱいだ。誰だってそうなんじゃないか?次に殺されるのは自分かもしれない、って疑心暗鬼になるだろ。河野もそうだったんだよ、きっと」
森笠の言う通り、新井も怖かった。実際、殺されかけたのだ。
「でも、今まで一緒に野球やってきた人間を有無を言わさず殺すってのも酷いけどな」
吐き出すようにいった森笠の一言に新井は言葉を返すことが出来なかった。
「…しかし、お前が声をかけてくれてよかったよ。遠藤さんの死体を見たときは頭真っ白になってたからな」
新井の表情に影が差したのを見て、森笠がつとめて明るく言った。
「本当か?」
「ここで嘘ついてどうするんだ?ま、俺の足手まといにはなるなよ」
森笠の憎まれ口に、新井もようやく笑った。
「ならねーよ、バカ。お前もうちょっと歩けるか?」
「ああ」
「じゃ、もう少し移動しよう。落ち着ける場所を探そうや」
【残り45人】
兵動秀治(背番号4)は、おそらく昨日まで普通に使われていたのであろうソフトクリーム屋の機械の陰に隠れていた。その空間にこびりついたかのようなソフトクリームの甘ったるい匂いが兵動の神経をますますかき乱した。時計は9時少し過ぎたばかりである。0時と6時にあると言っていたはずの放送は、このときはまだなかった。兵動はここに2時間ほど隠れていた。
出発した直後、兵動は自分がどちらに走っているのかさえわからない状況だったが、気がつくとこの店に紛れ込んでいた。入り口と窓の鍵を閉め篭城してしまえば、少なくとも、例の禁止エリアとやらの件で動かざるを得なくなるまでは安全でいられる。首輪の存在は重苦しかったが、そんなことはどうでもよかった。殺し合いなんて、とてもできない。けれどもし、この場所が最後まで禁止エリアにならないのならば、自分は生き残れるかもしれなかった。
支給されたデイパックのほかに自分のバッグがあったのを思い出して、兵動は自分のバッグをあさった。ユニフォームに着替える前の私服やグローブ、そしてその次に手に触れたもの。
携帯電話。
達川は携帯など使うなと言っていたが、この状況になって誰がそのようないいつけを守ろうか。
兵動は震える手で電話のフリップを引き開けた。自動的に着信待機状態から発信待機状態に切り替わり、小さな液晶のパネルとダイアルボタンに明かりが灯った。
―――よっしゃ!
兵動はもどかしくダイアルボタンを押した。誰がいる、と考えて、なぜかとっさに頭に浮かんだ同期の遠藤に電話をかけた。0、9、0、―――。
一瞬の沈黙の後、呼び出し音が鳴った。兵動は心の中で叫んだ。早く、遠藤さん!
ぷつっと音がして「もしもし」という声が聞こえてきた。
「え、遠藤さん。俺です、兵動です。今どこにいるんですか?遠藤さん?」
ほとんど錯乱状態で電話に向かって喚き続けた兵動だったが、相手が何も言わないのでふと我に返った。何かが、おかしい。何か?遠藤さん?違うのか?
ようやくその電話が言った。
「遠藤じゃないよ、達川だよ。電話使ったらいかん言うたじゃないか、兵動」
兵動はひっとうめいて慌てて通話終了のボタンを押した。心臓が脈打つのがよくわかった。
しかし、その心臓は、もう一段階ジャンプさせられることになった。
すぐ近くで、かしゃん、とガラスの割れる音がしたので。
兵動は窓のほうを向いた。いかにも身軽そうな人間が窓から侵入してきたのだ。
東出輝裕(背番号2)だった。
東出はあたりを見回すと誰もいないと思ったのか店舗につながっている住居の方に向かおうとした。高鳴る鼓動を必死に静めようとしながら兵動は考えた。東出が住居の方に行ったらここから逃げよう、と。東出は用心深くあたりを見回しながら住居へ入ろうとする、その時だった。手にもっていた携帯電話が鳴り出した。―――なんでこんな時に!
兵動はとりあえずその発信音を消そうとやっきになったが、思考回路がショートしかけていて反射的にフリップを開いてしまった。声が流れ出す。
「えーと達川じゃけど、電話の電源は切っとけよ。あ、それと遠藤な、出発してすぐ死んじゃったんだよ。もう遠藤には電話―――」
兵動の指が通話停止ボタンを探り当て、達川の声はぷっつり消えた。息苦しい沈黙がしばし続き、そして、
「誰かいるんですか?」
という東出の声がした。ここまでヘマを犯して隠れとおせるわけがない。兵動は機械の陰から姿を現した。デイパックに入っていたナイフをズボンの後ろに隠して。いくら年下の選手でも油断は出来ない。ましてや東出である。こいつは前々から何を考えているかわからない節があった。東出が襲ってこようものならナイフを出してやりあおう。そう兵動は思っていたのだが。
しかし、兵動のその考えは予想もしなかった展開に唐突に中断した。持っていたデイパックをゴトッと落とし、東出がペタンと床に腰を落とした。そして東出は泣き出したではないか。
「よかった…誰もいなくて怖かったんです。銃声があちこちで聞こえるし、とても怖かった」
東出は嗚咽を漏らす。その手には武器など何も握られていない。
「兵動さん、兵動さんはこんな糞ゲームに参加しようなんて思ってないですよね。みんなで一緒に帰りましょう。達川さんはおかしい。僕らまた帰って野球をやりましょう」
兵動は一瞬、茫然としていた。あの東出が泣いている。自分に助けを求めている。
「あ、ああ。こんなバカみたいなゲームにのるわけないじゃないか。そうだよな、東出の言う通りだよな…みんなで広島に帰ろう」
すっかり安堵して兵動は東出に歩み寄ると、立ち上がるようにと手を差しのべた。東出が立ち上がったその時、何かが兵動の横を飛んでいった。そして兵動は耳にした。何か切れ味のいい包丁でレモンか何かを切ったようなザクッという音を。
何が起こったのか兵動は理解に苦しんだ。兵動には東出の右手が見えていた。自分の顎の下あたり、左側だ。そしてそこからは、何かバナナのようにゆるやかにカーブした刃物がのびていた。カマだ、稲刈りにでも使うような。その先端が自分の喉に入っている―――。
東出は右手をさらに一、二度押し込めた。その度にザクッ、ザクッといい音が響き、兵動は自分の喉が猛然と熱くなるのを感じた。そして、兵動はそれが何を意味するかを理解する間もなく事切れた。自分に向かって倒れてくる兵動の死体を東出はヒョイとよけた。その死体の首にささっていた鎌をなにを思う事もなく引き抜くと、東出はうっとおしい涙を拭い(こんなもんでひっかかるなんて、なんてバカなやつなんだろう、こいつは)鎌をひゅっと振って血を拭って、その視線に入ったナイフを奪い取った。長居は無用、姿を消そうと視線をあげて、固まった。
自分と兵動しかいないはずのこの空間に、岡上和典(背番号37)がいた。
【残り44人】
「見てたんですか?」
少々驚いたものの、悪びれる様子もなく東出は聞いた。返答の態度次第で東出はどう出るか決めようと思ったのだ。
「まあ、ね」
岡上も死体を目の当たりにしている割には落ち着き払った風に、しかもうっすらと笑みをたたえて答えた。その笑みで東出は一瞬にして理解した。
―――こいつは、俺と同じ人種だ!
そう東出が考えたのと同時に、岡上が右手をつきだした。その手には拳銃(苫米地が握っていたものと同じ357マグナムリボルバーだった。というか、むしろ岡上の右手にあるそれは、数十分前には苫米地の右手に握られていた。銃声を聞き苫米地と玉山の死体を発見した岡上は冷静に苫米地の右手からこの銃だけを奪い取ってきたのだった)が握られている。東出は身の危険を感じ取り、踵を返して住居に入って行った。銃声とともに耳のすぐ横を何か熱いものが通過したようだったが、構っている暇などない。構おうものならあいつに殺される!
「待て!」
岡上は一発撃った後にすぐ東出を追いかけた。―――あいつも速いだろうが俺だってこれが売りでこの世界に入ってきたんだ。そう、この走力とお前より堅実であろう守備を売り物にしてな。膝?そんなもんちょっとしたハンデだ。東出、お前がいなけりゃ俺がカープのショートストップに間違いないだろう?ほらほら待て、逃げるんじゃない。お前を我慢して使っていた監督ももういないんだ。サシで勝負しようぜ、東出―――。
東出も必死で逃げた。さっき何か熱いものが近くを通ったと感じた自分の右耳が湿っている。チクショウ、弾が耳たぶにでもかすったか?まあいい、頭じゃなかっただけ幸運だったと思おう。
階段を上がり二階の奥の部屋まで走ってきたが逃げ場がない。あるのは、窓!窓から入ってきたんだ、お帰りも窓からどうぞ、ってか?そりゃまた用意がよすぎるよな。
東出は窓に駆け寄るとそれを開け、下を確認する。下にはちょっとした庭がある。落ち方によっては足を痛めるかもしれないが、コンクリートではなく土なのでその可能性は幾分低いだろう。
岡上の足音は近づいてきている。東出はサッシに足をかけると下へ飛び降りた。そして建物の表の方へ逃げた。逃げる時に左足に痛みが走った。ちっ、あてが外れた。また古傷が再発か。あれは一安打で勝った試合だった。セカンドゴロの間にホームベースに滑り込み痛めた足だ。そのプレーがきいてあの試合は勝ったのだが、もう野球なんて東出にはどうでもよかった。とりあえずこの場から逃げる。―――俺は生き延びる!
岡上は二階の部屋を全て(といっても二つしかなかったわけだが)覗き、そのうち一つの部屋の窓が開いていて、さらには東出の姿が見えなくなったのに気付くといまいましく舌打ちした。
殺しそこなったか。まあ、いい。あいつもこのゲームにのった事は確認できた。そしてあいつには刃物しか武器がないことも。岡上はまたも笑みを浮かべた。
―――待ってろよ、東出。お前は必ず俺が殺すからな。
【残り44人】
緒方孝市(背番号9)は新井たちと同じく山の中を、しかしゆっくりと歩いていた。なにせ右膝を手術したばかりで走ることは出来なかった。このまま広島に戻る事も、このチームで野球をすることもないのだとしたら足をかばうことに意味など何もない。しかし、選手会長をやったこともある。FA権を行使せず(もっとも「選手の権利は尊重すべき」というのが緒方の持論であったのだが)このチームにも残った。自分を育ててくれたのは間違いなく広島東洋カープという球団なのだ。そこでもう一度自分をアピールする、復活するんだという思いを緒方は強く持っていた。そのためには、この足の状態を悪化させることはどうしてもできなかった。
ここ数年の自分の成績を緒方はふがいなく思っていた。たしかにニュータイプの一番打者(巨人の仁志が目指しているらしいそれ)としてホームランを打ちまくった事もあった。しかし、緒方はもう一度グラウンドを思い切り走りたかった。再び盗塁王を獲りたかった。緒方が故障で戦列を離れている間に新しい投手は出てきていたし、緒方自身その投手らに対して研究はしていた。しかし、いくら研究しても足の状態がよくならなければ話にならない。走ることが自分の野球選手としての根本にあると信じていた。そして、それが出来ない今の自分は、ネームバリューはどうあれ尊敬される野球選手には到底なりえないとも思っていた。
藪の中を歩いている中で、銃声のようなものが何度か聞こえてきた。本当に銃声なのかどうかは緒方の知るところではなかったが、もしそれが本当にそうなのだとしたら―――と考えて、それを遮るように自分自身に問うた。何を考えてるんだ、チームメイトが殺人などすると思ってるのか?いくら何でも非常識だぞ。
太陽は既に姿を現していたが、木々が光を遮り薄暗い中を緒方は歩いていた。デイパックには水と食糧、方位磁針、懐中電灯、地図にペン、そして普通にゲームで使う硬球(しかもご丁寧にもそれは球団のものであり、おまけに達川のサイン入りであった。何を考えてるんだ、あのおっさんは)が入っていた。達川の言っていた武器がこのボールであるならば、これでどうやって相手と殺りあえというのか(まあ殺しあうなんて気は今のところないのだが)小一時間ほど問い詰めてやりたかった。
歩いているうちに木々の切れ目が見え、進行方向から光が差している。緒方は藪から出た。どうやら登山道に出てきたらしい。山道というわけではなく、急な傾斜の階段になっている。自分はその階段の途中に出てきたらしかった。傾斜があり木々も邪魔していないため、島の様子が一望できた。さらには一面に海が広がり、その向こうには昨日まで自分がいたはずの広島があった。なぜ自分はここにいるのだろう?早く帰ろう。妻の、娘の待つあの場所へ。
再び山中へ戻ろうと振り返って緒方は驚いた。いつからそこにいたのだろう、自分の後ろ数メートル先の藪の中に朝山東洋(背番号38)が立っていた。しかも、自分に包丁を向けて。
「う、動かないで下さい。動くと刺しますよ」
朝山の右手が震えているのが見てとれた。きっと(というか普通それが当たり前なのだが)包丁など人に向けるのは初めてなのだろう。
「いつからそこにいる?」
「気づかなかったんですか?後をつけてたんですよ、俺」
もう少し辺りに気をつかって移動すればよかったのか?いや、しかし他の選手に会いたい、話し合いたいと思っていたのもたしかだ。一人じゃどうにもならないことも二人三人集まれば何とかなるかもしれないだろう?三人寄れば文殊の知恵だったか、そう、それだ。―――今はそんな事を言っていられる状況でもないけどな。
「お前、正気か?」
「勿論じゃないですか。現にもう死んだやつだっているんだ」
朝山のその一言に緒方は耳を疑った。
「今何と言った?…死んだやつがいる?」
語気が強まる。朝山は緒方の気迫におされそうになったが、こらえて答えた。
「僕が神社から出た時に遠藤が死体になってましたよ。もうゲームは始まってるんです」
何と言う事だろう。自分が否定してきたことは既に現実となっていたのだ。もう広島東洋カープという組織は野球チームではない。殺すか殺されるかだけの、そう、殺人鬼と被害者が組織する集合体なのだ。
―――だったら―――もう自分が野球選手としてもつ自覚など何もない。目の前にいる昨日までのチームメイトを仲間だと思う必要もない。そして悲しいことではあったが、この足をかばう理由も、もはやどこにもない。
そう考えるやいなや、緒方の体が動いた。パンツの後ろポケットに入れていたサイン入りボールをつかむと朝山の顔めがけて投げた。それをよけようと朝山が顔をそむけた時、緒方は朝山めがけて駆け出し、危険を顧みずその足もとに飛び込んだ。とても美しい(こんな状況で美しいという形容をされても困る。できればその言葉は試合中につかってほしかった)飛び込みだった。まるでそこに二塁ベースがあるかのような。不意に足をとられた朝山はバランスを崩し倒れこみ、その拍子に持っていた包丁を落とした。
「ちっ」
朝山がとりあえず緒方から離れようと必死にもがくが、緒方はなかなか離れない。緒方も朝山を倒した後何発か拳をふるいたかったのだが、朝山の予想以上の抵抗にそれができぬまま、ただ離されぬようベルトに手をかけていた。
「離せ…っ!」
離せといわれて誰が離すか?俺にもお前にももう武器はないんだ。この時点で、緒方はさっきまでの思いを完全に否定しなくてはならなくなった。―――こうなってしまったら、もうあの海の向こうには戻る事もない。FA権を行使しなかったことで、結局文字どおりカープに命を捧げることになってしまったよ。それでも根っからのカープファンのお前は許してくれるよな。かわいい娘たちを頼む。さよならだ、カナコ。
もみあううちに、ふと足に伝わる感触が異なったのを感じた。どうやら自分の一歩後ろにあの急傾斜の階段があるらしい。障害物など全くない。緒方は朝山のベルトにかけていた手に最後の力をこめると、朝山を投げに出た。突然の反撃を予想しなかった朝山の体は半回転して階段に着地すると、その勢いで階段を滑り落ちた。そして、ベルトから手を離すことのなかった緒方も、朝山の体に引っ張られるような形で朝山と一緒に落ちていった。
【残り44人】
『みんな元気でやっとるかー』
達川の声だった。拡声器がどこにあるのかわからないが、こんな有名な島だ。どこにあっても不思議ではない。ただそれらをどうやって達川らがいる厳島神社から操作しているのかはわからなかった。
『正午になったなー。みんな腹減ってないかー?スポーツ選手は体が資本じゃけーのー。荷物の中の食べ物はきちんと食べるんだぞー』
新井は顔を歪める以前に、その達川の明るい口調に唖然とした。
『ほいじゃあ、これまでに死んだチームメイトの名前を言うけぇのう。00番嶋重宣。4番兵動秀治。12番河野昌人。21番遠藤竜志。51番末永真史。52番玉山健太。54番苫米地鉄人。56番田村彰啓。57番甲斐雅人。58番長崎元。』
河野の名前を聞いて新井の頬がぐっとこわばった。河野はあの時、まだ死んではいなかったと思う。すると、あの後また誰かを殺そうとし、逆に誰かにやられたのだろうか?それとも何か別の理由が?新井が河野を気絶させている以上、それは気分のいい話ではなかったし、それ以上に昨日まで同じチームにいたはずの選手の名前の羅列で眩暈を起こしそうだった。名前を読み上げられたチームメイトの顔が、頭の中に浮かんでは消えた。みんな…みんな死んでしまったのだ、そして勿論同じ数の殺人者がいるはずだった。それこそ、名前を呼ばれた者たちが自殺したのでもない限り。
『―――いいペースだぞー。監督をしとったモンとしてはうれしい限りじゃ。ほんじゃ次に禁止エリアについてでーす。今からエリアと時間を言うから地図出してチェックしろよー』
死者の多さにショックも受けていたし、達川の口調にむかつきもしたが、新井も森笠もとりあえず地図をとりだし達川の言ったエリアに印をつけた。達川の告げた禁止エリアは、当座新井と森笠のいるところとは関係がなかった。しかし、次は新井たちのいるここかもしれない。
『じゃー、昼間でみんな元気じゃろうから、がんばろうなー』
最後にそれだけ言って、達川の放送はぶつっときれた。
地図の裏に印刷されていたメンバー表を見る。悪趣味だが、情報は確認しておかなければならない。今放送された名前の横に小さくチェックを入れた。大きな番号の選手が多い。皆若く、ほんの数年のうちにカープに入ってきた選手ばかりだ。この選手たちが一体何をやったというのだ?どこに殺されなければならない理由があったのいうのだ?
そんな自問が、ガサガサという音で中断された。森笠も一気に緊張するのがわかった。新井は名簿とペンをさっとポケットに入れた。その音はゆっくりではありながらも、だんだんと近づいている。新井はデイパックを手にとった。いつでも動けるようにしておかなければならないと考えて、荷物はもう、そのデイパック一つにまとめてあった。いくらかの衣類などは自分のバッグに残していたが、こっちは捨ててもいい。森笠も同様に荷造りしてあった。
新井は支給のナイフを抜き出し、右手に逆手に持った。だが、思った。果たしてグラブもろくに使えないような自分にこんなものをうまく使えるのか?
しかし、余裕はない。ガサガサという音はすでに数メートルぐらいに迫っている感じだ。またしても、あの神社の入り口で感じたのと同じ焦燥感が新井の頭を占めた。しかし、そんな時に何も出来ずただその場に立ち尽くしてしまうのもまた新井だった。音はますます大きくなる。ああ、もうダメだ!新井は目をつぶった。
そして―――
近づいてきた音が目の前でしなくなって、目を開けた。そこにいたのは一匹の猫だった。森笠も拍子抜けした表情で猫を見ていた。とりあえずそれを猫だと認識した二人は無意識にしゃがみこんだ。二人ともさっきまでの恐怖とのあまりのギャップに言葉も出なかった。そのうちに、むやみに焦ったことが馬鹿馬鹿しくなり、苦笑した。
「こえーーーーーーー」
ふと大きな声を出した。猫は二人をじっと見ていたが、その声に反応して新井のほうにトタタタとよってまとわりついてきた。新井はナイフを鞘にしまい、猫を抱き上げる。
「いやに慣れてるけど、飼い猫かな?」
「さあ」
と答えたが、たぶん飼い猫だろう。思えばこの糞ゲームのために島の住人は全て追い出されたのだから。この近くに人家はなかったはずだが、この猫はずっと山の中をさまよっていたのだろうか?自分の胸の中で気持ちよさそうに体をなめる猫を見てそんなことを考えながら、新井は立ち上がって、顔を上げて―――ぎょっとした。
向こうのほんの十メートル、あたかも地面に固着したかのようにユニフォーム姿が立っていた。新井よりやや低いもののそのがっしりした体、日焼けした浅黒い肌、刈り込んでもみあげだけのばした髪は、廣瀬純(背番号26)だった。
【残り44人】
森笠が新井の視線を追って振り返った。その顔がみるみるこわばるのがわかった。そう、果たして廣瀬はどうなのか?敵なのか、そうではないのか?
廣瀬は、ただじっとこちらを見ていた。新井は、緊張感に視覚が半ば硬直していくのを感じながらも、そのひと隅、廣瀬の右手に大振りなナタが握られているのを認めた。それで新井は、ベルトに差し込んだナイフへとほとんど無意識に手をのばした。
それが引き金になった。ナタを握った廣瀬の手がぴくっと動き―――次の瞬間、まっすぐ突っ込んできた。新井はとっさに手にしたデイパックを上げ、そのナタを受けた。デイパックがざっくり割れ、中身が地面に撒き散らされた。水のボトルに当たったせいで、ばしゃっとしぶきが跳ねた。刀身は新井の腕まで達し、ちりっと皮膚の表面が熱を感じた。ちぎれたデイパックを捨て、後ろへ飛びすさって距離を取った。今や廣瀬の顔は引き攣り、黒目のまわりにぐるりと白い部分が見えた。
新井は信じられない思いだった。それは、確かにこの状況だ、一瞬自分も疑いもした。しかしなぜだ?なんであの見かけの割には誰にも優しくて、練習熱心でもあった廣瀬がこんなことをするんだ?
廣瀬はちらっと視線を横に飛ばし、木陰からこちらを見ている森笠を見やった。新井もその視線を追って森笠を見た。廣瀬の視線を受けた森笠の顔、口元が引き攣った。―――いきなり廣瀬は新井の方に顔を戻し、同時にナタが横なぎにふるわれた。新井はベルトから逆手に抜き出したナイフでそれを受けた。間の悪いことに革の鞘に収まったままだったが、とにかく、がちっと音がしてそのナタの襲撃はブレーキをかけ、止まった。新井の右の頬の辺り、五センチ手前で。新井にはナタの表面、焼入れした時に生じたのだろう、青い波紋のような模様がはっきり見えた。
廣瀬がまた振りかぶろうとする前に、新井はナイフを捨て、その廣瀬のナタを持った右手に組みついた。にもかかわらず、廣瀬はもう一度強引にナタを振って、それはやや緩慢ながら新井の右側頭部に当たった。新井の耳たぶにざっくり割れ目が入る感触が伝わった。あまり痛くないんだな。なんならついでだからピアスでもしてみるかな。広島東洋カープ初のピアスをつけたプレーヤー。長谷川さんのガムみたいにコーチにとめられるだろうけど、などと場違いにのんきなことが頭をよぎった。
廣瀬がナタを持った右手に左手を添えもう一度振りかぶろうとする前に、新井は左足を廣瀬の左足に内側から飛ばしていた。廣瀬の足がぐらっと崩れた。よし、倒れろ!
ところが廣瀬は倒れず、よろけて半回転し新井の方に体重を預けてきた。新井は退がった。森笠のいる方とは反対の茂みに背中が突っ込んだ。周りでばきばきと枝が折れた。
さらに新井は退がった。廣瀬のめちゃくちゃな力に押し込まれ(新井が相当な力の持ち主だったにもかかわらず、だ)足はそのまま、ほとんど後ろ向きに走っていた。森笠は遠ざかる。ほとんど現実味のない状況で、新井はまたまた場違いに試合前の練習を思い出した。新井貴浩、背面競争チャンピオン。イエー。
ふいに、足元の感じが変わった。新井の足の先は窪みになっていたのだが、深い茂みのせいで新井も廣瀬も気付かなかったのだ。
―――落ちる!
二人はもつれたまま、その灌木に覆われた傾斜を転げ落ちた。新井の視覚の中、真昼の青空と冬を迎え少しくすんだ葉を施した木々がぐるぐる回った。ただその間も、廣瀬の手首を握った手は離さなかった。
ものすごい距離を落ちたような気がしたが、実際にはほんの十メートル程度だったかもしれない。どん、と全身に衝撃がきて体の動きが止まった。周囲に光が満ちていた。窪みの先には、登山道と、さらにはその横を流れる川が待っていた。新井は廣瀬の下敷きになっていた。立ち上がらなければならない、廣瀬よりも先に!
ところが、新井は一瞬妙な感じにとらわれた。圧搾機みたいな圧力で自分に向かっていた廣瀬の腕の力が、ふいに消失していたのだ。それはただ、ぐたっと動かなかった。新井の顔は廣瀬の胸の下辺りになっていたのだが、新井は視線を上げ、そのわけを悟った。
すぐ眼前で、廣瀬の顔面にナタが食い込んでいた。ナタの刃のかっきり半分が廣瀬の顔から突き出していた。額の上から入り、開いた口の中でナタの刃が薄青く光を撥ね返している。そしてそのナタはというと、もちろん廣瀬が握っているのだけれど、その手首は新井が握っていた。廣瀬の顔面から新井の手首へ、何かとても気味の悪い感覚が光の速度で走り抜けた。その感覚を追うようにナタの表面を滑って、ゆるゆると廣瀬の血が流れ出し、廣瀬の手首を握る新井の手にまで伝わってきた。新井は低くうめくとその手を離し、廣瀬の体の下から出た。廣瀬の体がごろんと仰向けになり、その凄惨な死に顔が真昼の日光に晒された。ぜえぜえと肩で息をしている新井の胸の奥から鋭い吐き気が波のように突き上げてきた。
その廣瀬の顔、これ以上ないだろう凄惨さは確かに些末な事情とは言えなかったが、それにもまして新井にとっては自分のことの方が問題だった。そう、自分は人を殺したのだ。それも、昨日まで仲間だったチームメイトを。事故だと思おうとしても、だめだった。何せ―――転がり落ちる最中、自分は必死でナタの刃が自分に向かないように、つまり廣瀬の方に向くように、廣瀬の手首を思い切りねじ上げていたのだから。
とにかくすごい吐き気だった。厳島神社で山本監督の死体を見た時と同じくらいの。しかし、あの時のように呑気に吐いてもいられない。吐き気をぐっと飲み込んでこらえると、首を持ち上げ自分が転げ落ちてきた斜面を見上げた。灌木に覆われ、上は見えなかった。廣瀬との揉み合いに夢中になって足が完全でない森笠を一人置いてきてしまった。それが気がかりだった。
新井は立ち上がり、廣瀬の顔とナタをしばらく見つめた。それで、ちょっと躊躇したが、しかし、唇を結ぶと廣瀬の顔を割っているナタの柄から廣瀬の手を引き剥がした。いくらなんでも廣瀬をこのまま放ってはおけなかった。埋葬なんてとてもできないが―――少なくとも、ナタが刺さったままの廣瀬の顔は酷すぎた。生理的に耐えられなかった。新井はナタの柄をつかみ抜き取ろうとした。廣瀬の顔がナタにくっついて持ち上がった。あまりにも深く食い込んでいて抜けないのだ。しかし、やはりこのままでこの場を去ることはできない。歯を食いしばると再び廣瀬の頭の横に膝をつき、幾分震えている左手をその額にかけた。右手でナタを引くと、一瞬いやな音がしてナタは抜けた。血がしぶいた。また吐き気がしたが再び立ち上がると踵を返した。
しかし、新井は再び目を見開くことになったのだった。
なぜなら―――眼前十五メートル、登山道の向こうにユニフォームの男が―――瀬戸輝信(背番号28)、あの厳島神社で「エリート」発言をかました男が立っていたので。そして、瀬戸は拳銃を握っていた。
【残り43人】
瀬戸の細い目と新井の視線がかちあった。細いがそれなりに見開かれ、血走った目。廣瀬と全く同じ目だった。顔色はあの平舞台で見た時と同様極度に青ざめており、人間の顔色というよりはもはやお化け屋敷なんかで見る蝋人形に近かった。
その拳銃の銃口が動く気配に、新井は身をひねりざま仰向けになり身を低くした。瞬間、ぱん、という破裂音がして拳銃が小さな火炎に包まれるのが見えた。自分の頭のすぐ上を何か熱いものがかすめた。もっともこれは、気のせいかもしれない。とにかく、弾は当たっていなかった。
新井は何を考える余裕もなく、ただ仰向けの姿勢のまま後退しようとした。足もとに転がる砂利が音を立てた。―――到底間に合わなかった。逃げられるわけがない。
瀬戸は、もはや新井の眼前三、四メートルにまで近づき、新井の胸の辺りに狙いを定めていた。新井の顔の筋肉が、石膏彫刻にでもなったように固く固くこわばった。体の中に、今度こそ本物の恐怖が膨れ上がった。あの銃口が次に吐き出す小さな小さな鉛玉が俺を殺すのだ。俺を―――殺すのだ!
「やめんか!」という別の声がした。瀬戸がびくっと顔を斜め後ろへ振り向けた。新井もぼんやりその視線を追う。声の主の姿を確認した瞬間、新井の耳の中で、彼が登場する時にまるで決まり事のようにあがるあの大歓声が聞こえたような気がした。
いつもどの選手にも負けない大声援を背負っていた孤高の選手、前田智徳(背番号1)がそこには立っていた。手にポンプ式ショットガンを持って。
いきなり瀬戸がその前田に向けて撃った。新井は前田がすっと腰を落とすのを見た。前田が膝立ちの姿勢で保持したショットガンが吠えたと思うと、火炎放射器みたいな火花が銃口から伸び、次の瞬間、瀬戸の右手が消失していた。血の霧がぽう、と空を流れ、瀬戸が唐突にそこに目の前に出現したアンダーシャツの袖をまとった腕を一瞬不思議そうに見つめていた。まだまだ左手は残ってるからお得意のパスボールをするのには不自由はないけど、ボールはどうやってピッチャーに返そうか?あまり盗塁は刺さないけど(それでも強肩って言われてるんだ)どうやって二塁三塁へボールを送球しようか?何より打席には、左手一本でバットを持って立つのかい?
―――そこに落ちたのは、なんだい?
「ああああああああああああああああ」
瀬戸が思い出したように動物のような叫び声を上げたので、新井は瀬戸がそのままそこに膝をつくのだと思った。前田は何事もなかったかのように次の弾を装着し終えていた。しかし、瀬戸は新井の予想通りには動かなかった。瀬戸はまず目の前の自分の腕から左手で銃をもぎ取った。バトンリレーじゃないんだから。―――何を考えてるんだ、俺は。ちくしょう、最悪のバトンリレーだ。
「やめろと言っとうじゃろうが」
前田が叫んだが、瀬戸はやめなかった。銃を前田に向けて構えた。打つ気さえおこらない棒球が投げられた時に見せるいまいましそうな表情をちょっとだけ浮かべて、前田がもう一度撃った。瀬戸は体の真ん中からくの字に折れ曲がって、走り幅跳びの選手のような姿勢で、ただし、後ろに吹っ飛んだ。ぶらりと伸びたつま先から接地して、次の瞬間こま落としのようにがくんと仰向けに倒れた。それきり動かなかった。
新井は慌てて身を起こした。瀬戸の死体に目をむけたくはなかったが、それでも視線が自然とそちらへ向かう。前田はその死体にはほとんど目をとめず、ショットガンを構えたまますぐに新井に近づいてきた。新井は目の前で立て続けに起こった事態、それに廣瀬と瀬戸の凄惨な死に様にまだ圧倒されていた。
「動くな。持ってるモンを捨てろ」
その声に、新井はようやく自分がナタを持ったままだったことに気付いた。新井は言う通りに血に染まったナタを足元に捨てた。そのとき、森笠が落とし穴のような斜面になっていた窪みの上に現れた。さっきの銃声を聞いて顔は既に青ざめていたが、登山道に無造作に倒れている廣瀬と瀬戸の死体、向きあった新井と前田を見て息をのむのが分かった。前田も森笠に気付き、さっとそちらにショットガンを向けた。
「前田さん、やめてください!俺と森笠、一緒に隠れてたんです」
それを聞いて、前田はその視線を面倒そうに新井の方に戻した。相変らずの仏頂面だった。新井は森笠にも叫んだ。
「森笠!前田さんが助けてくれたんだ!前田さんは敵じゃない!!」
もう一度森笠をちらっと見て、前田は銃口を下げた。そしてボソボソと呟くように言った。
「先に言い訳しとくけど、これを撃ったのは仕方なかった。それはわかるな?」
新井はそれでもう一回瀬戸の死体のほうに目をやり、それから前田の言葉も突き合わせて、ようやく、もしかしたらと思った。もしかしたら、瀬戸さんは混乱していただけなのかもしれない。そう、自分が廣瀬を倒したのを見て何か勘違いしたのかもしれなかった。誤解しても無理はない。だが、前田の言う通り、いずれにしても前田の行為はとがめられなかった。前田さんは撃たなければ瀬戸さんにやられていたに違いない。自分だって、廣瀬を倒したのだ。新井は前田に顔を戻した。
「わかります。助けていただいてありがとうございます」
前田は少し肩をすくめた。
「瀬戸を止めただけなんじゃが、そういうことになるわな。まあ、お前みたいなやつがおってよかったわ」
新井は実際、かなり意外な気がしていた。あの平舞台で自分はこう考えたのだ。前田だけは…恩師の山本監督も殺され、自棄になってこのゲームに“乗る”かもしれない、と。しかし、その前田が自分を助けてくれたのだ(いつも小言を言う割には面倒を見てくれていた金本あたりがこういう役割を果たすだろう、とも思っていたのに)。
前田は何か考え事をするように窪みの上でこちらを見る森笠をしばらく見た後、
「お前ら、一緒にいたんか?」
と聞いた。
「はい」
新井の返事を受けて苦笑いでもするように言った。
「今時の若者はええのう。わしらの頃は殴り合いなんかしょっちゅうだったのに」
そういえば入団当時の前田と浅井は仲が悪かった、と聞いたことがあった。殴り合いの喧嘩はさすがの新井にも経験はなかった。
「まあええわ。とりあえず森笠の所に戻ろう。わざわざ無防備につったっとくか?」
【残り42人】
小林幹英(背番号29)は茂みの中をざざざ、と小走りに走っていた。手術から約一ヶ月たって、練習再開できるかできないかという頃に巻き込まれたこのゲームだった。
足にはまだ不安もあった。しかし、とにかく今は逃げなくてはならなかった。小林の頭の中で、さっき見たばかりの映像がフラッシュバックした。茂みの中から見たそれ。新井貴浩は廣瀬純を殺してのけた。実にサスペンス的なやり方で、しかも完璧に。新井が廣瀬の頭からナタを抜き出すまで小林は魅入られたようにそのシーンから目を離せなかったのだが、そのナタについた赤い色を見てようやく恐怖の感情が小林を打ちのめしたのだった。デイパックをひっつかみ、放っておくと自分の意志とは関係なく声をあげかける自分の口を抑えて逃げ出した。目に涙がにじんでいた。背後で銃声がしたが、小林はもちろんそれもほとんど認識できなかった。
一方、銃撃戦まで川の向こうでしっかりと目に焼き付けたものもいた。チームリーダー、野村謙二郎(背番号7)だった。新井と廣瀬が斜面を落ちてくる音で顔をあげ、瀬戸の登場、前田の登場、そして前田と新井が消えるまで一部始終を、ただただ音もたてずに見つめていた。
もうこの世にいないメンバーの名前が達川によって読み上げられた時、長年の自分の夢がかなうことはなくなったと悟ったはずだったが、さすがに目の前で二番手捕手と言われた(もうずっといわれているような気もするが)瀬戸や、期待の若手(特に打撃が使えるようになれば、その守備やファンにも受けのよい性格とあわせてカープの顔になれる選手だと思っていた)の廣瀬が殺されて、自分の夢が完全に消えたことをやっと理解したのであった。
思えば今年は代打から始まったシーズンだったが、いつしかサードのポジションを新井から奪っていた。毎年(今年の開幕直後さえも)悩まされていた大きな怪我もせず(だいたい一年通して野球をやればどこかに痛いところはでてくる。我慢できるまではグラウンドを離れたくはないというのは野村の一貫した思いだった)、終盤には木村拓也の怪我のあって久しぶりに一番という打順に座る事もできた。思い返すと、ここ数年ではもっとも体が動いていたかもしれない。そしてチームも惜しくもAクラスは逃したものの、若手が成長した。中堅・ベテランもポジションに見合う働きが出来ていた。助っ人選手も結果を残した(特に弟分と強い親しみを抱いているディアスの活躍ぶりは自分にとっても相当うれしかった)。来年こそは自分の、チームの夢がかなうと真剣に
思っていた。しかし、この悪夢のようなゲームでその夢に必要な人材がどんどん消えている。そして生き残った選手たちも当たり前のように殺し合いをしている。カープというチームが、もう“チーム”ではなくなっていた。茂みにかくれたままで野村は空を仰いだ。落ちてきそうになる涙を必死でこらえていた。
―――来年こそは、来年こそは優勝できると信じていたのに。
【残り42人】
田村恵(背番号60)は厳島神社を挟んで港とは逆の方向にある大願寺の境内にいた。与えられた武器はバールだった。人を殴るには十分だろうが、ゲームが開始されて数回銃声を聞いている。もし相手が銃を持っていたら、とてもじゃないが太刀打ちできそうにはなかった。しかし田村はバールを手にして、いざ敵がやってきたらどう戦うか、そればかり頭の中でシミュレーションを繰り返していた。
―――飛び道具だろうが何だろうが、何とかするのが頭脳派捕手の腕の見せ所だろう?
それにしても田村はこのゲームに参加させられたことに納得いかなかった。そもそもオーナーの鶴の一声でこの世界に入った。「だめならフロント入りさせればいい」―――その一言で自分の将来は約束されたといってもいいであろう。むしろ適当にレギュラーはって引退後に仕事がなく苦労するよりも(だいたい広島みたいな所に野球解説者がごろごろ転がっていても仕方ないだろう?解説者・評論家の席を奪えなかったらどうやって生活しろというんだ)、適当に野球をやって、適当に見切りをつけて、適当に球団幹部になればいい。給料なんかどうせ今とたいしてかわりはしないだろう…1軍でばりばりレギュラーやってるやつらならともかく。
勿論1軍の試合でそれなりに活躍していた頃は、ちょっとだけあの高校時代のフィーバーぶりを思い出さなくもなかったが、それはあくまで活躍している頃だけの話である。むしろその後継続的に活躍できないのなら、あのバカみたいな騒がれようは経験すべきではない。自分が思い出でしか語られない、とても惨めで辛い存在に思えてくる―――そう田村は思っていた。
一昨年のシーズン終盤、横山らとバッテリーを組み活躍したおかげでマスコミにも注目されたが、翌年怪我などもあり1軍では活躍出来ずじまい。前年のマスコミでの扱われ方など、まるで他人のそれだったかのようだった。
それは今年も同じだった。倉義和(背番号40)や木村一喜(背番号27)の台頭で、自分の存在などまるでなかったかのようだった。特に木村一などは2軍で首位打者を狙える好成績を挙げていたので、自分の出場機会は本当に少なくなってしまっていた。一応今現在野球をやっている、そして同じポジションである以上は多少恨むべき存在として木村一は認識されていた。
そしてシーズン終了―――ドラフトでの補強ポイントは捕手だと言われ、自分もとうとうフロントに入るのかなと思っていたが、それはなかった。あと1年野球選手を続けることにもうくたびれてはいたのだけれど、それでも心のどこかにもう一度という思いもあった。「ヒーロー」を経験してしまったものの淡い願いである。しかし、実際は選手生命が1年のびたおかげでこんな残酷なゲームに参加させられてしまっていた。
―――なんでだよ!フロントに入れたいんだったらこんなゲームの前に入れてくれればよかったんじゃないか!
今年解雇された選手の顔が脳裏に浮かんだ。とてもうらやましかった。お前ら、実はものすごい強運の持ち主なんじゃないの?
「キキキキキ」という鳥の鳴き声に田村ははっと我に返った。何を考えてるんだ俺は。そんなくだらんことを考えてる暇があったら、誰か来た時の対処法を考えるんだ。頭に思い浮かべるんだ。誰かが現れる。その時、俺はどう対処する?いきなり襲うか、それとも馴れ馴れしく近づいていくか。相手にもよるな、若手の2軍選手だったら―――
ふいに、パンをいう音がしたかと思うと、頭に振動を感じた。いや、もしかしたらそれさえ感じていないかもしれない。たった1発の銃弾で田村のシミュレーションは幕を下ろした。
田村の背後五メートル程度の所に無防備に金本知憲(背番号10)がたっていた。右手には長崎の武器であった小型ピストルが構えられていた。金本はそれをポケットにつっこみ田村が息をしていないのを確認すると、倒れた弾みに転がったバールを持ち二、三度素振りをしてみせた。―――バットのかわりぐらいには、なるかな。
そうしてバールをデイパックにいれると田村のほうに一度も視線を向けることなく、その場を立ち去った。
【残り41人】
響いた銃声に前田は体を起こした。周囲に気を遣い逃げ回る(あるいは息を潜めて隠れたり、積極的に攻撃を仕掛けていく)このゲームは、選手の体力を確実に消耗させていた。特に殺し合いを経験してしまった選手はなおさらである。新井と森笠という、仲間というよりは気の合う子分をつけた前田は、森笠のもとへ着いた後、「少し横にさせてくれ」と言ってすぐに寝息を立ててしまったのであった。いかにも前田らしかった。
「今のは銃か?」
確認するように前田は聞く。
「そうみたいです」
「近かったな」
「ですね」
言われてみれば今まで聞いた中で一番大きく聞こえた銃声であった。そうすると、このゲームにのっている選手が確実に近くにいるという事だ。今の新井には、その人物が尊敬する兄貴分である金本であるとは勿論知る由もない。
「今何時だ?」
前田の短い質問に今度は森笠が答えた。
「4時です」
「…長いな」
返ってきた答えにあきれたように前田が言った。昨日までの時間の流れと今日までの時間の流れがあきらかに違う。ただのんびりと過ごしていたはずの日々が一変していた。仲間と殺しあうくらいなら時間切れになって爆死したほうがいいと思っていたが、時間は自分たちをしっかりと捕らえたまま離してくれそうにない。こうしている間にもまた誰かが誰かを殺しているのかもしれなかった。
「なんか考え事しとるやろ、新井」
ふいに前田が声をかけてきたので新井は少々戸惑った。
「いえ…」
「どうせ廣瀬か瀬戸のことじゃろうが。廣瀬と何があったかしらんが、瀬戸についてはああするしかなかった」
「それはわかってますけど」
「なんで廣瀬とやりおうた?正気じゃなかったかもしれんかったとはいえ、なんか挑発するようなことでもしたんか?」
「そんなことは…」
新井は言いかけ、思い出した。廣瀬と向かい合った時自分はナイフに無意識に触れた、確か。新井自身も怖かったのだ、廣瀬のことが。
「何か思い当たるか?」
「ナイフに―――触りました。けど、それくらいで」
前田は軽く首を振った。
「アホ、理由としちゃ十分やろ。廣瀬は考えたのかもしれん、とにかく目の前で武器を手にしているお前を倒さんといかん、と。このゲームじゃみんな導火線がかなり短くなっとる」
それから締めくくるようにいった。
「しかし、やっぱり廣瀬はやる気になってた、というのが一番わかりやすい説明だろうな。いいか、わかる必要なんかない。とにかく、相手が自分に武器を向けたら容赦するな。そうじゃなきゃお前らが死ぬぞ。相手のことをつらつら考えるよりは、まず疑っとけ。このゲームじゃむやみに人を信用せんほうがいい。たとえそれが友達であろうと何であろうとな」
一通りまくしたてた前田だったが、ふと森笠と目があって、さらに続けた。
「だからといって新井に森笠を信用するなと言ってるわけじゃないし、森笠に新井を信用するなと言うわけでもない。お前らは俺の話からすれば例外なんじゃろ」
「どうして」
不意に森笠が口を開いた。
「どうして前田さんは僕らと一緒にいるんですか?そんな風に思ってるのに」
「別に…乗りかかった船、だ。―――安心しろ。有望な未来のある若手を殺そうとはこれっぽっちも思っとらんから」
まるで答えたくないインタビューに答えているかのような表情で前田は答えた。
【残り41人】
表面が少しザラッとしている不透明な窓ガラスに映る陽の光が徐々に強く、赤みを帯び始めていた。さすがにこの時期になると夕方が来るのが早い。ガラスの上端にちかっと直射日光が差し込むと、高橋建(背番号22)は壁に背を預けたまま少し目を細めた。傍らには毛布にくるまり、同じように壁に背を預けている横山竜士(背番号23)がいた。横山は、やはりぼんやり目を開いて、光に覆われ始めた床を見つめていた。
二人はもみじ谷公園の奥にあるロープウェー乗り場(紅葉谷駅)の一室に身を潜めていた。入り口近くにはスコップや杭などが所狭しと置いてあって、その奥に事務机と椅子、それにあちこちサビのわいた書類ケースが一つずつあって、机の上には電話が乗っている(受話器を上げてみたが、勿論何の音も伝えてこなかった)。書類ケースからは、あまりぱっとしない印象の観光チラシが二、三枚その端をのぞかせていた。
高橋と横山は同じ年のドラフトでカープに入団した。それぞれ四位と五位だ。社会人と高校卒という違いはあったが、いまや先発投手の一員として同じ立場にある。違うところといえば―――横山には高橋が経験したことのない大きな怪我(ルーズショルダー)がつきものであったし、高橋は横山と正反対のその気の弱さが批判の対象になっていた(横山もあの気の強さに苦言を呈されることはあったのだが)。歳の割にやんちゃな横山は、高橋にとってみれば家で自分の帰りを待つ子供とほとんどかわりなかった。単純でわがまま。それを言ってしまうと横山には失礼だが。
幸運だったのは二人の背番号が連続していたことで、出発がわずかな間隔で並んでいたこと。さらには、同じ方向へ逃げたことだった。二人とも死んだばかりの遠藤の姿を見ていた。高橋はすぐさま右へ走ったのだが、ちょっと行った所で走るのをやめた。ここで慌てても仕方がないと、その先の身の振り方を考えながら歩いていた。そこへ猛烈な勢いで走って逃げる横山がやってきたのだった。横山の顔色は青ざめていて、その割に興奮状態だった。高橋は横山と一緒に逃げ(だから彼らはその後遠藤を殺した河野が新井の攻撃を受けたのも、さらには河野が死んだのも放送があるまで知らなかった)、集落と離れて少し高台にあるこの駅を見つけると、鍵をかけて閉じこもった。
―――それから、もう9時間以上がたっている。二人が何をすることもなく、ただ時間だけが過ぎていた。高橋はぼんやりしながらも、ずっと考えていた。一体自分は今、何をするべきなのだろう?正午の達川の放送は建物の中にいても聞こえてきた。嶋と遠藤を別にしても、既に八人が死んでいる。その全員が自殺したとは思えなかった。誰かが別の誰かを殺しているのだ。今、この瞬間にもまた誰かが死んでいるのかもしれない。そういえば正午の放送のすぐ後にも、そしてついさっきはそれより近いところから銃声のようなものが聞こえてきた。いったい、チームメイトを殺すなんてことができるんだろうか、と考えては遠藤の死体が脳裏をかすめた。しかし高橋はあれは何らかの事故なんだと思いたかった。そう思わないとやっていけない。なにせこんな馬鹿げたルールに乗る人間がいるという事が、どうにも信じられなかった。
高橋は部屋の隅、道具が置かれているところにあるメガホン型のハンドマイクに目をやった。ちょうど平舞台で達川が使っていたものと同型のようだ。あれは、使えるんだろうか?もし使えるなら―――やれることはあるんじゃないのか?
ただ、自分はそれが怖いだけだ。それをするのが。というのも、このゲームに乗る人間がいるとはとても信じられないその一方で、やはり、一抹の不安が拭いきれないからだ。だからこそ横山と二人、とにかくここまで逃げてきた。もし、もしそんな選手がいたら?
「建さん」
横山が呼びかけたので、高橋は考えを中断し横山に向き直った。
「パン食べましょう。なにか食べないと、いい考えも出ませんよ」
横山が穏やかに笑いかけていた。ちょっと無理に笑った感じもあるけれども、それでもいつもの、あのやんちゃ坊主っぽい横山の笑顔だった。
「…そうしようか」
二人はそれぞれのデイパックからパンと水を取り出した。高橋はそのデイパックの中、二個の丸い缶詰みたいなものに一瞬目を止めた。初めて見るが、手榴弾、というやつなのだと思う(横山の方はどういう冗談なのかダーツセットで、ありがたいことに木製の丸い的までついていた。これでコントロールでもつけろというのであろうか。そうだったら2人に適した武器かもしれないが)。パンを半分ほどかじり、水を一口飲んでから高橋は言った。
「少し落ち着いたか?」
横山はパンを噛みながら、その質問の唐突さに目をいささか丸くした。
「ずっと震えてたから」
「ああ…はい、大丈夫です。建さんが一緒にいるし」
高橋は微笑んで、頷いた。それで、食事をしながらでも“やるべきこと”について横山に相談しようかと逡巡したが、口を閉じた。やっぱりまだ自分の考えに確信が持てなかった。自分の考えていることは、ある意味ではとても危険なことなのだ。それをやるということは、自分だけでなく横山をも危険に晒すことになる。しかし一方では、危険だと思っていることこそが、自分たちをデッドラインに追い込んでいくことになるのかもしれない。どっちが正しいのか、まだ高橋には確信が持てなかった。
しばらく二人とも黙っていた。それから、横山がふいに言った。
「建さん…こんな時にバカな事言ってると思われるかもしれないけど」
「何?」
「建さん、試合中とかに他の選手が信じられなくなることってありましたか?」
今度は高橋は目を丸くした。その質問の意図はわからないけれど、きっとこのゲームの中、横山は恐れ出していたのだろう―――誰かが、自分を殺さないか、と(たぶんその「誰か」の中には自分も含まれているはずだ)。それを自分の中で否定したくて、ふいに言葉に出したんじゃないだろうか。高橋自身も同じだった。どこかでみんなを信じきれなくて、自分の中の計画を口にすることが出来ないでいるのだ。
「うーん、どうだろう」
横山に余計な心配を与えないよう、高橋は少し苦笑して答えて、それから同じ質問を横山にぶつけることにした。自分の考えを横山に伝えるかどうか、それで決めようと思ったのだ。
「横山は?試合中なんか不貞腐れてるけど」
「そんな。不貞腐れてるなんて人聞き悪いっすよ」
「いや、エラーされた時とか思いっきり怒ってるぞ、顔が」
「そりゃ…マウンドにいる時は熱くなってるから、自分でもよくわかってないんすよね。どういう表情してるかとか。でも結局自分が打たれなきゃいいんですよね、エラーされたくないんなら。だから打たれた自分も悪い。野手を恨むことはないですよ。今一番信用できないのは自分自身ですし。建さんがうらやましかったですよ、今年は。どうしたら左でスピードボールが投げられるんですか?いいなあ、右がダメだったら、俺、左投手に転向しようかな」
スピードガンと喧嘩していると揶揄された横山も、今年はスピードボールが投げられなくなっていた。ファンも首脳陣も失望しただろうが、一番失望したのは自分自身だっただろう。そんな雰囲気が、笑いながらも一気にまくし立てた横山から感じ取れた。
「なんだ、自分のことが一番信用できないんじゃないか」
「そういうことになるんすかね。…なんか変な質問してしまってすいません」
横山が恐縮したように頭を下げた。それを見て、最後にもう一度だけ逡巡し―――しかし結局言ってみることに決めた。今の横山なら大丈夫だろう。とにかく相談してみることだ。
「ちょっと、いいか?」
横山は不思議そうに首をかしげた。
「何すか?」
「誰かを殺したいと思ってる選手がいると思うか?このチームの中に」
「それは、だって、事実死んで―――」
“死んで”を発音する時、横山の声が震えた。
「―――ますよ、みんな。昼に放送もあったし。もう、ここに連れて来られてから十人も。みんながみんな自殺したとは思えないし、それにさっきだって鉄砲の音みたいなのが聞こえたじゃないですか」
「たしかにな。…でも、僕らはここでこうやって怖がってる。それで多分、ほかのみんなも同じなんじゃないかと僕は思うんだ。きっとみんなも怖がってる。そう思わないか?」
横山は少し考え込んだ様子だったが、しばらくして言った。
「そうかもしれない。俺、自分が怖いってことばっかりで、そんなことよく考えてなかったけど」
「で、僕らは一緒にいられたからまだそうでもないけど、一人だったら、きっとものすごく怖いと思うんだ。で、そうやって怖がってる所に、もし誰かと出くわしたら、横山はどうする?」
「たぶん…逃げる。相手にもよるけど」
「もし向こうが武器を持ってて、逃げる余裕がなかったら?」
「…戦う、かもしれない。何か持ってたら投げつけるだろうし、うん、もしかしたら、鉄砲みたいなの持ってたら、もしかしたら撃つかもしれない。勿論、話はする。けど、とっさのことで、どうしようもなかったなら」
「だろう?それで僕は、本当は誰かを殺したいと思ってる人なんていないんじゃないかと思うんだ。怖いから、相手が自分を殺そうとしてると思い込むから、戦おうとするんじゃないかと思う。そうやって思い込んだら、相手が向かってこなくても自分の方から向かっていくことだってあるかもしれない。―――みんな、怖がってるだけなんじゃないかな、きっと」
横山は唇を噛み、ややあって視線をためらいがちに落とした。高橋は言葉を続けた。
「このままでいたら、僕らは死ぬ。二十四時間誰も死ななくてもルールで殺される。それで自分たちに何かできるとしたら、全員で協力して、なんとか脱出する方法を考えることだけじゃないか?きちんと話しかけたら、みんな戦うのをやめてくれる。そしたら、みんなで話し合える。とにかく、それが自分の意見。だけど、横山が反対するんなら、この話はなしだ」
横山はしばらく視線を落としたまま考え込んでいた。そしてたっぷり二分ばかり
たってから、ぽつりと口を開いた。
「俺は、建さんの言う事はとても正しいと思います。これは、俺の意見です」
高橋は笑みを返した。そうだ。やっぱり、やるべきなんだ。何も努力しないで死んでいくなんて、そんなのはごめんだ。可能性があるなら試してみよう。一緒にプレーしてきた仲間を信じたい。試して、みよう。
「でも、どうやってやるんですか?みんなに呼びかけるなんて」
高橋は道具の中にあるハンドマイクを指差した。
「あれが使えるかどうかだと思う」
横山は何度か小さく頷き、それから天井を見上げると、しばらくしてぽつりと言った。
「うまくいったら、みんなに会えますかねえ」
高橋は、頷いた。これは、いささか心から。
「うん。きっと会える」
【残り41人】
「森笠、足大丈夫か?」
再びしばらくの沈黙を破って新井が口を開いた。ふいの質問に森笠は、忘れてた、といった様子で傷をおった左足を見た。その声に前田も反応して森笠を見た。
「ああ、血も止まったみたいだし大丈夫そうだ。忘れてたよ」
「あの時のか?」
「はい」
返事を聞いてちょっと考え、しかし前田は自分の荷物をあさると、白く小さい紙袋から一錠ずつ梱包してある薬のようなものを取り出して、それを半分ずつに分けると、片方を森笠に投げた。
「わしのもらっとる鎮痛剤。何かあったときのために持っとけ」
森笠は目をぱちくりした。それでも、受け取った。
「前田さん」
新井は残りの薬をバッグにおさめている前田に声をかけた。
「前田さん、練習場の窓を開けようとしてましたよね。何か異変に気付いてたんですか?」
前田が肩をすくめた。
「見てたんか。なら手伝え」
「もう体が動きませんでしたよ。何か…知ってるんですか?」
「何も…」
と言いかけて、前田がどこか遠くを眺め、何を思ったのであろう、再び言葉を続けた。
「いや、キャンプの雰囲気がどこか違ったな。それだけだ、何かあるんじゃないかと思ったのは…その何かがこれだとは予想もつかなかったが」
雰囲気?いつものキャンプと何ら変わらないような普通のキャンプだと今の今まで思っていたが、前田には何か違和感があったのだろうか?一体どこにそんな雰囲気があったのか、新井にも森笠にも全くわからなかった。
「お前ら、これからどうしようとか考えとることあるか?」
これから―――新井は隠れていることに精一杯で、正直な話何も考えていなかった。ただその場しのぎで時間をつぶそうと思っていた。
「もしできるんなら、信用できる人たちを集めて、何か一緒に考えられませんか?大勢で考えたら、いい知恵が浮かぶかもしれない」
そう言ったのは森笠だった。そうだ、と新井も納得した。前田が左側の眉だけ持ち上げた。
「信用できる人ってのは、この場合誰の事だ?」
この一言で森笠と新井は顔を見合わせ、考えて今度は新井が答えた。
「同期だったら広池さんとかはパソコンとかめちゃくちゃ使えるからすごく役に立ちそうだし、東出とか…何考えてるかわかんないけど、それなりに役に立つと思います」
前田はそれで新井の顔を見ながら、自分の顎にしばらく手を這わせた。それから言った。
「広池なら、見たな」
「どこでですか!?」
「まだ朝のうちだ。ちょっと整備された公園からこの山に向かってくるあたりで。銃も持ってた。わしに気付いてるようやったがの」
「声はかけなかったんですか?」
「どうして?信用する理由は何もない。銃を見てむざむざ声をかけるか?瀬戸と会った場面と同じじゃろ」
そう返されて新井も森笠も言葉はなかった。
「そうお通夜みたいな表情すんなや。広池のことはよう知らん。さっき言ったようにこのゲームじゃ人を疑うのが原則だ。特に頭の切れそうなやつは用心せんといかん。声をかけたところで広池が確実にうんと言うとは限らん」
「じゃあ前田さんが広池さんを見たところまで行きましょう。広池さんは絶対信用できます。きっと広池さんなら何か思いついてくれるはず―――」
前田が首を振っているのに気付いて、新井は途中で言葉を切った。
「広池がお前の言う通りの切れ者ならな、新井。あいつがわしに姿を見られた所にずっととどまってると思うか?」
その通りだった。新井はため息をついた。深い深いため息だった。
「あの…今からでも、ほかのみんなに連絡をとる方法ってないんですか?」
森笠が聞いた。前田はまた首を振った。
「お前らの脳味噌は筋肉で出来とんのか?不特定多数を集めるならともかく、特定の個人に連絡をとるのはほぼ不可能やろう。携帯を使えれば何とかなったが、神社で言われたじゃろう?電波もチェックしとんのやぞ。携帯なんか使ったらたぶん…想像だが、この首輪が爆発くらいするだろうな」
「誰だっていいじゃないですか!もっと仲間がいれば…」
「アホ。やってきたヤツが今銃をぶっ放してるヤツだったらどうするんだ?わざわざ死にに行くのか」
沈黙が落ちた。結局助かる方法はないのか…そう思った、その時だった。とても遠く、それでも少し電気的に歪んでいるのが分かる『みんなーっ』という声が聞こえてきた。
【残り41人】
声は続いていた。『みんな聞けー』という声。
「横山の声だ」
森笠が言った。とりあえず下が見えるところを探そうと新井が動く。それに前田も森笠もついてきた。比較的近くに木々の切れ目から下の公園が見渡せる場所を発見した。しかし、声を発していると思われる横山の姿は見えない。陽が落ち薄暗くなっていたし、公園自体木々に囲まれていた。その木々が時期がくると見事な紅葉を見せることで、その公園は観光名所の一つになっていた。
『みんなここまで来てくれ。みんなで話し合おーぅ』
ハンドマイクか何かを通しての呼びかけだろうか。横山がハンドマイクを持っている姿を想像して、新井は滑稽に思わなくもなかったが、あれならかなりの部分まで声が届くだろうと感心し、そしてタイミングのよさにちょっと驚いていた。
『みんないるなら出てきてくれーっ』
今度は違う声が響いた。ちょっと間を置いてまたも森笠がその声の主を理解した。
「建さんだ」
「二人ともあんなことしとったら殺される。たぶん無防備に叫んどるんじゃろ」
何してるんだと言わんばかりに舌打ちをして、前田が言った。それで新井は唇を噛んだ。要するに、建さんと横山は“説得”を試みようとしているのだ。戦うのはやめろと。二人とも、そう、誰も“やる気”なんかないはずだ、と考えているに違いない。
『みんな戦いたくなんかないだろーっ!?ここまで来い!!』
声は再び横山のものに戻っていた。きっと二人でいることをわからせたかったんだろう。新井は少し逡巡した。状況を整理する必要があった。新井の頭ではそれをするだけでもちょっとした時間を要した。そしてそれが終わったのか、前田に言った。
「前田さん、僕、あそこまで行ってきます」
前田が眉根を寄せた。
「ばかか、おまえは?」
「だって二人とも、やっぱり危険でしょう?あの二人はやる気なんかない。だったら仲間になれますよ。前田さんも、あれが危ないっていうのはわかってるじゃないっすか」
「そんなことを言っとるんじゃない。今ここでむやみに動いたらお前の方が危険じゃろ。だいたい、あそこまでどれだけ距離があると思っとる?途中に誰がいるかわからんのやぞ」
「わかってますよ!」
新井は言い返した。
「いや、お前はわかっとらん。この辺に隠れとるやつらはもうあの二人に気付いとる。あの二人を狙ってるやつがいるとしたら、きっとそいつはお前みたいに何も考えんでのこのこ出てくるやつをも待っとるぞ。標的が増える、そしたら」
前田がいった内容より、その静かな声色にむしろ新井はぞっとした。しかし、こうしている間にも二人の“説得”は続いている。
「やっぱ…行きます」
「よせと言うとるやろうが」
「なんでですか!見殺しにしろとでも言うんですか?」
「そうは言っとらん」
前田は新井から手を離すと、ショットガンを上空に向けて構えた。
「ちょっとだけ俺たちの生存確率を下げる。…ちょっとだけだ」
前田はそう言うなりそのショットガンを撃った。間近で撃発したその火薬の音は物凄く、一瞬鼓膜が吹っ飛んだかと思ったほどだった。その音が、山の斜面に反響した。さらにはものすごい勢いで、寝床に帰っていたと思われる鳥たちが一斉に飛び出した。こんなにいたのかと思うほど多かった。なるほど、この銃声で建さんと横山が脅えて呼びかけるのをやめ、隠れるのを狙っての行動か。新井は少々感心したが―――
「前田さん、もっと撃たないんですか?」
「あほ。今のだけでも俺たちがいる所に気付いたやつがおるかもしれんやろ。これ以上は危険だ」
新井は少し考え、森笠の武器であるスミスアンドウエスンを頭上に向けて構えようとした。前田がその腕を押さえた。
「よせ!何度言わせる?」
「けど…」
「もう俺たちには、あの二人が早く隠れるよう願うしかない。それとも、あいつらと同じ目に―――」
ぱらららららら、という一種タイプライターに似た感じの音が聞こえてきたことで、前田の言葉が途中で切れた。その音に続き、高橋の『うっ』といううめき声が聞こえてきた。もちろん、その声というのもハンドマイクが意味もなく拾って増幅したわけだ。一呼吸置いて『建さん!』という横山の叫び声が続いた。しかしすぐに『がっ』という雑音がし、ハンドマイクが地面に落ちたことが分かった。また、ぱららら、という音が聞こえたが、今度はかなり音が小さかった。それで新井は、その音もまたハンドマイクが拾い上げて増幅していたのだと悟った。ハンドマイクが壊れてしまったから音が小さくなったのだ。そしてそれ以来、高橋の声も横山の声も宮島に響くことはなかった。
新井も森笠も、蒼白になっていた。
【残り41人】
横山竜士は枯葉舞う地面を這いずって、高橋建の方へ進んだ。腹部が何かとても熱く全身の力が抜けたようになっていたが、それでもまだ這うことくらいはできた。横山が這った所に落ちていた黄色や茶色の落ち葉が赤く色を変えていた。
「建さん!」
横山は叫んだ。そうしたおかげで腹部が引きちぎられるように痛んだが、そんな事は気にならなかった。一緒に帰ろうと約束した高橋が倒れて動かない。そのことだけが重要だった。
高橋はうつぶせに倒れ、横山の方に顔を向けていたが、その目は閉じられていた。高橋の体の下にとろっとした感じの赤い池が広がり始めた。
横山は高橋の体までたどり着くと、力を振り絞って自分の上半身を起こした。それから、高橋の肩をつかんで揺すった。
「建さん!建さん!」
叫ぶ側から高橋の顔に赤い霧が降りかかったが、横山はそれが自分の口から出ているものなのだとは気づきもしなかった。
高橋がゆっくり目を開いた。苦しそうに「横山…」と呟いた。
「建さん!しっかりしてください!」
高橋が顔をゆがめた。しかし、何とか持ちこたえると、「ごめん、横山」と言った。
「僕がばかだった―――早く、逃げろ」
「だめです!」横山が泣きながら首を振った。
「建さんも一緒に!」
それから横山は慌てて辺りを見回した。自分たちを撃ったものの影は見えない。きっと、かなり距離のあるところから狙撃したのだ。
「早く!」
高橋の体を起こそうとしたが、それはとても無理だった。すぐに、自分の体を支えているのもつらいことが分かった。腹部にそれまでに倍する痛みがはしり、横山はうめくと自分も再び前のめりに倒れた。ただ、顔だけは高橋の方に向けて。
「横山、動けないのか?」
高橋がいつもよりもっと弱々しい声で聞いた。横山は無理矢理顔の筋肉を動かして、笑って見せた。
「そうみたいっす」
「すまん」と高橋がまた小声で言った。もう声を出すのもつらそうだった。
「いえ、俺たち、やるべきことをやったでしょ、建、さん?」
それで高橋が泣きそうな顔をするのが分かった。比較的軽傷だと思った横山自身も意識が急速に薄れかけていた。まぶたが重い。それでも、言いたいことを言わなければ。
「建、さん。俺、建さんと、同じ、チームに、はいれて―――」
ほんとうによかった、と続けようとした目の前で、ぱん、という音とともに高橋の頭が揺れた。高橋の右のこめかみの上に赤い穴が開いていて―――高橋はもう、うつろな目を横山に向けているだけだった。
恐怖と驚愕に口を大きく開いた横山の耳に、もう一度ぱん、という音が届き、同時に頭をガンと殴られたような衝撃がきた。それが横山の、最後の知覚になった。
金本知憲(背番号10)は、建物の影から見えないよう低くした姿勢のまま、長崎元のものだったワルサーPPKをすっと下ろすと、二人のデイパックを拾い上げた。
【残り39人】
単発の銃声が二度続いた後、新井も森笠もしばらく動けなかった。いつの間に帰ってきたのだろう、上空を舞うとびが、ういーひょろ、と鳴いていた。しばらく辺りを見回していた前田が踵を返し、
「終わったか。戻ろう」
と二人を促した。それを聞いて、新井の唇がわなわなと震えた。
「―――終わった、だなんて、いくらなんでも酷いですよ。ほかに言いようがあるでしょう?」
「気を悪くしたか。悪いな、わしはそんなにご立派なボキャブラリーを持っとるわけじゃない。―――しかし、これではっきりわかったろう。選手の中にやる気になっとるやつがおる。達川さんらがわしらをはめようとしてやった可能性もあるが、あの人らだって命がおしいんじゃけ、神社から出てくることはないやろ。選手の動きがわかっとるなら、なおさらな」
新井はまだ何か言いたい気分だったが、何とか自分を抑え前田の後をついていった。森笠は遠藤の死体を見たときと同じように、ショックで言葉が出ないようだった。
元の場所まで戻ると、前田が荷物をまとめ始めた。
「お前らも準備しろ。念のため、ちょっとばかり動く」
「今からですか?もう暗いし、動かないほうが―――」
「今の見たやろ?誰かはわからんが、容赦のないやり方だったな。しかも武器はマシンガンかなんかだ。きっとわしらの場所にも気づいとる。あんなんに位置を知られたんなら、今からでも動いた方がマシだ。…心配するな、少しだけだ」
同じ頃、新井たちよりやや麓に位置する茂みの中で、小林幹英(背番号29)が落ち着きなく斜面を登っていた。勿論、一連の出来事をその耳で聞いてのことだった。
―――いったいどうなってるんだよ!新井が廣瀬を殺したり、建さんと横山が誰かに撃たれたり!狂ってる!狂ってる!狂ってる!
狂いかけているのは小林の方だった。殺戮の連続で彼の頭の中は引き出しの中身をひっくり返したかのように、どこから整理に手をつけていいか分からないほどめちゃくちゃになっていた。気をつけないと無意識に嗚咽がこぼれそうだったし、気をつけていても彼の目から涙がぼろぼろとあふれてくる状態はずっと続いていた。
ふいに、木の枝が折れる音にまじって、何かが聞こえてきた。
「…エイ、幹英!」
―――人の声!どっからだ!誰だ!!俺は連れて行かれないぞ、迎えにきたっていったってそうはいかないぞ、死神の野郎め!!
「どこだ!殺せるもんなら殺してみろ!!」
小林は荷物をぎゅっと抱きしめると、あたりに向かってわめきちらした。しかし、何も聞こえてこなかった。なんだ?俺の気の迷いか?小林が少々の落ち着きを取り戻しかけたその時、ふいに懐かしいメロディーが電子音となって流れた。その音で、まだ平和だったあの頃の記憶が走馬灯のようによみがえってきた。
―――それ、その着メロは…。
わらにもすがる思いで小林は必死に音のするほうを探し、そして発見した。
「……あ!!」
【残り39人】
ここにも一人、必死になって斜面を登る選手がいた。灌木に身を隠すために身を低くしていたので、ほとんど這っていると言った方が正しいかもしれない。落ち葉や枝や舞い上がる土煙で、その身を包んでいる真っ白なユニフォームはほとんどすすけていた。その大きいとはいえない目をしっかりと見開き、いつもポカンと開けている口をしっかり結んで、河内貴哉(背番号24)は恐怖と戦っていた。
河内が神社を出発した後、ついさっきまで隠れていたのは、高橋建と横山竜士がハンドマイクで呼びかけを行ったあの公園内にある、小さな川にかかった橋げたの下だった。河内にはやや斜めの方向だったけれども、地面に頭を出せば二人の姿がはっきり見える位置にいた。迷いに迷い、挙句呼びかけに応じて出ていこうとした時、遠く銃声が響いて、二人がそちらを見ていた。そして、河内がなお少し様子を見たほうがいいのだろうか…などと考えるうち、ほんの十秒か二十秒も経たないうちに今度はタイプライターみたいな銃声がして、ハンドマイクで増幅されたうめき声とともに高橋建が倒れるのが見えた。続いて、横山竜士も撃ち倒された。
その時点では、二人はまだ生きていたに違いない。しかし河内は、二人を助けに行くことがどうしてもできなかった。自分の武器では出て行ったところでどうしようもない―――河内に支給されたその武器とは、一本のフォーク、スパゲティを食べる時に使うような何の変哲もないフォークだった。そして、さらにそれから二度銃声が響いた。襲撃した誰かが高橋と横山にとどめをさしたのだ、とわかった。
分かった途端、荷物をかき集めてその襲撃者に見つからないよう身を低くして、土手を二人がいた方向とは逆に向かって思い切り走り始めた。そして二人が出てきた建物が見えなくなると、そこから岩を組んで作られていた堤防をよじ登り、そのまま山のほうへ向かい、茂みに入ると右手にフォークを持ち(利き手はもちろん左手だったが、枝をはらったりするのに左手の自由は確保していた)、そして一目散に斜面を登っていたのだった。
どのくらい登ったのだろう、ふと我に返って河内はようやく動きを止めた。そうっと後ろを振り返った。木々が生い茂り、そこから島の様子を伺う事は不可能だったし、何より陽が落ち暗闇があたりを包み込もうとしていた。耳を澄ましたが、何の物音もしない。安心して息をつこうとしたその瞬間、腕に何かが食い込んだ。河内の頭が再度混乱し、口から「ヒイッ」と声が漏れた。
「バカ!」
誰かがささやいて、腕に加わっていた力が消え、代わりに河内の口を生暖かい手が塞いだ。しかし混乱した河内の耳にその声は入らず、ただ襲撃者をやっつけようと思い、その恐慌のうちに右手のフォークを振った。がちっと音がして、すぐにそのフォークが止まった。河内は覚悟したが、そのまま何事も起こらないのでおそるおそる目を開いた。
目の前にいる影は身をそらすようにして顔の前に掲げた大型の自動拳銃(ベレッタ92F)でフォークを受け止めていた。男は拳銃を左手で握っていた。二人の位置関係と、男が左利きでなかったら、河内のフォークは少なからず男を切り裂いていたかもしれない。しかし、男は左利きだった。
「危ないじゃないか、河内」
自分に似た表情が河内の目に入った。
「お兄ちゃん!」
それが広池浩司(背番号68)だとわかると、河内は叫び声を上げた。あまりの喜びに、つい無意識のうちにいつもの呼び方が出てしまっていた。
「ばか!静かに…ついてこい」
小声で河内を一喝すると、広池は先に立って比較的低い茂みの間を進みだした。河内は前を進む広池の背中に目をやり、しかしふいに恐ろしい仮定が彼の心を風のように通り抜けて、一瞬足をすくませた。
―――建さんと横山さんを殺したのはもしかしたら広池さん?もしかして僕があそこにいたのを知ってて先回りしていたのでは?…いや、それならなんで俺を殺さないんだ?広池さんは兄貴みたいな存在だし、それを広池さんも知ってるわけだから、二人で協力すれば生存確率はグンとあがる。最後二人になったら?広池さんは俺を殺す?それって効率いいな!…って俺は何を考えてるんだ!
「どうした、河内?早く来い」
河内はまだぼんやりした頭のまま、広池を追った。二、三十メートル程進んだだろうか、少し深い茂みの中にたどり着くと広池は足を止めた。
「座ろう」
その声に、河内は広池と向かい合って腰を下ろした。まだフォークを握っていたのに気づいてそれを地面に置いたが、同時に左手に鋭い痛みが戻ってきた。むやみに枝をはらっていたせいで手のひらに無数の切り傷ができていた。広池はそれを見て銃を置くと、近くの茂みから自分のものらしいデイパックを引っ張り出し、タオルに水を少し含ませると、
「左手見せろ、河内」
と言った。河内が素直に左手を出すと、広池は力をかけすぎないよう丁寧に傷を拭って、それから今度はタオルの濡れていない部分を細かく裂き、包帯代わりに巻きつけた。
「ここに…隠れていたんですか?」
「ああ。なんかバキバキと変な音がするから、ここから顔を出してみたら貴哉が見えたんでね。自分と似てるから暗くても見間違わない自信はあったよ。それで声をかけた。…攻撃されたけどな」
「すいません」
「けど、むやみに動いたら逆にあぶないぞ」
「はい」
河内は自分が泣きそうになっているのが分かった。
「ありがとうございます」
「まあまあ」
広池は笑ってみせた。
「けど、河内に会えてよかったよ。お前の顔見てると何となく他人とは思えないからな。それこそ、弟みたいだよ」
今度は河内の目に実際に涙が浮かんだ。河内はぐっとそれをこらえ、話題をきりかえた。
「さっき、建さんと横山さんのすぐ近くにいたんです。俺―――俺、あの二人を助けられなかった」
「わかった。だから自分を追い詰めるな。僕だって、二人の呼びかけに応じてやれなかったんだ」
河内は頷いた。高橋建と横山竜士が倒れるシーンがまた頭の中に生々しくよみがえってきて、少し体が震えた。
【残り39人】
「―――禁止エリアは以上でーす。いいかー、殺すペースをあげんといつまでたっても広島に戻れんけえのー。それと暗くなったけえ、鹿や猿と人間を撃ち間違うなよー」
そう言うと達川光男(元監督)は放送機器のスイッチを切った。たった今、午後六時の放送が終わったところだ。正午から現在までの死者数は、正午までのそれと比べて半分になっていた。このまま殺し合いがペースダウンしてしまったら、広島へ帰るのがますます遅くなってしまう。達川はじめコーチ陣はもっとペースを上げたかったのだが、自分たちはここでゲームの進行を見守るしかなかった。―――己の身を守るためにも。
本殿の中には照明やコンピュータ、諸々の機材を動かす大型の発電機などが持ち込まれていた。半分は海に囲まれているという事で、特にしきりなども設けず、入り口と出口にそれぞれコーチが武器を持って見張りをしている程度であった。このすぐ近くで殺し合いが繰り広げられているとは思えないほどのんびりとした雰囲気が漂っていた。
ブーッ、ブーッと達川の携帯電話が机の上で振動した。ディスプレイにうつされた番号を見て慌てて達川は通話ボタンを押した。
「はいはいはい、達川です。はい。はい、ああ、まあ―――順調ですね」
なにやら笑顔で電話の向こうの人物と談笑する。
「前田ですか。わし?わしゃ金本にしたんですよ。いや、ええ、前田も捨てがたかったんですけどねえ、もうこりゃ見た目ですね。はい、はは。あー、データは球団事務所に送っとるんですが―――見てない?はいはいはい、まだ生きてますよ。状況?はい、ちょっと待ってくださいね」
達川は受話器を耳から離し、しかめっ面でパソコンの画面に見入る松原誠(チーフ兼打撃コーチ)に話しかけた。
「松原さん、前田はまだあの二人とおりますかねー?」
「います」
パソコンのモニタには、選手につけた首輪からの電波をもとに生徒たちの居場所が地図上でプロットされていた。
「はいはい、お待たせしました。えーとですね、前田は今、ほかの二人と一緒に行動しとります。えーと、新井と森笠なんですが…はいはい。前田が何か知っとるみたいなんですが、盗聴の記録、聞きます?え?いや、そこまで話しとらんみたいですが。大丈夫でしょう。わしもキャンプに行きましたけど、特に問題は。はい、はい」
いつもの達川節で会話は続いていたが、受話器の向こうの声に幾分眉を持ち上げた。
「えー、話すんですか。また事が大きくならなきゃいいですけど。あいつは選手時代から真面目で。ええ、もう。コーチになっても。見ておられたでしょう。はいはい、そうそう。まあ、東京で何かあったらまた連絡ください。いや、長期戦になりそうですからね。はい、はい。ほんじゃ、また連絡お待ちしてます、阿南さん」
そう言って達川は電話を切った。そこでひとつため息をついて、視線を動かした。
「ペー…は、と」
「さっきトイレに」
松原がモニタから顔をあげて答えた。
「GMもベタな所に賭けたんですね」
「あー、あん人は昔から冒険はせんですけぇ。松原さんは誰にしたんですか?」
「若さをかって東出にしましたよ。あの性格だったら早々殺されないでしょうし、足もある」
「あー、そうきましたか。わしゃ安易に行き過ぎたんかのう」
「いいじゃないですか。しかしすごいですな、金本は!さすが四番だ。こんな所でも率先して行動するとはねえ」
そこで達川と松原はそろって笑い声を立てた。
【残り39人】
しーんと静まり返った水族館の中のガラス窓に、わずかではあるが人工的な光が反射しているのが見受けられる。くそ、この中にも誰かいたか。そいつに自分の存在を悟られないようにしなければ。そう思い、足音を立てずに一番近くの支柱の影に隠れたのは鈴衛佑規(背番号63)であった。
彼はちょうど田村恵が殺された時、大願寺の近くの道路を歩いていた。その銃声を聞いて自分のすぐ近くに殺人者がいると認識した途端、とてつもない恐怖が自分の中をかけめぐった。無意識のうちにそこから西へ逃げ、一度水族館を通り過ぎた。そのまま行けるところまで行こうとしたのだが、すぐに山のほうから海岸にのびている有刺鉄線の柵に行く手を阻まれた。日も暮れ山に入るのも非常に怖く思われたので、引き返してとりあえず水族館の中に入ってみたのだった。近くに旅館のような建物もあったが(実際は国民宿舎なのだが、そんな詳しいことまではさすがにこの暗闇の中わかるわけがなかった)、そんな布団も食べ物も十分にありそうな所だったらみんな入っていきそうなもんじゃないか。今はもう誰も信用できない。実際、銃を自分の間近でぶっぱなしたやつがいるんだから。それよりかは水族館のほうがよっぽど何もなくて他の人間もいないに違いない。そう判断してこちらを選んだのだが、どうやら選択ミスだったようだ。もっとも、旅館のほうを選んでも同じ目にあっていたのかもしれないが。
鈴衛の右手には一本の木製の棒が握られていた。擂粉木というよりかはむしろ和太鼓のバチといった方が適切かもしれない。手にしっくりと伝わるその重みが鈴衛に幾分の安心感と勇気を与えていた。殴るくらいしか使い道はないように思われたが、それでも使えるだけまだいい。うまく頭部を殴れればかなりのダメージを与えられることは想像に固くなかった。
光は相変らず動く事もなく同じように反射している。そこにいる誰かの、どこかへ移動するような気配は微塵も感じられない。このまま相手の様子を伺い続けるのはあまりにじれったい。ならば自分から出向いてやるか。
鈴衛は支柱の影から体を見せると、先ほどと同じように足音を立てずに進み始めた。しばらく行って、その光が鈴衛の予想通り、支給された懐中電灯のものであるのがわかり、その光で人の影も確認できた。懐中電灯は光る面を下に向いて置かれており、最小限に光の漏れがとどめられていた。自分から見れば後ろ向きに座っている、その誰かの背番号までは確認できないが、姿かたちは自分とそんなにかわらない。浅井や金本など、チームでも突出した身体(というか筋肉だな。あれは反則だろう)の持ち主だったらどうしようかと一抹の不安はあったが、ちょっと希望はでてきたようだ。
―――不意打ちなら絶対勝てる!
いつの間にか、自分の知らないうちに鈴衛はこのゲームに乗っていた。銃声が聞こえたその瞬間から、「殺らなければ殺られる」と思っていたのかもしれない。その思いは知らないうちに体を蝕む一種の病気のように鈴衛の心全体に繁殖し、そして今に至っていた。もう彼の中には、目の前の人間を殺す―――それだけしかなかった。
近づくにつれ早まる鼓動が相手に聞こえやしないかと鈴衛には不安でしょうがなかったが、もちろんそんなことなどあるはずがない。とにかく興奮と不安で震える足に全神経を集中させて、音を立てないようゆっくりながらも必死で近づいた。相手は座って寝ているのであろうか、鈴衛に気づくどころか動こうともしない。そして、鈴衛はその選手の五メートルほど背後まできた。相変らず明るさが不足して背番号は見えないが、この際誰だっていい。その目の前にある後頭部を殴るんだ。
―――用意はできたか、佑規?
すうっと息を吸うと、勢いつけてその選手めがけ駆け寄り、棒を上から振り落とした。がつっという音が響いた。突然の攻撃に相手は頭をかかえてうずくまる。よし、そのまま倒れろ!!鈴衛の口元が自然に緩んだ。
しかし。その相手は倒れなかった。頭をかかえうずくまったと思っていた目の前の選手は突然後ろを振り返った。振り返った瞬間その選手の顔が薄く照らされ、やっと鈴衛はその選手が誰だか把握したのだが、そんなことはどうでもよかった。鈴衛はもう一度棒をふりかざしたが、その手を振り下ろす前に相手の両手が勢いよく鈴衛の首をつかんだ。その勢いのまま鈴衛は全身を後ろの壁と窓にぶつけた。両手につかまれた首がぎりぎりとしめられていく。首から上が急激に熱くなるのを鈴衛は感じていた。言葉を出そうにも空気が入っていかないし、出てこない。何かを考えようとしても、自分の頭は痺れをきらしたような感覚を強めていく。とにかくその手をふりほどこうと必死で自分の手を出したが、既に遅かった。何せ相手に十分なポジションをとられているのだ。クァッ、カアッと声にならないうめき声を出したが、それが長く続くことはなかった。
突然の襲来者の意識がなくなったのが両手を伝ってわかると、井生崇光(背番号64)は鈴衛の首から両手をはなした。自分の息が経験したことのないくらいあがっているのを感じたが、もしまだこの襲来者が生きていて、いつ自分を襲うかわからない―――そう思ったときには鈴衛の身体を外の水槽まで引きずっていた。水槽にはなみなみの水が入っていたが、いつの間にか移動させられたのだろう、動物の姿はない。鈴衛の身体をかついで水槽の淵に立つと、井生はそれをまるで米俵を投げるかのように思い切り水槽へ投げ込んだ。鈴衛の身体は抵抗する事もなく、静かに水の中へ消えていった。
井生の頭には、あのおなじみの赤ヘルがかぶられていた。自分に合わせたかのような右打席用のそれには、「油断大敵、合言葉は『気』!!」という、わけのわからない「松原コーチのアリガタイお言葉」が殴り書きのような汚い字でほどこされていた。このヘルメットとピコピコハンマー(もっとも後者は何の役にも立ちそうになかったが)が井生に支給された武器であった。松原の言葉に感化されたわけではないが(だいたいシーズン中はたいてい二軍にいるもんだから、松原のアドバイスなど井生にとっては非常になじみの薄いものだった)、用心のため一応かぶっていたヘルメットが役に立つとは井生自身思っていなかった。
「油断大敵、か…」
そう呟くと、井生は再び建物の中へ入って行った。
【残り38人】
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