マッキントッシュ・パワーブックがビープ音とともに敢え無くネットワークとの接続を断ち切られてから、もう五時間近くが経過していた。広池浩司(背番号68)は、今はもう通信端末ならず、ただの計算機になってしまったパワーブックの画面、ウインドウの中の文章をたらたらスクロールしながら、ため息をついた。
あの後何度も電話をいじり直し、接続を確認し、再度の立ち上げを試みたが、パワーブックのモノクロ画面は同じメッセージを表示するだけだった。最終的にはモデムと電話の接続コードを一旦すべて外すに至り、結論したのは、結局、携帯電話そのものが完全に死んでしまったということだ。電話回線に入れない以上、もう広池の自宅のパソコンに接続することすら不可能だった。当座自分のファン(らしい人たち)が集まるヤフーのトピックスに「俺もうすぐ死にそうなんだけど、みんなの励ましが一番うれしかった」と書き込んでみることも、もちろん不可能だった。それでも何かが間違っているのではないかと、なおその電話の分解まで考え―――しかし、広池はぱたっと作業をやめた。
―――ぞっとして。
回線に入れなくなった理由は、もはやはっきりしていた。即ち達川以下首脳陣は、広池が苦労して作った特製電話、というより苦労して偽造した“第二のロム”、電話会社の技術職員が使う回線検査用電話のその番号を突き止め、その接続をほかの一般電話同様、ストップしてしまったのだ。問題は―――なぜ首脳陣がそういう対応を取ったのかということだった。ハッキングを気づかれるようなヘマをやったはずはないのだ。それだけは自信がある。
となると、考えられる理由はたった一つしかない。首脳陣は、コンピュータ回線内部の防御システム、警戒システム、あるいは手動操作による監視とは別の方法で、広池がハッキングを試みていることを知ったのだ。そして知った以上―――
広池は“それ”に気づいたとき同様、また、自分の首に巻かれた首輪に手をやった。
首脳陣が知った以上、自分は即座にこの中の火薬を遠隔操作で爆破され、殺されていてもおかしくなかったということだった。多分、河内も一緒に。
おかげで昼過ぎにとった昼食のカップラーメン(この家に置いてあったもので、二人は勝手に拝借した)は、いつもよりまずく感じられることになった。
河内は、広池がパソコンを止めてしまったのを見て説明を求めたけれど、広池は結局ただ、「だめだ。理由は分からないが、だめになった。電話が壊れたのかもしれない」とだけ答えておいた。
河内も、それ以来すっかりしょげかえった様子で、朝と同じ場所に腰を下ろしている。時々響く銃声にぽつぽつと言葉を交わすほかは、ずっと沈黙が続いていた。河内に“すごい”と言わせた広池の華麗なる脱出作戦はぱあになってしまったのだ。
だが―――俺たちをすぐに殺さなかったことを後悔させてやる。絶対にだ。
少し考えてから、広池はズボンのポケットに手を突っ込み、金色の細い鎖の輪を取り出した。その鎖には婚約者から以前貰った水晶のお守りとともに、フェロニッケル製の小さな円筒が一つ通してあった。広池は小さな傷が無数についた古臭いそれを目の前にかざした。
この円筒はドミニカでの生活を終え、ドラフトのために日本に帰るとき、世話になったフィーバー平山(駐米スカウト)からもらったものだった。「一生使うことがなければいいが、もしものために―――私の形見だと思って肌身離さず持っていてほしい」と言われたものだ。その時は軽く受け流した一言が、今ではとても重いものに感じられる。もしかすると、フィーバーはこの事態を予測していたのではないか―――。
親指ぐらいの大きさのそれは、キャップの中にゴムリングをつけた防水ケースだった。帰国後広池が中を確認すると、そこにはさらに二つ、同じようなケースを納めていた。無論、広池はその二つの中身をさらに取り出した。一見、何だかわからなかった。すぐに見当がついたのは、その二つは組み合わせて使うものらしいということだ。一方のネジ山がもう一方にぴったり噛み合った。バラして厳重に別のケースに納めてあったのは、一緒にしておくと何かまずいことがあるから―――。そして、いろいろ調べてその正体を突き止めた後も(当然バラしておくべきだった、そうでなければ危険で持ち歩けたもんじゃない)、フィーバーがどういう意図でそれを持ち続けていたのかはわからなかった。なぜならそれは、それだけでは特に役に立つものでもなかったし、あるいは、このゲームに巻き込まれるまでの広池がこれを持っていたのと同様に、単に誰かの想い出のために持っていただけなのかも知れなかった。ただいずれにしてもそれは、このゲーム下におかれたことで初めて、広池にフィーバーの、そしてこのチームの過去を推測させる一つの手がかりにはなかったのだが。
広池はいささかきしむキャップをねじり、それを開けた。開けるのは、帰国後に中身を確認したそれ以来だった。入れ子になっている二つのケースを手のひらに落とし、さらにそのうち小さい方の封を切った。
ショック防止のために、中にはたっぷり綿が詰まっていた。そしてその綿の中から、真鍮の鈍い黄色がのぞいていた。
広池はしばらくそれを見つめていた後、キャップを戻した。もう一つの小ケースと一緒に、元通り大ケースに納めた。本当は―――もしこれを使うときがくるとしても、この島を脱出した後になるだろうと思っていたのだ。あるいは神社のコンピュータを狂わせた後、必要なものを揃えて達川らを急襲するときに使うことも考えないではなかったが、―――しかし、いずれにしても今はもう、これに頼るしかない。
広池はキャップをぎゅっと締め込むと、目の前にある筆立てからファンシーな柄で囲まれているシャープペンシルを抜き出した。この部屋の主が使っていたものだろう。広池はその頭を数回押して芯を出し、さらにデイパックの中から地図を取り出した。裏返した。当然、白紙だった。
「河内」
広池が呼ぶと、膝を抱えて視線をぼんやり床に落としていた河内が顔を上げた。目が輝いていた。
「何か思いついたんですか?」と訊いた。
その時、その河内の何が気に障ったのかよくわからない。口調だったのか、言葉自体だったのか、とにかく広池の心のどこかで一瞬、何だよそりゃ、という声がした。俺が脱出方法について頭を捻っている間じゅう、おまえはぼんやりそこに座ってりゃいいってわけなのか?まさかマウンドでもそんな調子じゃないだろうな?これじゃ相手するキャッチャーも大変だよ。ちくしょう、先発が早々に降りた時の中継ぎの大変さでも思い知れよ。
―――しかし、広池はその声を押さえつけた。
河内の顔色は夏場のこんがり焼けたそれとは違って青みさえ浮かんでいた。無理もない、いつ終わるとも知れない殺し合いの緊張の中で、だいぶ疲れているはずだった。ドミニカでの荒修行の中で、広池は逆境にもびくともしない体力と精神力だけは身につけていた(マウンドでストライクが入らないのは精神力が弱いせいではない。ただ単に、コントロールがないだけなのだ)。ただし他の選手が皆それを持ちえているかといえば、そうではない。特に目の前にいる河内はまだ20歳だ。広池とでは、疲れの度合いが違うのだ。頭がうまく働かないのかもしれなかった。
それから広池は、あることにはたと気付いてぎょっとした。今、河内にちょっとでも腹を立てたということ自体、自分もまた疲れていることの証拠なのだ。もちろん、助かる見込みがほとんどないこんな状況じゃ、神経が参らない方がおかしいのかも知れないけれど。
だめだ。気を付けなきゃならない。そうでないと―――これがペナントの試合なら負けて悔しがるだけですむところだが―――このゲームでは当然の帰結として、死ぬことになる。
広池はちょっと頭を振った。
「どうしたんですか?」
河内が訊き、広池は顔を上げて笑んでみせた。
「何でもない。それより、ちょっと地図を検討したいんだ、いい?」
河内が広池の方に身を寄せようとした。
「あ」
広池が声をあげた。
「動くな、お前の首んとこ、何かいる」
河内がそれで、びくっと首に手を持ち上げた。広池は「俺がとってやるよ」とそれを制し、河内に近づいた。河内の首筋に―――実は別のものに、目をこらした。
「あ、逃げた」
広池は言い、河内の後ろに回り込んだ。さらに目をこらした。
「広池さん、とれました?広池さん?」
河内が何が起こっているのかわからない、不安交じりの声で言うのを聞きながら、広池はさらに子細に観察した。
それから河内の首筋をさっと手で払って「とれたよ」と言った。座っていた椅子へ戻りながら、「小さなクモの子だった」と付け加えた。河内がそれで安堵の表情を浮かべた。広池はちょっと笑み、「さあ、地図だ」と声をかけた。河内がそれで地図を覗き込み―――その地図が裏返しになっているのを見て、眉を寄せた。
広池は立てた人差し指を口元に寄せ声を立てないよう河内に促すと、シャープペンシルを地図の裏面に走らせた。利き腕の左手で書く広池のなかなか達筆な文字が、紙の端にいくつか並んだ。
“盗聴されていると思う”
河内が顔を引きつらせ、「マジで?どうして分かるんですか?」と訊いた。広池は慌ててその河内の口に手を伸ばした。河内が了解して、精一杯見開いたままの目で頷いた。
広池はその手を離してから、「わかるよ。俺は虫にも詳しいけど、あれに害はないよ」と言った。それから念のため、またシャープペンシルを走らせた。
“俺たちは地図を見てる。疑われるようなことを口にするな”
「いいか、それでハッキングが失敗した以上、俺たちにはもう手がない」
カモフラージュのために広池は言い、続けて書いた。
“だから、あっちは俺が河内に説明するのを聞いて、俺のマックを回線から切り離したんだ。俺が甘かった。向こうは、俺たちのように反抗してくる選手を想定してたはずだ。だったら、てっとりばやい予防策は盗聴だ。当然だ”
河内が同じく机の上にある筆立てからボールペンを取り出すと、地図の端にくるくるっと試し書きをして、それから広池の文字のすぐ下に書いた。広池の字よりいくらかくせのある字だった。
“盗聴器ってどうやって?家の中全部につけたんですか?”
「だから、とにかく誰かを探そうと思う。俺たち二人じゃ何も出来ない。それで―――」
広池は言いながら、自分の首に付けられた首輪を指先で軽く叩いた。河内が目を丸くして頷いた。
“今、河内の首輪を調べた。カメラまではない。盗聴器だけだ。それとこの家にも監視カメラみたいなのはないみたいだ”
河内は首輪に手を当て、それからはっと気付いたように顔をこわばらせた。ボールペンをぎゅっと握ると、地図の裏に向かった。
“パソコンのやつ、俺に話したから失敗したんですね。俺がいなかったら成功してたんですね”
広池はその河内の肩を、シャープペンシルを握った左の人差し指でちょっとつつき、笑んでみせた。それからまたその左手を地図に向けた。
“そうかもしれないけど、気にするな。俺の不注意だったんだから。達川さんたちが気付いた時点でもしかしたら首輪を吹っ飛ばされてたかもしれない。なんでか分からないけど、俺たち、まだ生きてる”
河内がそれでまたも首輪の巻かれた首筋に手を上げ、ぎょっとした表情をみせた。しばらく広池の顔を見つめ、それからぎゅっと唇を結ぶと、頷いた。広池も頷き返した。
「大体みんなどこかに隠れていそうなんだが―――」
“いいか、今から俺のプランをここに書く。俺は適当なことをしゃべるから、合わせて話してくれ”
河内が頷いた。それから慌てて、「うーん、だけど誰が信用できて誰が殺し合いに参加してるかってのはわからないんじゃない」と言った。
うまいぜ、と思って広池はにやっと笑った。河内が笑みを返した。
「そうだな―――小山田とかは大丈夫そうじゃないか?名前を呼ばれてないのは投手の方が多いから、もしかしたら固まって逃げているのかも」
“一つ言っておくけど、ハッキングが成功してたらみんなを助けることができたかもしれない。でも今は自分たちが逃げることを考えるしかない。それはいいか?”
河内がちょっと考えた様子で、それから、書いた。
“みんなを探さないんですか?”
“そうだ。辛いけど、俺たちにはもうほかの選手にかまっている余裕はない”
河内は唇を噛んだが、結局、頷いた。それを見て広池は頷き返した。
“ただ、俺の考えてることがうまくいったら、このゲームは一時ストップする。そしたら、ほかのみんなもこのゲームから逃げられるかもしれない”
河内が小さく二度、頷いた。
「みんな俺たちみたいに家の中に隠れてるんですかねえ。銃声は山の方向からするから、そっちにいるのかな」
「そうだな―――」
広池は次に書くことを考えていたが、先に河内が書いた。
“考えていることって?”
広池は頷き、シャープペンシルを握りなおした。
“実は朝の失敗から今まで、ずっと待ってるものがある”
河内が、今度はペンを使わず首を傾けてみせた。
“このゲームの中止のアナウンス。今も待ってるんだけど”
河内がちょっと驚いた様子で、また首をひねった。広池はちょっと笑ってみせた。
“河内にいろいろ話す前、あいつらのコンピュータに入ったとき、最初にそこの全ファイルのバックアップを探したんだ。それとファイル検査ソフト。すぐに見つかった。それで、データを落とすより前に、その二つに保険としてウイルスをしかけたんだ”
河内が“ういする?”と声を出さずに口を動かした。あっ、河内、自分だけ手を動かすのをさぼってるな?
そう思ったが、広池は手を動かした。“つまり、向こうが何かトラブルが起きたと判断して、ファイルを検索するか、バックアップからファイルを回復したときに、ウイルスがあのコンピュータシステムに入るようにだ。そしたら、もうめちゃくちゃなことになって、ゲームの続行は不可能になる”
河内が感心したように何度も小さく頷いた。それで広池は、こんなことは時間の無駄だと思ったのだが、つい書きたくなって書いた。
“俺が知り合いから教わって作ったとんでもないウイルスだ。あまりのすごさに東出の身長が河内並になるかもしれないな”
河内が半ば笑い声をこらえるように、ほがらかな笑みをみせた。
“動き出したら全データぶっ壊して『オマリーの六甲颪』だけを永遠に演奏する。最初は笑えても、そのうち気が狂うぞ”
河内がますます、笑いをこらえるようにおなかを抱え、口元を押さえた。広池もちょっと、爆笑の発作を抑えるのに苦労した。
“とにかく”書いた。“さっきの俺のハッキングがばれて、向こうがそのファイル回復をやらないかと思ったんだ。そしたらゲームはもう、しばらく中止するしかない。だけど、そうはなってない。つまり、向こうは小手先だけのチェックですませたんだろう。実際俺は本体のファイルは全然いじってないわけだし”
「とりあえずシラミつぶしに探してみるか」
「けど、危ないんじゃないですか?実際さっきだって銃声がしたし」
「まあね。でも、こっちだって銃は持ってるから―――」
“それで、だ。俺の作戦っていうのは、そのファイル回復を向こうにやらせることだ。そしたらウイルスが作動する”
広池はパワーブックを引き寄せ、先刻眺めていた文章を河内に見せた。それは“五十五行”のテキストファイルだった。データのダウンロードは中断されたが、それまでにコピーを終えていたもののうち、広池が一番重要だと考えたファイルだ。横書きのプレーンテキスト、各行の一番左は「C00」から「C68」までの連続ナンバー、次が十桁のあたかも電話番号のように見える番号で、これも通しナンバーになっている。最後に、これがランダムに見える、実に十六桁の番号。各行とも、それら三つの文字列を半角のカンマが区切っていた。ファイル自体の名前は受けを狙ってるとしか思えない、“anoneanone-miyajimaCarp”というもの。
“何ですか、これ?”河内が書いた。
広池は頷いた。“俺はこれが多分、この首輪を管理するための番号だと思うんだ”
河内が、ああ、というように大きく頷いた。そう、即ち「C00」は背番号00の嶋さんで、最後の「C68」は広池さんのことだ。
“思うんだけど、要するに携帯電話と同じシステムなんだと思う。それぞれの首輪の番号があって、同時に暗証番号がある。たぶん爆破するときにも、この番号で行う。つまり”
広池は手を止めて、河内の顔を見た。続けた。
“データがウイルスにやられたら、とりわけこれがやられたら、俺たちはもう首輪を吹っ飛ばされる心配をしなくて済む。ウイルスはどんどん感染するから、フロッピーなんかで予備のファイルがあっても無駄だ。手書きで書き留められてたらちょっとつらいけど、それでもシステム自体が壊れるから、時間稼ぎにはなる”
「目星付けたとこに石つぶての雨でも降らせて、誰か逃げ出してくるか確かめるってのはどうですか?」
「うーん、ただでさえ俺たちノーコンだからなあ。こっちも危ないけど、石をぶつけられた方も怪我しそうだ」
「そんなあ、ノーコンは広池さんだけですよ」
「よくそんな憎まれ口が叩けるもんだ」
“どうやってそれをやらせるんですか?”
広池は頷き、そしてまた字を書いた。
“神社を出るとき、神殿の奥のほうを見たか?”
河内が頷いた。
“あそこにコンピュータがあったけど、覚えてるか?”
河内はまた目を丸くして首を振った。“そこまでは見てません”と書いた。
広池は軽く笑った。“俺は出て行くのが最後だったからよく見ておいた。デスクトップタイプがずらっと並んでたし、大型のサーバも一つ置いてあった。ここまでどうやって運んで設置したのかはわからないけど。そして首脳陣のほかに見知らぬ人間も数人いた。ユニフォームは着てたけど、間違いなく球団関係の人間ではないよ。ということは、あと考えられるのはあのコンピュータを操作する技術者ぐらいしか考えられない。つまり、このゲームを動かしてるコンピュータは間違いなくあそこにある。だからハッキングができなくなった今は、コンピュータのある神社ごと攻撃してそれ自体ぶっ壊したいと思ってる”。
そこまで書いて広池は一旦書くのをやめ、奇術師のような気障な仕草で手を広げた。地図の裏に戻った。
“神社に爆弾をぶち込む。それから海上へ逃走する”
河内が、今度こそ目を見開いた。“ばくだん?”と口を動かした。広池はにやっと笑った。
「けど、先に河内は武器になるものを探したほうがいいかもしれない。そんなフォークだけじゃ何かあった時どうにもならないからね」
「そうですね―――」
“俺が今ほしいのはガソリン。軽油でもいい。そして肥料。軽トラがあれば言うことない”
河内が肥料?軽トラ?という感じで眉を寄せた。広池は頷いた。
“肥料の中に硝酸アンモニウムって成分が入ってる。それとガソリンを使えば、爆弾が出来るんだ”
広池はポケットから先ほどの鎖を取り出し、それにくっついている円筒を親指と人差し指で挟むように持つと河内に示した。
“この中に雷管が―――起爆装置が入ってる。なんで俺がそんなもん持ってるのかは、暇があったら説明するが、とにかくある”
河内はちょっと考えた様子だったが、しばらくして書いた。
“ドミニカ?”
広池は苦笑して頷いた。さっきの電話の話で河内はピンときたに違いない。さらに河内が書いた。
“けど、どうやって神社にぶつけるんですか?入り口には見張りがいるらしいじゃないですか”
“だから軽トラだ”
河内が、あ、というように口を開いた。
“あの一体を禁止エリアにしてないのはなぜか知らないが、あそこに入れるうちに神社へ軽トラを突っ込ませる。荷台に爆弾を満載させてね。もちろん、ギリギリのところまで俺は運転しなくちゃならない。入り口のところまできたら海に飛び込めるよう、満潮に合わせてやらなきゃいけないと思う。神社自体は木造、さらに最近晴天続きだ。ほんの入り口で爆発させても水気がないから勢いよく燃えるはずだ。たとえ入り口に見張りがいようとも、猛スピードに突っ込んでくる自動車に抵抗する人間なんていやしないさ”
河内がまたしても感心したように何度も頷いていた。
「日が沈む前に動いた方が探しやすいと思う」
「うん―――そうですね。特定の誰かを探すよりかは簡単そうだし」
“作業のためにもその方がいい。それでだ、俺が目を付けたのはここだ”
と書くと、広池は即座に地図を表に返しあるマークをシャープペンシルでさした。それを見て河内は“がっこう?”と口を動かした。また地図を裏返して、広池はシャープペンシルを走らせる。
“そこなら肥料は確実にある。用務員の使う軽トラがある可能性もある。すぐ近くにガソリンスタンドがある。問題は距離だ”
広池はちょっと考えて、再び書いた。
“地図だけで判断しても、ここからじゃ結構距離がある。移動する間に他に会ってしまった時に攻撃されるかもしれない。行き先の学校だっていい隠れ家になるから、誰かがいるかもしれない。計画以上の危険がともなうと思うけど、ついてくるか?もし怖かったらここにいてもいい”
すぐに河内が首を横に振った。
“ここまできたんなら何でも手伝わないと。広池さんだけにいい思いはさせませんよ”
書き終わって河内はにっと笑った。それを見て広池も笑みを返した。
「よし、じゃあ今から準備だ」と言いながら左手を走らせる。
“あまりいい計画じゃないかもしれない。脱出できる可能性は100%じゃない。それでも、他に思いつかない”
肩をすくめて、河内の顔を見た。河内がまたにこっと笑って書いた。
“やるしかないよ”
【残り24人】
「前田さん、これ」
そう言って森笠が差し出した右手には一錠ずつ梱包された鎮痛剤―――
「あほ、持っとけと言うたろうが」
「けど、前田さんの薬だし、僕の方はもう大丈夫ですから」
「わしの薬が飲めんと言うんか?」
「そういうわけでは…」
しどろもどろになる森笠を見て、前田が苦笑する。
「冗談ぐらいすぐ気付け。これから何があるかわからんじゃろう?俺とお前らが離れて行動することになるかもしれん。全ての事態を考えろ。だから、それはお前が持っとけ」
言いくるめられるように森笠は前田に返そうとした鎮痛剤をポケットにねじ込んだ。長谷川と鶴田の銃撃戦以来、三人はその数十メートル先、大きな岩がそこかしこにある藪の中に身を潜めていた。ついさっきもこの山の中で一発の銃声が響いたばかりだった。威嚇射撃なのか、一発で誰かを殺したのか―――どちらにしても安易に発砲する人間が近くにいる限り、迂闊には歩き回れなかった。
「前田さん」
今度は新井が口を開いた。長谷川の一件で罪悪感を感じていたのか、この場所に身を潜めてから新井はほとんど無言のままだった。面倒そうに前田が新井の方を向いた。
「さっきからずっと考えてたんですけど、結局カープを潰すために僕らこんなことさせられてる、ってことでいいんですよね?」
なんだ、またその話か―――と前田の表情は呟いていたのだが、あえて言葉にはせず一つ唾を吐いて答えた。
「やっと理解したか。お前、そんな鈍い思考力だけでよう会計なんかやっとったのう」
「でも最低でも一人は生き残るんですよね?その生き残った人ってどうなるんですか?」
「そんなもん、わしが知るか」
それもそうだ、前田さんだってこんなゲームに参加するのは初めてなんだろうし―――と思い直して、新井はつくづく自分の間抜けさを反省した。
「―――ただ」
予想外に前田が言葉を続ける。
「殺されはしない。それなりの待遇は受けられるはずだ。何しろ、前例がある」
一瞬、新井も森笠も“ゼンレイ”という言葉を頭の中で漢字変換できずにいたが、それでも何とかその言葉の意味を飲み込めたようだ。二人とも疑いの目で前田を見つめる。
「わしも村上のおやじさんに聞いたことがあるだけだ。しかも向こうは酔うとったけえ、その時は『何言うとんじゃ、このおっさんは』と思って聞き逃しとったんだが」
村上のおやじさん―――九州地区担当スカウト、村上スカウトのことだ。新井や森笠は直接世話にはなっていなかったが、あの前田が頭の上がらない人間の一人だった。
「まだ樽募金とか―――そういう頃に一度こういうゲームをやったらしい。あの頃は戦力もろくなもんじゃなかったし、戦後のどさくさもあって適当な理由で選手の存在自体もみ消すことは可能だったらしいが、今のように全ての選手に簡単に連絡のとれるような時代じゃない。とりあえず集められた選手だけで殺りおうたんだが、不参加者の方が多いという事態になってしもうたらしい。それが命取りになって球団は存続。ゲームで生き残ったのも当時の重要な戦力じゃったけえ、おかげでカープが今まで存在しとるということになるらしいが」
「それじゃあ、もしかしてその時の生き残りってのは…」
「まだ広島で元気にやっとるな。それは―――」
と言いかけて前田は言葉を止めた。息を飲み前田を見つめる新井と森笠の異常な様子に、それ以上語るのがためらわれたのだ。前田はもう一度唾を吐き、ささやかな笑みを作ってみせた。
「やめとこう。もしお前らが広島に戻ったときに、何かやりかねんからな」
「そんな―――」
「それと」
森笠の言葉を前田がさえぎる。
「こういう話はここを出るまでやめだ。昔話や思い込みを語ったところで、どうにもならんことぐらい分かっとろう?これからどうするかを考えなければ、俺もお前らもこの島でお陀仏だ」
確かにそうだった。特に新井は考えるより先に行動に出てしまう。木村拓也(背番号0)の時はそれで最期を見とれたわけだが、先刻の銃撃戦などは自分たちが巻き込まれていてもおかしくはなかった。とっさの行動というのは、何が起こるかわからない分リスクも大きいのだ。
「でも、前田さんは何か行動を起こすつもりなんてないんでしょう?」
「そろそろ分かってきたな。むざむざ出て行って変なことに巻き込まれたくはな―――」
突然前田が言葉を切った。二、三あたりを伺うと、新井と森笠に頭を下げるようジェスチャーし、そして声にならない小声で言った。
「しばらくこのままだ。近くに誰かいる」 【残り24人】
「しばらくそのままだ。近くに誰かいる」
新井も森笠も突然の言葉に慌てはしたが、言われた通りにした。体がぎりっと緊張した。前田はもう自分のショットガンを手にして人の気配がするという方向を凝視している。ようやく二人の耳にもかさっという草を踏む音が届いた。その足音は正確に三人のいる方向へと近付いてきている。前田は忌々しく唾を吐いた。
「乱射でもされたらどうにもならんな」
音はゆっくりではあるが三人へとゆっくり歩み寄ってくる。新井は両手にじっとりと嫌な汗をかいているのに気がついたが、それを拭く余裕さえなかった。前田が言ったように、ここで俺たちは終わりなのか―――。
「佐々岡だ」
足音の方向から聞きなれた声がした。さらに続いた。
「戦う気はない。返事をしてくれ。三人とも、一体、誰なんだ?」
それは、まぎれもなくあの佐々岡真司(背番号18)の声だった。新井にとっては「戦う気はない」という言葉は願ってもないものだった。それは新井たちも同じだったからだ。さらには、そのような選手に会えるとは思ってもいなかった。森笠と顔を見合わせた。森笠も安堵した表情を見せていた。それですぐに腰を上げようとした新井を、前田が制した。
「どうしたんですか?」
「静かにしろ」
新井はその前田の真剣な表情を覗き込み、大げさに肩をすくめて笑んだ。
「大丈夫ですって。佐々岡さんですよ?信用できるじゃないですか」
しかし、前田は首を振って、言った。
「なんでササさんは、俺たちが三人だとわかったんだ?」
それで、新井も森笠も初めてそのことに気付いた。前田の顔を見ながら、考えた。―――わからなかった。
わからなかったが、しかし、今佐々岡がすぐ近くにいるという事実の前では、そんなことはどうでもいいような気がした。とにかく、早く佐々岡の顔が見たかった。
「さっきここに俺たちが隠れるのを見てたんじゃないですか?それで、誰かまではわからなかったんじゃ…」
「さっきっていつだ?なんで今頃ここに来るんだ?」
新井はまたちょっと考えた。
「誰か確かめるのを決心するのに時間がかかったんじゃないですか、きっと―――とにかく、佐々岡さんなら信用できますって、心配ないですよ」
なお何か言いたげな前田を無視し(きっと森笠は横でヒヤヒヤしていたに違いない)、新井は藪と岩の中から立ち上がった。
「新井か」
新井の姿を確認した佐々岡が、安堵した声を漏らす。
「他には誰がいるんだ?」
「それは―――」
と言いかけると同時に前田も立ち上がった。
「ササさん、信用してないわけじゃないんですが、ボディチェックさせて下さい。とりあえず頼みます」
「前田さ―――」
新井は非難する口調で言いかけたが、すぐに、佐々岡の「わかった」という声がした。佐々岡が地面にデイパックを置き手を上げるのを見て、前田が軽く全身をチェックする。佐々岡のユニフォームは、その右半分にところどころ血がついている。しかし、佐々岡自身が怪我をしているというわけではなさそうだ。
「ポケットの中身、いいですか?」
前田がやや不思議そうに尋ねた。佐々岡は軽く両手を挙げたまま、「いいけど、取り上げないでくれよ」と言った。
前田がそれを引っ張り出した。分厚い手帳みたいなサイズを形の代物だったが、材質はプラスチックかスチールのようだった。片面を覆う滑らかなパネルが、そろそろ傾きかけようとする日の光を反射していた。前田はそれをしばらくひねくった後、「これか」と言った。持ったままちょっと体を動かし、パネル部分をもう一度見つめた。頷いて、「ありがとうございます」とだけ言うと佐々岡へそれを返した。
「それで三人と分かったんですか」
「―――ああ、もしかしてそれが引っかかってたのか」
「ちょっと―――とりあえず隠れましょうや」
それは佐々岡に向けられた言葉だったのだが、同時に新井にも座るよう顎で指示を出した。ともかく、前田の警戒心が多少なりとも解けたことで、新井も安心し座りなおした。しかし佐々岡はその場で新井と、そして藪の中で座りっぱなしだった森笠を視界に認めると、軽く笑みを浮かべて前田の方を向いた。前田が不思議そうに見つめ返すのを見て、佐々岡が「いや―――」と言った。
「いささか奇抜な組み合わせだと、思っただけだよ」
前田がそれに応えてにやっと笑った。
「ガキのお守り(おもり)ですよ、お守り」
「そういう役回りが得意だとは思わんかったがのう。こいつのお守り役はカネやろ」
「見つかれば押し付けますよ」
なんと酷い言い様!新井はちょっとむっとせずにはいられなかったが、先輩選手にからかわれるのが日課といってもいい存在となってしまった新井にとっては仕方のないことだ。森笠は新井の横で前田と佐々岡の会話を聞き、にやついている。
「お守りなら最後までちゃんと守ってやれよ。俺はちょっと用がある」
「用?」
前田は眉をひそめた。「こんなゲームで何の用事が―――」
佐々岡はそれには答えず、逆に前田に「ずっと三人一緒だったんか?」と訊いた。前田はどう説明するか、ちょっと考えたような表情だったが、うまい言葉が見当たらなかったのか、新井と森笠に「説明頼む」と言った。新井と森笠は顔を見合わせたが、あっさりどちらが説明するかは決まったようだ。口を開いたのは新井だった。
「最初から一緒だったのは俺と森笠です。それで―――」
それで、昨日のことを思い出した。廣瀬純(背番号26)の割れた頭が久々に鮮やかに脳裏に蘇って、あらためてぞっとした。
「―――とにかくいろいろあって、前田さんと合流したんです」
「よくわからん説明だったけど、何となく大変だったというのはわかった」
佐々岡が苦笑交じりに答え、それから、言った。
「前田、西山を見なかったか?」
「ニシさん?」
前田は聞き返した。なぜここで西山秀二(背番号32)なのかと、三人とも思ったに違いない。
「いや、見てないです」
「そっか」
西山がこの島にいるのは間違いない。定時放送でまだ名前が読み上げられていない以上、生きているはずだ。そう―――正午以降これまでに死んでいなければ。
「ならいい。ありがとうな。俺、行くわ」
言うと、佐々岡は三人に背中を向けかけた。
【残り24人】
「待ってください!」
叫んだのは森笠だった。
「どこ行くんですか?佐々岡さん、武器とか持ってるんですか?このままだと危険すぎますよ」
佐々岡はちょっと、下唇を口の中へ巻き込んだ。それから、ポケットからさっきの携帯情報端末みたいなものを取り出し、三人へ示した。
「俺のデイパックに入ってた“武器”がこれだ。前田はわかったようだけどな、こいつで」
装置を持った手で、佐々岡は自分の首を指した。新井にも森笠にも前田にも、同じようにくっつけられている銀の首輪が光っていた。
「これを着けてる選手の位置がわかるらしい。ごく近いところまで行けばだが―――スクリーンに表示が出る。それが誰か、まではわからんが」
それで、新井はようやくさっきの疑問の答えに思い当たった。佐々岡が藪の中にいた自分たちを「三人」と言い当てたのは、その装置のおかげだったのだ。それは、あの神社の中で自分たちの生存を確認しているコンピュータと同じように、首輪を着けているものの位置を突き止めることができる、というわけだ。佐々岡が言ったように、それが誰かまではわからないにしても。
佐々岡は装置をポケットに納めた。「じゃあ―――」と言って踵を返しかけたが、「そうだ」とそれを止めた。
「東出に気をつけろ」
それはあまりにも唐突な告白だった。
「あいつはやる気になっとる。ほかは知らんが、それだけは確実だ」
「出くわしたんですか、東出に?」
前田の質問に佐々岡は首を振った。
「いや、そうじゃないが、黒田が―――あいつがそう言った、死ぬ前に。黒田は東出にやられた」
信じられない言葉が続く中、新井は、黒田博樹(背番号15)がもう死んでいたのだということを思い出した。正午の放送でそれを聞いて、そしてついさっき、あの銃撃戦で死んだ長谷川の死体を見ていて、彼らに首脳陣と一緒になって期待をかけていた佐々岡のことが気になってはいたのだけれど、今、佐々岡に会えたうれしさで、そんなことはすっかり忘れていたのだ。
森笠が「一緒だったんですか?」と静かに訊いた。佐々岡がまた首を振った。
「最期だけだった。俺は出発してからしばらく隠れたままだったんだが、昨日呼びかけがあったな―――建とヨコ(横山)の。あれ聞いて探そうと思ったんだ、西山を。このまま会えずにいたら、今までやってきたことが何にもならんしな。だが、見つからん。昨日の夜に兵動の死体を見て、そして今日は黒田だ。けど、遅すぎた」
そこまで言って、佐々岡は視線を落とした。みなまで言わなくても、佐々岡が黒田に出会った時には、黒田は東出輝裕(背番号2)にやられて、死にかけていたのだということがわかった。
「本当に―――本当に黒田さんは“東出”と言ったんですか?」
新井はもう一度だけ確認した。確認したかったのだ。確かに東出は口は悪い。どことなく小悪魔的な印象がある。だが、自らすすんで人を殺す程、道理に外れているような人間では決してなかったはずだ。何より同期入団でサードとショート(東出は元々セカンドだったのだけど)、お互い切磋琢磨してきた新井は東出を―――チビをチーム内で一番理解していると思っていたのだ。しかし。
「自分が死にかけてる時に、そんな嘘をつくと思うんか?」
そう聞き返されて、新井には返す言葉がなかった。信じたくはないが、信じるしかないのだろうか。
「なんなら―――」話題を変えたのは、森笠だった。
「俺たちも一緒に探しましょうよ、西山さんを」
佐々岡はしかし、あっさり首を振った。
「こんな自分勝手な行動にお前らをつき合わせるのはやめとくよ」
「けど、せっかく会ったのに、もう会えないかもしれないじゃないですか」
森笠の言う通りだった。一度別れてしまったら、また合流するのは容易ではない。
「じゃあ、これは―――」
前田は何かに気づいた様子で自分のユニフォームのポケットをまさぐると、右手で何か小さなものをつかみ出した。一辺の金具みたいなものを歯で咥えると、本体部分をひねった。
ちい、ち、ち、ちゅく、ちゅく、と鳥の鳴き声がした。随分鮮やかで大きな、そして楽しげなさえずりだった。
前田は口から手を離し、新井はそれが、前田の手にしているもの―――新井の知識量では“バードコール”なんて単語が思い浮かぶはずもなかったが―――から出た擬似のものだと了解した。
「ニシさんに会えても会えなくても」前田が言った。
「俺たちが必要だったらこれを吹いて下さい。そう―――十五分毎に、きっかり十五秒ずつ。もしその時も三人無事でいたら、それを頼りにササさんのところへ向かいますんで」
そう言って、前田は佐々岡にバードコールを渡した。佐々岡はそれを二、三度いろんな角度から見た後、頷いた。
「わかった。そうするよ」
「それと、もうちょっと時間をとっていいですか?」
その申し出には若干怪訝そうな表情をしてみせた佐々岡だったが、それを即座に読み取った前田が続けた。
「地図にお互い誰か出くわした場所をチェックしといた方がええと思って。ほんの少しでも危険は減らしておいた方が」
「―――わかった。よく気がつくな」
「まあ、いろいろと」
それでこの出会いで初めて、佐々岡がこの場に腰を下ろすことになった。前田と佐々岡がお互い地図を取り出し、それを交換すると、書き込みを始めた。書き込みながら「黒田は、東出がマシンガンを持っていたと言ってましたか?」と前田が訊ねた。
「いや」佐々岡も顔を上げずにこたえた。「それは聞かなかった。ただ、背中に何発かくらってはいたけどな。一発じゃない」
「―――わかりました」
二人が作業を進める横から、新井は、廣瀬純(背番号26)と瀬戸輝信(背番号28)のことを説明した。佐々岡が鉛筆を走らせながら、頷いた。
前田が書き込みを終え、佐々岡に地図を示した。
「すぐ先の川で、長谷川がやられた。鶴田が逃げるのを、新井が見てる」
「ツルが?冗談だろう?」
今度は佐々岡が驚く番だった。
「こんなことで嘘はつけません」
「そうか―――」
「正当防衛だった可能性もあります。鶴田さんも左腕を撃たれてたみたいでした。けど、とりあえず鶴田さんには気をつけてください」
半ば信じられない様子ではあったが、佐々岡はとりあえずという感じで頷くと、書き込みの終わった地図を前田に手渡した。前田の書き込みが入った地図をデイパックにしまうと「じゃあ」と言って立ち上がった。
「待ってください」
新井は、ベルトからスミスアンドウエスンを抜き出した。長谷川と鶴田の銃撃戦をやめさせようとして使用したもので、元は森笠の武器だったものだ。
「これ、使ってください。俺たち、まだ他に武器はありますから」
前田の支給された武器であるショットガン、木村拓也(背番号0)の形見となったトカレフTT-30、さらには瀬戸と長谷川の死体から前田が持ち出した拳銃。これだけあれば十分だと新井は思ったのだ。しかし、佐々岡は首を横に振った。
「いいよ、俺には必要ない。やるって言っても、いらん」
それから三人の顔を見渡し、軽く笑みを浮かべて前田に言った。
「こいつらのこと、頼むからな。“期待の若手”がいなくなった時の失望感ってのは、お前が一番よく知っとうじゃろう?」
前田は、何も言わなかった。佐々岡は表情を戻すと、長谷川と倉の眠る川の方へと歩き出した。しばらくの間、三人とも無言でその背中の“18”を見送っていた。
【残り24人】
「…山さん、朝山さん」
ふいに自分を呼ぶ声に気付いて、朝山東洋(背番号38)は振り返った。その後ですぐ、あ、見つかったらマズいのに、と思ったのだが、なぜか振り返った。広いグラウンド、横を守る右翼手から声をかけられたときのように。しかし、そこには無表情の栗原健太(背番号50)がいた。
「よかった、朝山さんいたんだ」
「お前―――」
俺の姿を見て逃げ出したじゃないか、という言葉は出てこなかった。栗原の笑みに飲まれて言葉が出ないのである。たしかに栗原の顔は―――どちらかというと印象に残らない朝山のそれを比べなくとも、彫りの深い顔立ちで、他を圧倒する印象はあるのだが。それを別としても、栗原の雰囲気はいつもとどこか違った。どこが―――と冷静に見て、やっと気付いたのだ。栗原は、泣いていた。
「朝山さん、あっちへ」
「―――え?」
「上へ」
さっきまで拳銃を握ったまま下ろされていたはずの栗原の右手が、朝山を指差した。正確には、その方向へ逃げるように指示されていたのだろう。ただ指差したまま、栗原は涙を流しているのである。が、次の瞬間、朝山は再びぎょっとすることになる。目から流れている無色透明の涙が、みるみるうちに赤く染まっていったのだ。
「栗原!栗原!」
朝山は栗原に近寄ろうとしたが、足が動かなかった。というよりも、動けなかったのだ。朝山の両足が、しっかりと何者かに掴まれているその十本の指の感覚が、動かそうとした足にしっかりと伝わってきたから。
下を向いた。たしかに自分の両足は掴まれていた。掴んでいたのは手袋をした手。手袋には「9」の数字―――。
思わず朝山は「ひいっ」と声をあげた。その見覚えのある手袋は、間違いなく緒方孝市(背番号9)が試合中に使用していた、まさにそれだったのだ。
悲鳴とともに朝山の下の地面は盛り上がり、手袋から腕、肩、そして不気味な笑みを浮かべる緒方がボコボコと浮上してくる。
「逃がさないよ、お前は俺に何をした?」
その一言で、あの一連の出来事がフラッシュバックされる。もっとも、二人で揉み合って遊歩道を転がり落ち、次に意識が戻ってきた時には緒方の姿はなかったわけだが、あれはもう緒方は死んでいて、誰かが遺体を処理したということなのか?でも名前が呼ばれない限りは生きているはずだ。
腰にまとわりつく土まみれの腕のひんやりとした感触が朝山を再び恐怖の淵へと引き戻す。両足を握っていたはずの腕が、いつの間にか腰へ、二の腕へ、肩へ、徐々に上がってきている。朝山は必死に振りほどこうとするが、か弱い女ならいざ知らず、相手は一流の野球選手。その強靭な腕を取り払うのは、まずもって無理であった。
「お前は、俺を、殺そうとした―――」
その瞬間、緒方の全体重が朝山の肩に乗せられた両腕にかけられた。朝山の足が地面に飲まれる。無駄だと分かっていても、朝山は緒方の両腕を掴みそれを引き離そうと必死にもがく。そうしているうちにも、地面は朝山をどんどん飲み込んでいく。
「いやだ、死にたくない!!」
自分の声に朝山ははっとした。いつの間にか今日最後の陽の光が、自分の体を包み込んでいた。ゲーム開始以来一睡もしていなかったのがまずかったのだろうか、気がつかないうちに寝ていたらしい。両手の手のひらにはベットリと脂汗をかいていた。夢にしては、あまりにリアルだった。しかし自分が死ぬ瞬間というのは、あれぐらいの恐怖感を感じるということだろう。それにしても―――。
栗原。なぜか自分の夢に出てきたその選手が妙に心に引っかかった。なぜ彼は泣いていたのだろうか。そして。
朝山は後ろを振り返る。栗原は「上へ」といった。朝山が身を潜める岩陰の数メートル先には小川がある。もしかして上流へ行けということか?それが何をもたらすのか?栗原は俺に何を伝えたかったのか?
朝山には、これがただの夢の一つにすぎないとは思えなかった。理由は朝山自身にもわからなかったが―――この先長くないのなら、夢にかけてもいいと思った。それが何かをもたらしてくれるなら。栗原が何かをもたらしてくれたのだったら。それが自分の終焉をもたらすことになってしまうのなら―――その時はまた策を考えるしかないが、こんなところに隠れとおすよりはましだ。
日没とともに朝山は移動を開始した。何も持たない、身一つの移動だった。
【残り24人】
空が澄んだ青から徐々に朱みを帯びてきた。佐々岡真司(背番号18)の消えた先も少しずつ見えにくくなってきている。藪の向こうに見える闇は間もなく空全体を覆う。ゲームが始まってもうすぐ丸二日がたつ。
新井貴浩(背番号25)は時計を見た。そろそろ午後五時になろうとしていた。陽のあるうちは気にならなかったが(とはいうものの、ほぼ物陰に隠れていたから直接陽の光を浴びた時間などほんのわずかではあるのだが)、今は真冬の十二月だ。ユニフォームと毛布でしのいでいたはずの寒さが、疲労に蝕まれつつある体に徐々にこたえてきていた。
「寒いな」
森笠繁(背番号41)が新井に呟いた。森笠は木村拓也(背番号0)の死体にユニフォームを預けてきていたため、アンダーシャツに私服を羽織っている。ただし、呼び出しを受けた時点でユニフォーム持参と言われていたせいか、それ程私服には気を回していなかったらしい。とてもではないが防寒できてそうな服ではなかった。
「―――寒いな」
森笠の呟きに、新井ではなく前田智徳(背番号1)が口を開いた。視線を上げて新井と森笠を見やるその顔には困ったような笑みが浮かんでいた。皆考えていることは同じだったのだろう。
「どこか、山を降りて家とかに隠れる場所を変えませんか?」
「家か―――」
前田は新井から視線を外し、目を細めた。
「基本的にはあまりよくはないんだがな。だんだんエリアが狭まってきてるが、商店街周辺の住宅街は一向に禁止エリアに指定される様子がない。向こうも多少なりとも考えとるようじゃけえ、それにひっかかるのはやめておきたいと今でも思っとる。それに、そういう罠を敷かなくてもみんな同じことを思うはずだ。そろそろメシや、暖かい寝床が恋しくなっとるはずだ」
「でも」森笠が言った。
「山にいても隠れ通す事は無理だと思うんです。実際、佐々岡さんに会った」
前田は軽く頷くと、黙って平地の方を見渡した。佐々岡が地図に残してくれた書き込みの事を考え合わせているのかもしれなかった。
佐々岡は、地図に自分が見た死体のほか、どんな死に方だったかも詳しく書き込んでくれていた。黒田博樹(背番号15)が死んでいたすぐ近くで福地寿樹(背番号44)と澤崎俊和(背番号14)の死体。澤崎はいたってシンプルに(というと言葉が悪いが)銃殺されていたらしいが、福地は目を潰されていたうえ(!)喉を何かで突かれていた。商店街のやや外れに位置する店舗兼住宅の一角では、兵動秀治(背番号4)。これは喉を刃物で切られていたらしく、血の海だったようだ。山裾にあるロープウェー乗り場近くの公園で高橋建(背番号22)と横山竜士(背番号23)。両者とも頭部にそれぞれ一発、さらには全身に何発もの銃弾を浴びていたということだった。
「前田さん」
新井が声をかけると、前田が視線を戻した。
「建さんとヨコを殺ったのは、チビだと思いますか?」
新井はそうして質問しながらも、またまたどこか、非現実的な感じがしてならなかった。佐々岡の言ったことだから信用しないわけではないが、一方、同期の八人はなぜかとても仲が良く(実際森笠ともこうして行動をともにしている)、その中の一人である東出輝裕(背番号2)がこのゲームに乗るなんて絶対ない、という一種思い込みに近いような妙な信念もある。
「いや」
前田は新井と森笠、両者に視線をやり、再び質問者である新井に視線を戻した。
「わしはそうは思わん。建さんと横山が死んだ時、マシンガンの音の後で二発、単発で銃声がしたじゃろ。ササさんの記述と一致するな。マシンガンの銃弾が二人の全身を襲ったそれで、単発の銃声が頭部を狙った銃声だ。この単発の銃声が二人にとどめを刺した音だったんだろう。しかし、黒田は撃たれた後、ササさんに会うまで生きとったと言うた。こっちはちょっと、緻密さに欠けるな。―――まあ、どうせすぐに死ぬだろうと思って放っといただけかもしれんがな」
東出が、死ぬ間際の黒田さんを、放っておく―――しかも、東出自身が手を下して。ますます信じられなかった。
「ともかく」
前田は唇を笑みの形に曲げて、言った。
「東出にはいずれ会うことになるはずだ。恐らくな。その時に真実は分かる」
間をおかずに、今度は森笠が口を開いた。
「佐々岡さんのあの機械で考えたんですけど、俺たちが一緒に行動してるってことは達川さんたちに分かってるんですか?それと、俺たちの位置とか」
「たぶんな」
前田が即答する。
「それは、俺たちには何の支障もないんですか?一緒にいると殺し合わないから何かする、とか」
「それはない。出発前に言ったな、『二十四時間で死人が出なかったらゲーム終了』と。だからもし三人生き残ったら、一人が裏切って生き延びるか、皆で死ぬか。それか―――」
何か思い当たったのか前田が急に言葉を切って、視線を遠くに預けた。然程時間をおかずに、再び話を続ける。
「―――いや、それだけだな。ただ、こんな問題は、直面した時に考えればいい。それより、本当に移動する気なら多少お互いの姿が確認できるうちに移動した方がいい。わしは気が進まんが、これからの事を考えたら反対はしない。休める分、体力を回復させて先輩を守ってもらわんとのう」
とりあえず、前田は自身でこれからの行動についての決断はしないようだ。新井と森笠はちらと目配せをしたが、出てくる答えは一つしかない。新井が立ち上がる。
「行きましょう」
森笠も立ち、ゆっくりと前田も腰を上げた。前田が先に立って緩斜面を降り始め、新井は右手にぎゅっとスミスアンドウエスンを握り締めると、森笠をはさんで後を追った。
ごつごつした岩がだんだんとなくなり、そのうち藪と木立も途切れた。木立の先には畑があった。もっとも、この時期なので作物は何も植えていないらしい。しばらく人も入っていないようで、三人が歩くと更地だった畑にスパイクの跡がしっかりとついた。土のいい匂いがした。血のにおいを嗅いだ後では、特に。
進行方向左手に、トラクターが一つ放置されていた。その少し向こうに民家があり、さらに坂を下ると住宅街と、おだやかな海が広がっている。民家は少々築年数のたった二階屋だった。他の住宅と離れているのに、御丁寧にブロック塀をめぐらしてある。
前を行く前田の足が止まった。空を見上げた。表情が凍り付いていたのが、薄闇の中でもはっきり見てとれた。
前田の視線の先、その中空だった。新井たち三人に向け、放物線を描いて何かが飛んできていた。
【残り24人】
多くの選手がいるプロ野球の世界の中でも、何が前田を名プレイヤーたらしめていたかというと、もちろんその人気や、あるいは非の打ち所のない打撃センスもあったが、何より守備の正確さ・美しさというものがあった。打球への判断のよさとそれに向かっていって、体勢を崩してでも捕りにいけるだけの体のバネ。怪我をした後は思うように走れないこともあってその評価も下がってはいたが、その中でもある程度調子が戻ってきている時などは、その能力をみせつけることがしばしばあった。そして前田はこのかすかな明かりの中でも、今、自分たちに向けて飛んできているもののスピード、方向、強さなどをあるほぼ正確に読むことができた。もちろん、この穏やかな瀬戸内のこと、竜巻じゃあるまいし、空から何かが降ってきたりはしない。そうすると、この“何か”の意味は一つしかない。
新井や森笠が前田の異常な表情を見たその時には、前田は三、四歩のダッシュを経て、高くジャンプしていた。薬を持ち歩いているほどだ、前田の足は間違いなく完全ではなかっただろうが、それでも去年だったか、達川が前田を四番に据え続けていた最中の甲子園での阪神戦、確実にセンター前に落ちると思われた打球を間一髪飛び込んでキャッチし、さらには併殺をとってみせた時のような鮮やかな動きだった。
前田の左手は空中でその打球を―――いや、飛んできた缶のような物体をキャッチした。右手に持ち替え、降下が始まった時には、体をひねって思い切り遠くへ投げ飛ばしていた。
前田が着地する前に、かっ、と白い光があたりを包んだ。
続いて、空気が膨れ上がる感じがしたかと思うと、轟音が鼓膜に乱暴な体当たりを食らわせた。前田はまだ足が着かないうちに爆風で吹き飛ばされ、土の上へごろごろ転がっていた。しかしもちろん、それが―――手榴弾が地面に落ちるのを待ってから対応していたとしたら、前田も新井も森笠も、ミンチ肉の仲間入りをしていたに違いない。その手榴弾は達川らが指揮を取る本殿に投げ入れられるのを警戒して幾分装薬量を減らしてはあったものの、人間を殺傷するには十分過ぎる能力を持っていたのだ。
新井はすぐに顔を起こした。音が全くしないのに気付いた。耳がおかしくなっているのだ。その無音状態の中で、もう一度さっきと同じような光景を見なければならなかった。もう一つ、同じような物体が飛んできたのだ。
もう一回だ、あれをどこかに―――しかし、新井が今から体を起こしたところで到底間に合うはずはなかった。
機能を失っていた耳にばん、とこれは明らかな、しかしやや小さな撃発音が届いたかと思うと、ほとんど同時にもう一度、空中で爆発が起きた。その音もいささか小さく聞こえたが、とにかく今度は、少し距離があって、新井は吹き飛ばされずに済んだ。すぐ横にいた森笠が腹這いの状態でトカレフTT-30を手にしていて、太陽にほえろよろしくそれで手榴弾を撃ち落とした、少なくとも爆発前に弾き飛ばしたのだと分かった。
「下がれ!」
前田が走りながら左手を大きく動かし、さらには後ろを何度か確認しながらその度に右手一本でショットガンを撃った。ぱらららららら、という別の銃声が聞こえ、畑の土がリズミカルに跳ね上がった。前田がまた、今度は二発続けて撃った。新井はわけもわからないまま、森笠とともに、畑を区切るあぜの陰まで走った。すぐに、前田が銃を撃ちながら横へ滑り込んできた。また撃った。ぱらららららら、という音がして眼前すぐのあぜの土が吹き飛び、砂粒がいくつか目の中へ飛び込んだ。
新井はスミスアンドウエスンを握りなおして、あぜの陰から顔を出した。前田がポイントしている方向へ、闇雲に引き金を引いた。
そして新井は見た、三十メートル弱ほど向こう、あの民家のブロック塀の切れ目、見覚えのある顔がすいと引っ込むのを。
金本知憲(背番号10)だった。そして新井は、いささか聴覚がおかしくなっているにせよ、そのぱららららら、という銃声に聞き覚えがあった。あの、高橋建と横山竜士が山裾からの説得を急にやめた時、同時に聞こえてきた銃声。もちろん、マシンガンを持っているのが一人だけとは限らない、ただ、それでも今目の前にいる金本は、何の予告もなく自分たちを殺そうとしたではないか。しかも手榴弾で!
信じられなかったが、新井は確信した―――高橋と横山を殺したのは金本だったのだ、と。
「なんで!なんで金本さんがあんなことを!」
「叫んでないで撃て!」
前田がショットガンにシェルを詰め直しながら叫ぶ。森笠はトカレフの弾が切れたらしく、それを補充する前に長谷川の持っていたシグ・ザウエルP230を撃っている。
新井はブロック塀に向かって次々に引き金を引いた。しかし弾はあっという間に切れた。瀬戸の武器だった銃(同じスミスアンドウエスンのチーフスペシャル38口径)を探す手間も惜しかった、というか、頭が真っ白でそれに気付くはずもなかった。東出がゲームに乗ったと知ってまだ間もないうちに、今度はこうやって日頃世話になりすぎている金本と撃ち合っているのである。荒波のように次々と自分を襲う信じられない事実を前に、すぐにそれを飲み込めといわれても、それは到底無理な話だった。
【残り24人】
金本が間隙をついて、すっと上半身を起こした。ぱらららららら、とその手元から火花が噴いた。新井が頭を引っ込めると、金本は体をブロック塀の陰から出しかけた。
今度は前田のショットガンが火を噴いた。金本の体が、再びすっと消えた。ショットガンの粒弾の群れが、塀の一部を吹き飛ばした。
新井はスミスアンドウエスンのシリンダーを開き、シリンダーの真ん中についているロッドを押して、撃発で直径が膨れ上がった薬莢を排出した。薬莢の一つが銃を握った親指の腹に触れほとんど火傷しそうになったが、構わず弾を詰め直すと、再び金本のいる家の方に向き直った。
前田がもう一発撃った。また塀の一部が吹き飛んだ。新井も二、三発撃ち込んだ。
ブロック塀の向こうからすっ、と手が突き出した。手は、マシンガンを握っていた。それがぱららら、と再び吠え、新井も前田も頭を引っ込めた。
間髪入れず金本が身を起こした。銃を打ち続けながら、しなやかな動きで前へ走った。すぐに、あのトラクターの陰に走り込んだ。―――距離が詰まっていた。
前田がまた一発撃った。こちらに横腹を見せているトラクターの運転パネル部分が消失した。
「新井」
「なんだ?」
銃を構えながら、新井が森笠の呼びかけにこたえた。その呼びかけが聞こえたことでようやく自分の耳が回復してきたことも同時に悟った。
「お前、百メートル何秒だった?」
前田がまた一発撃つ。今度はトラクターのリアランプがこなごなになった。
「俺の足が遅いことぐらい聞かなくても知ってるだろ」
今度は、再度金本の腕がトラクターの陰から突き出された。ぱららら、と火花が吹いて、金本の頭が一瞬のぞいたが、新井と前田が同時に撃ち込むと、すぐに引っ込んだ。
「山へ後退するしかない。足ならそこそこ自信がある。お前は前田さんと一緒に先に山へ行け。俺が金本さんをあそこに足止めする」
前田がちらっと森笠を見た。森笠が一つ頷いてみせると、少し間をおいて森笠にショットガンを投げ滑らせた。それが、前田の了解の合図だった。
「元の場所へ帰ってこい、森笠。ササさんと会った場所だ」
それだけ言うと、新井を促して伏せたままの姿勢で後ろへ下がった。
森笠は息を吸い込み、ショットガンから三発立て続けにトラクターへ撃ち込んだ。それと同時に、前田と新井が体を起こし、もと来た方へ走り出した。二人の後ろ姿を森笠は一瞬だけ見ていた。
金本がすっとトラクターの陰から上半身を出した。森笠はまたマシンガンを立て続けに撃った。前田と新井に銃をポイントしかけていた金本は、それで頭を引っ込めた。ショットガンの弾が尽きたことが分かり、森笠はトカレフTT-30に持ち替えて、さらに撃った。八発の弾はすぐに尽きた。シグ・ザウエルに持ち替え、さらに撃った。すぐにホールド・オープンしたが、予備マガジンを押し込んでさらに撃った。打ち続けることが重要だった。
打ちながらも、横目で前田と新井が山の中に消えるのを確認した。
シグ・ザウエルがもう一度ホールド・オープンした。もう予備マガジンはない、弾を詰め替える以外に手はない―――。
その一瞬に、金本がトラクターの、今度は土を掘り返すフォークがついた前の方から腕を出した。ぱらららららら、とイングラムマシンガンが吠えた。さっきと同じだった。金本さんは走ってくる!
森笠はもう、銃撃戦に拘泥しなかった。ホールド・オープンしたシグ・ザウエルだけ握ると(運よく後ろポケットに九ミリ・ショートのバラ弾が数発分あった。まさかこれが役に立ちそうな事態に陥るなんてな)、身を翻して走り出した。遮蔽物のある山の中に入ってしまえば、金本も容易に追ってこれないと考えたのだ。さらには、森笠はほんの一瞬の判断で前田らとは逆の方向へ足を向けていた。金本を少しでも二人と引き離したかったのだ。
ダッシュ力に全てを賭けた。なぜなら、―――短い時間のうちにとにかく可能な限り遠く、金本から離れる必要があったので。マシンガンというのは弾丸のシャワーであって、近距離なら絶対に当たる銃器なので。どれだけ離れられるか、それだけが勝負だった。
森笠は走った。カープ外野手の中でもトップクラスの速さの(少なくとも金本よりは速かったと確信していた。金本はたしかに走塁技術には長けているが、「速さ」と「技術」は違う。速さなら負けない)足だけが頼りだった。
あと数メートルで木立の陰に入れると思った瞬間、背後でぱらららという音が鳴った。森笠の左脇腹に、思い切り殴られたような衝撃が跳ねた。
森笠はうめいてバランスを崩しかけたが、走るのはやめなかった。背の高い木立の列の間に走り込み、ゆるい傾斜面を、上る方へ向かって走った。また、ぱららららら、という音がして、今度は左腕が、意志とは無関係に跳ね上がった。肘のすぐ上に弾が当たったのだとわかった。
それでも森笠は走った。そのまま東へ向かいかけ、―――俺についてこれるかな、強がった発言を繰り返してもだんだん体の限界は感じてるだろう?―――突然北に方向を転じた。また背後でぱらららら、という音がした。森笠の右の細い木がぱん、と裂け、マッチ棒のような木っ端がいくつか噴き上がった。
またぱららららら、という音がした。今度は当たらなかった。いや、当たったのかもしれなかった。もうわからなかった。ただ、追ってきてるんだな、と森笠は思った。よし、これで少なくとも新井と前田さんには時間ができる。
木立がいつの間にか切れ、茂みの間を抜け、急傾斜の多い宮島の住宅地を森笠は走り続けた。誰か別のやつに狙われるかもしれないなどということは、もはや考慮していなかった。もう、どれだけ走ったかわからなかった。どっちへ向かっているかも、よくわからなかった。ぱららら、という音が、時々聞こえるような気も、聞こえないような気もした。とりあえず二人から金本を遠さけたいという義務感や、左肩、左手ときて次は選手として命ほど大事な右半身をやられるのではないかという恐怖感(選手生命のことは考えても生命自体にまで考えが及ばなかったのは、新井の間抜け振りがうつってしまったのかもしれなかった)でまともな神経をすり減らしたからかもしれなかったし、あるいは金本の手榴弾の爆発音の後遺症、耳鳴りで音の判別さえできていないのかもしれなかった。とにかく今、森笠にできることは、遠くへ―――遠くへ走ることだけだった。
ふいに森笠の右足が落ちた。いつの間にか下り坂になった細い路地を走っていて、ほんの数段の階段があったのだが、それに全く気づかなかったのだ。森笠には転倒を防ぐ体力も、気力も残っていなかった。そのまま傾斜を転がり、T字路となっていたその坂の終点にたどり着いた。
体が止まって、初めて森笠は自分の手の中にシグ・ザウエルがないことに気付いた。―――ああ、取りに行かなくちゃいけない、と森笠は立ち上がろうとし―――立ち上がれないことを悟った。左半身の出血のせいか?頭でも打ったか?いや、そんな衝撃はなかったはずだが―――気付かなかったのか?ばかだな、頭打って気付かないなんて新井ぐらいのもん―――そうだ、帰らないといけない、新井と前田さん―――が待ってるあの山で新井と前田さ―――
体が起き上がりかけた姿勢から、ぐらりと前へ傾いで、そのまま森笠は意識を失った。
【残り24人】
陽が姿を隠し、かわりに冷たい空気があたりを支配しつつあった。大下剛史(99年ヘッドコーチ)が宮島に降り立って半日が経過しようとしている。彼はその時間の大半を、普段は観光客で賑わっているはずのフェリー乗り場の待合室で潰していた。球団事務所で受け取った資料に一通り目を通して、ゲームの現状と会場の地理をある程度把握しておきたかったのだ。フェリー乗り場のような目立つ場所に長時間いたのに誰にも見つからず過ごせたというのは、このゲームに最初から参加していてもめぐりあえないぐらいの、最大級の幸運に違いなかったであろう。もっとも、大下に気付いた選手がいたとしても、玉木重雄(背番号30)や菊地原毅(背番号13)のように、大下がゲームの主催者側にいる人間だと勘違いして、選手自身が彼に気付かれないよう逃げ出していた可能性もあったのだが。
選手を救う、達川他このゲームを動かしている無能な現首脳陣に一泡吹かせてやる―――と、意気揚々と宮島に来た大下ではあったが、むしろ半日間何もできなかった自分の無能さを痛感することとなった。正午に聞かされた達川の愉快そうな放送が、その思いを一層強くさせた。たしかに達川との仲は良くなかったが、ここまでいかれた人間だとは思ってもいなかった。本当に―――狂っている。
狂っているのは達川だけではなかった。この半日で何度銃声を聞いたことだろう。正午に名前を呼ばれた六人は、その犠牲になったに違いない。そして少なくとも一人、多くて六人、同じ釜の飯を食った仲間の命を奪った外道がこの島でまだ生き延びているのである。狂っている。そう思うしかなかった。
「寒いなあ、お前ら。ちゃんと殺しあってるか?いつもの放送だぞ。気を入れてよく聞くように」
突然島に響き渡った男の声で、大下は顔を上げた。それは昼に聞いた“定時放送”というやつだったのだが、昼のそれとは一つ明らかに異なる点があった。声の主は達川ではなかった。松原(チーフ兼打撃コーチ)だった。大下は松原にはそれ程面識はなかったし、彼がコーチになったことやその指導にも興味はなかった。ただ、わずか一年コーチをやっただけでこのゲームの運営側にいることに対して苦々しく思わざるを得なかった。―――お前はカープの何を理解して今そうやって喋っとるんや。
松原は正午から今までに鶴田泰(背番号17)、栗原健太(背番号50)、井生崇光(背番号64)の三人が死んだこと、禁止エリアが二箇所追加されること(幸いなことに大下のいるフェリー乗り場及びその周辺の住宅地は指定されなかった)、そしてもっと戦え、気が出ていない―――というお決まりの台詞を残して放送を終えた。何が「気」だ、忌々しい。
しばらくして、大下はフェリー乗り場を離れることにした。このままここに残るのであれば、資料を読めるほどの明るさは次の朝まで望めそうにもなかった。持参した防寒着だけではとてもじゃないが寒さがしのげなかったのもある。うっかり食べ物を持ってこなかったのも移動を決心させた理由に入るかもしれなかった。ただ、大下は闇雲に移動を繰り返している選手たちとは違って、ある程度次の移動先に目星を立てていた。住宅地のやや奥手に位置していたが、ここでも誰にも会わずに移動することができた。つくづく、ついているとしか言いようがない。
大下の目の前の看板を照らしている蛍光灯が、役目を終える寸前なのか、怪しげで不規則な点滅を繰り返していた。
【残り24人】
「着いた」
無機質にそびえ立つ建物を見て、広池浩司(背番号68)は安堵の表情を浮かべた。既にあたりを闇が包んでいるせいか、横にいる河内貴哉(背番号24)には、その表情を確認することができなかったが、心持ちはほとんど同じだったに違いない。計画ではもう少し早く、この小学校に到着するはずだった。ところが、途中で急に荷物が一つ増えたのだ。とても重くて、少々扱いが厄介な。肩にかかるその荷物の重さが、彼らのここまでの旅の大変さをうかがわせた。
「とりあえず中に入ろう」
広池が歩を進めた。二人で運んでいた「それ」のバランスが崩れかけて、慌てて河内も歩き始める。校門と校舎の間には運動場があるため、ほんの少しの間ではあるが障害物などに身を隠すことなく移動しなければならない。こういう時に攻撃されたら一発であの世行きが確定するだろう。運動場で死ぬなんて味気ないというか、墓場にするには広すぎてちょっと遠慮したい気分だ。
あと五メートルほどで校舎内に入れると河内が気を抜こうとした、その時だった。突然目の前から光を当てられた。文字通り、厳島神社の仰々しい照明と一連の出来事がフラッシュバックして、途端に足が動かなくなった。たとえ今当てられた光が、懐中電灯によるほんのわずかなものだとわかっていても。
「止まれ。持ってる武器を捨てろ」
普通なら一昔前の刑事ドラマのコピーのようなそのセリフにからかいの言葉でも送るのだろうが、この状況下、とてもそんな余裕はない。声とともに、銃のロックを解除する音も響いた。間違いない、向こうは銃を持っている。河内は、自分の喉がからからで既に声も出せない状態になっているのに気付いた。もはや喉を鳴らす唾さえ出ない。
「武器じゃなくて、荷物ごと捨ててやるよ」
落ち着き払った声でそう言って、右肩に背負っていたデイパックをドサリと自分の前へ投げ落としたのは広池だった。河内は隣に広池がいたことさえ忘れかけているほど緊張していたが、広池にはそういう雰囲気が微塵も感じられなかった。
「だから、とりあえずこいつを保健室に連れて行ってやってくれ、小山田」
懐中電灯の光が河内から離れ、投げられたデイパックとその持ち主である広池をしばらく照らした。広池はその眩しさに右手で光を遮ったが、相手は容赦なく広池の顔を照らす。少したって、ようやくそれが広池だと分かったらしい。
「広池さんじゃないっすか。どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたもない。眩しいよ」
「ああ」
懐中電灯の持ち主は広池に促されてようやく光を地面に落とすと、やや小走りに近付いてきた。ほんの目の前まできて河内にも、その目の前の人物が確認できた。間違いない、小山田保裕(背番号39)だ。懐中電灯の光を、小山田のもう片方の手で持っている拳銃が薄く跳ね返していた。―――とりあえず近付きはしたものの、武器を手放すまでにはいたっていないようだった。
「こっちは誰だ?」
「あ―――河内です」
人前に慣れていなかった入団発表での挨拶のようなぎこちない名乗り方だったが、小山田は別段思うところはなかったらしい。ただ「河内か」とだけ返ってきた。もっと温かい言葉をかけてくれても―――と普段なら思っていたかもしれない。しかし小山田の右手の銃に神経が集中していて、とてもそんなことを考える余裕などなかった。ここはもう、広池だけが頼りだった。
「他に誰かいるか?」
「他―――」
小山田が答えを濁す。
「―――答えられないか。悪いが、お前の答えを悠長に待っている暇はない。こいつだけはすぐ中に入れてほしいんだが」
そうして広池は、今まで自分の左肩に大きくかかっていたその“荷物”を肩ごと小山田に突き出した。突き出したところにあったのは、力なくうなだれた人の頭―――。
「これ―――」
「森笠だ。道のど真ん中に倒れてた。血だらけで。だから急を要するんだ」
「―――わかりました、他のメンバーに話つけてきます」
そう言うと、小山田は校舎の中に駆け込んだ。小山田はいわゆる、見張りだったのだ。その後姿を見送りつつ、河内は一つ大きく息をついた。と同時に、気の張りが完全に解けたのだろうか、膝の震えががくがく、がくがくと止まらなくなり、思わず両手を膝についた。その反動で森笠の体が地面に落ちそうになる。広池が「おっと」と無意識のうちに発すると同時に、河内が持っていた森笠の左半身が落ちるのを慌てて受け止めた。
「大丈夫か、河内」
「はあ…」
河内には、生返事を返す力がどうにか残っている程度だった。余程緊張してしまったのだろう。
「―――まだ計画が無事進められるかどうかは分からないから、もうちょっと頑張ってくれよ。他に誰がいるか分からないけど、僕らが受け入れてもらえるかは分からない。ここで計画の準備が出来るかどうかも」
広池の言う通りだった。まだ何も始まっていない。ようやくスタート地点にたどり着いたばかりなのだ。そして偶然発見した森笠繁(背番号41)のことも、どうにかしなければいけなかった。ここに来る途中、全身血まみれで倒れている森笠を発見した。それを見過ごすことは河内にも、広池にもできなかったのだ。なぜ血まみれで倒れているのか、その過程を二人は知ることはなかったのだが―――。
「広池さん」
小山田の声に広池も河内も反応した。暗くてよく分からないが、二人ほど走ってくる気配がする。
「担架持ってきました。これに乗せて下さい」
「ありがとう」
森笠を担架に乗せつつ、小山田と一緒にやってきた人間をチェックする。佐竹健太(背番号36)だ。あの“隠れ家”でのダミーの会話で、投手は固まって逃げているんじゃないか、と広池は言ったが、あながち間違いでもなさそうだ。河内はこんなことにでも感心した。今なら思考能力が働いていないおかげで、何にでも感心できたに違いない。
「いきましょう」
森笠が乗ったことを確認して、小山田と佐竹が担架を担ぐ。
「僕らも入っていいのか?他にもまだいるんだろ?」
「もちろん、歓迎しますよ。このメンバーじゃブルペンの中とたいして変わりませんけど」
広池の質問に、ようやく小山田が笑みを見せた。
【残り24人】
午後七時を目前にして、田中由基(背番号34)は隠れていた家を出た。ほんの一時間前にあった定時放送で、この家を含む一帯が八時から禁止エリアになると、松原の放送(そういえば今回初めて達川以外が放送を行った。松原とは喋る機会もないので、今回の放送は田中にとっては最も業務的な放送に聞こえたのだが、まあともかく)で告げられたからである。
勝手口のドアを開けて出る前、上がり口脇に放っておいた鶴田泰(背番号17)の死体をちらっと見やった。しかし、見やっただけだった。特にかわいそうとも思わなかった。ここは真剣勝負、お互い様ってやつだ。事実、鶴田は自分を見た途端、容赦なく撃ってきたのだから。もっとも自分の方も、背後から何とか鶴田の首を絞めようと忍び寄ってはいたけれども。
田中は比較的禁止エリアと縁遠い住宅地に落ち着こうと計画を練っていた。禁止エリアになっていない分、誰か他の選手が既に潜伏している家に入り込む可能性もあったが、彼はあまり心配はしていなかった。何せ、今や彼は防弾チョッキ(鶴田との一戦で高性能証明済)を身につけていれば、鶴田から奪ったリボルバーを手にしており、おまけに、―――家で見つけたフルフェイスのバイク用ヘルメットをかぶっていたので。
田中はもう一度だけ自分のフル装備―――とくになれないヘルメット―――をもう一度確かめると、とりあえず家の庭を横切り、隣接する狭い畑に降り立った。
今いるところの右手前方、南側に家が二軒並んで建っているのが見えた。これはそう、地図上、民家の位置を示す青い点の表示を信じるなら、禁止エリアと隣接エリアの境界線上に当たる。―――とにかく、それより先へ動こう。
畑のあぜの端に沿い、身を低くして慎重に歩を進めだしたが、鶴田に防弾チョッキごしに撃たれた腹部の鈍痛がそれにあわせるかのように響いて、田中は自分の癇の虫が疼くのを感じた。なんで自分がこんなゲームに放り込まれないといけないのか?
鶴田を殺した後も時折銃声が聞こえていたし、何より定時放送の直前にものすごい銃撃戦の音が響いていたが、今はあたりも闇に包まれ、しんと静まり返っていた。左手には大きな広葉樹が梢を広げている。幹周りが多分四、五メートル、高さも七、八メートルはあるだろうか。
まさか―――あの上に誰かいたりはしないだろうな―――。
田中は銃を握り締め、人の気配だけに注意しながら、ゆっくりと歩を進めた。たっぷり三分は時間をかけてやっとその木を通過してから、もう一度だけ後ろを振り返った。ヘルメットの正面に開いた四角い窓みたいな視界の中、特に不審な動きはなかった。―――よし。
目指す二軒の家は、もう、すぐ近くに見えていた。
―――田中は首をもう一度、あの木へ振り向けた。木の後ろ、地面に近いところで、丸い黒いものがかすかに動いたような気がした。それは―――
人の頭、と認識したときには、田中はもうそちらへ向けて銃を持ち上げていた。もうすぐ禁止エリアに入ろうというこの地域でまだうろうろしている、一帯何者なのか―――そんなことはどうでもよかった。
引き金を絞った。手のひらにおさまったグリップから快い刺激が伝わり、やや軽めの激発音とともに銃口からオレンジ色の火炎が伸びて、田中の背筋を痺れさせた。本物だ、俺は本物の銃を撃っている!
田中は二発撃ったが、その誰かは頭を下げて動けないようだった。撃ち返してもこなかった。そりゃあそうだろう、銃を持っていたら、自分が背中を見せた時に撃っているはずだ。だからこそ今自分も、安心して引き金を引けたというものではないか。田中は、心に余裕を感じながらゆっくりその影へと近付いた。
「待て!」と、声が上がった。
その声で、その影が佐々岡真司(背番号18)なのだとわかった。なんでこんなところにいるんだよ、この馬面が。
「俺は戦う気はない」佐々岡の声が続いた。「お前は誰なんだ?」
田中は一瞬思考を巡らせた。やる気がないだって?そんなばかな。このゲームでやる気がないというのは、自殺を決めたという意味だ。トリックか?だとしても、銃を持っていないなら―――
田中は作戦を変えることにした。銃を下ろした。
フルフェイスのヘルメットのあごのガード部分を右手で少し押し下げ、「田中です」と言った。ああ、どもった方がいいよな、少し。
「ご、ごめんなさい。けけ、怪我、しませんでした?」
それで、佐々岡がゆっくりと、その大きな体を持ち上げた。田中とは逆の左肩にデイパックをかけ、右手には棒のようなものを握っていた。
「大丈夫だ。それにしてもすごい防備だな。ヘルメットか?」
「え、ええ―――こ、怖くて、ね―――」
“ね”の音が完全に終わらないうちに、田中は左手を持ち上げていた。距離五メートル。外すわけがない。
しかし、コルト・ハイウェイパトロールマンから噴き出した火炎の先に、佐々岡の体はなかった。ほんの一瞬前に、予想もつかない動きで佐々岡が体を右へ―――田中から見て左側へ倒していたのだ、信じがたい素早さで。そして、傾いた姿勢から棒を左手に持ち直すと、田中の左手首から先、炎を吐いたばかりの銃を叩き落した。
途端、左手から銃が消えていた。瞬間的に親指付け根から手首にその衝撃が走り、その痛みの根っこを押さえた。ヘルメットをかぶっていても、指は無防備だったのだ。
佐々岡が体の向きを素早く変え、払い落とした銃を手に取ると、それを構えて近付いてきた。田中は左手を押さえたまま、ヘルメットの奥から、怯え、錯乱した目でそれを見守った。そのヘルメットの中、急速に噴き出した脂汗で、顔面がぬるぬるしていた。
「やる気十分なんだな」
佐々岡が言った。
「撃ちたくはないが―――俺は撃たなきゃならない、どうしても」
その言葉の本当の意味はわからなかったし、酷い痛みを抱えてもいたが、とにかく、田中にはまだ余裕があったと言っていい。なぜなら―――、その銃口は、田中の胸へ向けられていたのだ。それもそのはずだった、田中がヘルメットをかぶったことには、その実際の防弾効果以上に、敵がそこを狙わず、田中の体を狙うよう仕向けるという思惑があったのだから。そして、ユニフォームの下には防弾チョッキがある、というわけだった。防弾チョッキが銃弾を止めてくれれば、そして隙を見て、後ろからでも襲い掛かれば―――勝てる。
田中のぎらぎらした視線の先、佐々岡はなお数瞬の間を置いたが、口元をぎゅっと結ぶようにすると、静かな目で引き金を絞った。田中は、鶴田泰と相対したときのことを思い出しつつ、今度はどうやったらリアルに“死ねる”か、その寸前までいささか思案していた。
しかし、ことは田中の予想以上に簡単に終わった。佐々岡が手にした銃は、かちんという小さな金属音を立てただけだったのだ。佐々岡が狼狽した表情になり、慌ててもう一度撃鉄を起こし、引き金を引いた。再び、かちん。
歪んだ笑みが、ヘルメットに隠れた田中の口元にわき上がった。―――馬鹿馬、そいつは弾切れだよ。その弾は俺の荷物の中だ。お前にはもう使えねえんだよ。
田中は佐々岡の持つ銃に飛びつこうとした。佐々岡はぎりぎりでそれをかわすと、くるっと背を向けてもうすぐ禁止エリアになる山の方めがけて逃げ出した。そして、そのまま山裾の木立の中へ消えた。田中の銃を持ったまま。
―――くそ!
追うべきかどうか田中は数秒迷い、やめた。銃を失ったのはこの戦いで一番大きかった。できることなら取り返したかったが、ここでむざむざ禁止エリア内に戻るのは馬鹿げている。それに視界が藪と闇で遮られる山の中へ入ったら、佐々岡のみならず他の人間からの攻撃もあるかもしれない。そう考えれば、今現在も遮蔽物も何もない中で、体を無防備に晒しているのは危険だった。慌てて、身を低くした。
早く目指す家にたどり着かなきゃならない。しかも、入るところを佐々岡に見られないようにしなければならない。
田中は痛む左手を押さえながらも(かなり強い衝撃だったのか、触るだけでも腫れている箇所がわかった)よたよたと立ち上がると、向かう家の方に歩き出そうとして、そして見た。目指す家の手前、六、七メートルばかり向こうの畑のあぜ道に男が立っているのを。さっきまで何もなかった空間に、わき出した様に現れたその男を。
金本知憲(背番号10)だ(どうしてこうも主戦級のやつらばかりに出くわすんだ。しかも今度は筋肉馬鹿かよ)、と認識した時には、ぱららら、という音とともにその手元から激しい火花が噴き上げ、田中の上半身にいくつもの衝撃が叩きつけた。田中は後ろに吹っ飛び、仰向けに倒れていた。背中がずずっと土をこすった。ヘルメットをかぶった頭が、続いて地に落ちた。
銃声の残響がすっ、と夜の空気の中に消えた。再び静寂が支配した。
しかし無論、田中由基は死んではいなかった。息を殺し、体をぴくとも動かさずにそこに横たわりながら、ほくそ笑みたい衝撃を押さえ付けていた。その邪悪な喜び、左手から伝わる痛み、佐々岡真司を取り逃がしたことへの苛立ち、はたまたいきなり筋肉馬鹿に急襲された怒りと、彼の情動をつかさどる大脳辺縁系辺りはもはやほとんどめちゃくちゃなことになっていたと言っていいが、とにかく、鶴田泰にやられた時と同じで、体の方は全然平気だった。やはり、ヘルメットをかぶっていたのは正解だったわけだ。金本は、防弾チョッキに守られた、田中の胴体部分を狙ったのだった。そして―――金本はきっともう、鶴田泰がそうだったのと同じように、田中が死んだものと思い込んでいるに違いない。
ほんのわずかに開いたまぶたの薄い隙間、映画のパノラマスクリーンみたいなその視界には金本は映らなかった。佐々岡に銃口を向けられた時と同じようにだらだらと脂汗をたらしながら、田中は金本が去るのを待った。他人が逃げるのを待つとは何とも愚かな策だが、これしか方法がなかった。そして弾が田中の上半身に命中している以上、金本がすることはもうないと思っていた。
しかし、どういうわけか、金本はその場を去らず、まっすぐ田中の方へ進んできた。
―――。
まっすぐ進んできた。田中を感情のないその冷たい目で見据えたまま。
―――なんでだ?心の中、田中はそう問うた。俺はもう死んでるんだぞ?見ろ、こんな完璧な死人が他にいるもんか。
金本の足は止まらなかった。ただ、まっすぐ進んできた。一歩、二歩―――。
俺はもう死んでるんだよ!なんでだ!
柔らかな土を踏むかすかな音がますます大きくなり、視界に金本の姿がいっぱいに広がった。穴だらけになったはずの田中の上半身を、金本のつま先が小突いた。
「バカみたいに膨らんでるが―――防弾チョッキか」
―――!
恐怖と狼狽が田中を支配し、田中は我を忘れて目を見開いた。
その瞬間、ヘルメットをかぶったその頭へ向けて、金本のイングラムから再び火線が伸びた。至近距離から放たれた弾丸の何発かはヘルメットの強化プラスチックの表面を削り取って色つきの火花を噴き、何発かは田中の頭蓋骨を貫通した後ヘルメットの中で跳弾して、田中の頭がヘルメットごとがくがく揺れた。そして当然ながらそれが終わった時には―――田中の頭部は、ヘルメットの中でもはやぐちゃぐちゃに砕けていた。
田中は、今度ばかりは死んだふりをしていたわけではなかったけれども、もう、ぴくりとも動かなかった。すっかりスープだかソースだかのボウルみたいになったヘルメットの端、首との境目から、とろとろと血がこぼれだした。
そういうわけで、田中由基は、最初二人の反応や様子を一般的リアクションだと信じ込んだせいで、三人目の冷静さを見抜けず、あっさりと死んだ。前日夕方の高橋建(背番号22)と横山竜士(背番号23)の死に様をよく聞いていれば、トドメを刺す、ということがありうるのだとわかったはずなのだが、彼にはそれほどの学習能力はなかったのだ。もちろん、この話を例に挙げなくとも、彼に学習能力がないことぐらい、広島で、全国で、海外で―――のんびりと来年の開幕を待っているファンには、もはや分かりきったことではあったのだが。
【残り23人】
どのぐらい眠っていたのだろうか。緒方孝市(背番号9)はぼんやりと目を開けた。日も暮れ、電気もついていない部屋の中では本当に目を開けたのかどうかもわからない感じではあったが、少し離れたところにある型の古い石油ストーブの赤さと、それからくる温かい空気の流れが睡眠から覚めたことを緒方に教えてくれた。
体を起こして確認したが、どうやらこの部屋の中には野村謙二郎(背番号7)はいないようだ。体も頭もまだ気だるさは抜け切れていなかったが、ここに来た頃のような状態ではなかった。野村の出してくれた解熱剤は効果的面だったらしい。自分で選んでも効果は同じだったろうが、そもそも自分一人で行動していたら山の中でのたれ死んでいただろう。野村の存在は素直にありがたかった。
緒方は覚束ない足取りながらもベッドから出てそっとその部屋の扉を開けると、玄関とは逆へ歩いた。床から伝わる遠慮のない冷たさに、ふと、いつの間に自分はスパイクを脱いだのだろうという疑問を抱いた。と同時に、余計なことを考えてしまったせいだろう、足と意識とがうまく噛み合わず、足が絡まって思わず前のめりになる。体を支えていた壁のおかげで何とか転ばずにすんだものの、二、三歩慌てて前進した震動がかすかな音となって床を這った。その音に共鳴するかのように、一番奥の部屋から誰かが動き出す音がしたかと思うと、間髪おかず野村が顔を出した。
「―――緒方か」
その声にはどこか安堵も混ざっていたようだった。
「大丈夫か?手、貸そうか」
「いや、何とか―――」
緒方はその冷たさにだんだん足の裏の感覚がなくなるのを感じつつも、野村のいる奥の部屋まで壁伝いで進んだ。野村もいつ手を貸すか心配そうに見守っていたが、部屋の近くまで緒方を見た後で、すいと顔を引っ込めた。
野村のいる部屋は廊下の突き当たり、右側にあった。入ってすぐにダイニングテーブルと椅子が四脚置いてあり、そのさらに奥には流し台があった。いわゆるダイニングキッチン、という形式をとっているようだ。
野村は流しの横のガスコンロに向かい合って、なにやら鍋を温めているようだ。テーブルの下にどこから見つけてきたのだろう、寝袋が敷いてあった。
「何か食えるか?」
「―――ああ、軽くなら何とか」
「熱は?」
「さっきよりはないです」
「そうか」
野村の見つめる鍋から湯気が立ち上るとともに、味噌のいい匂いが緒方のもとにも漂ってくる。今度は緒方が質問する番だ。
「味噌汁ですか?」
「ああ、飯が食いたけりゃジャーをあされ。たいしたもんはなかったから、こんな食事しか作れん」
振り向かず答える野村に緒方が苦笑する。台所に向かう姿が似合わないようで、意外に似合う。
「人の家で勝手に飯を食うなんて、ドロボーみたいですね」
「ドロボーだよ。違うと思ったか?」
野村はあっさりと言い、そして、コンロの火を消して付け加えた。
「一応、心構えはしとけよ。いつ誰がここに来るか分からないからな」
緒方は「はい」とだけ返事をした。
目の前に味噌汁と、野村がよそってくれたご飯が出された。緒方は「いただきます」といい、それらをかきこんだ。暖かい食事はいつぶりだろう。―――実際には広島をたって三日とたってはいないのだが、それ以上に以前の生活に懐かしさを感じる。ここでのゲームは、それだけ心身を痛めつけていたのだ。
「また三人死んでた」
そう呟いて、野村は緒方の向かいの椅子に腰掛けた。ということは、寝ている間に午後六時の定時放送があったのだろう。
「誰が?」
「鶴田、栗原、井生だ」
―――ほんの一瞬、複雑な“何か”が緒方の心の中に浮上した。それを言い表すのは難儀なことだ。しいて言えば、容赦なく腹部に死球を当てられた時に浮かび上がる怒りや、打っても打っても打たれ返されるマウンド上の投手への焦燥、トンチンカンな質問を浴びせる記者への苛立ちなど、それらに似ているような感情かもしれない。どれにでも当てはまるようで、どれも違うような。
「朝山の事を考えてるのか?」
野村が言った。読心術?緒方は顔を上げ、野村を見た。
「気にするな。あいつがどういう状態になっているかは分からんが、今考えてもしょうがない」
「でも―――」
「朝山は銃では攻撃してこなかったんだよな」
思い出したくもない過去に意識をめぐらせ、そして緒方は「はい」とだけ答えた。
「じゃあ、今回の三人には関係ないんじゃないかと思う。お前が眠ってた時も結構銃声が響いてたんだが、この人数を考えても妥当な回数だった。みんな銃撃戦で死んだとは断定しがたいけど、一番可能性が高い死に方ではあるよな。むしろ、ここまで生き延びてて銃がないってことはかなり考えにくい。もしお前がやられかけた時のまま銃がない状態なら、絶対的不利な条件下でむざむざ戦いを挑むような奴でもないだろう」
野村の言う通りだった。自分が襲われた時も不意打ちという、朝山が絶対的に有利なポジションに立つ場面だった。あの後に銃を手に入れる可能性もなくはなかったが、そもそも銃を持っている相手からいかにして奪うのか?余程うまく、相手に気付かれないように事を遂行しなければ、奪う前に撃たれるのがオチだろう。
「それはいい。お前は本当に大丈夫か?」
緒方の思考を切るように、野村がもう一度確認するように聞く。
「山の中にいる時よりかは随分―――世話になりました」
「いや、あれで何とかなってよかったよ。もっと他に―――肺炎とか手の付けられない病気になったらどうしようかと思ってたからな。お前を放って逃げたかもしれん」
野村が苦笑する。緒方もつられて笑みを浮かべた。しかし―――
カチャン、という音が響き、野村も緒方もその表情をこわばらせた。音のした先は、玄関。
「こんな時に客か」
吐き捨てるように野村が呟き、パンツの後ろポケットに差し込んであったショットガンを手にとる。そうしているうちにも、“来客”は引き戸を開けようとして、その度につっかえ棒とひびの入った引き戸のガラスの共鳴音が響いた。
「お前はここで待て。様子を見る。やばい人間だったら、裏から逃げるしかない」
それだけ言うと、野村は壁に身を寄せながら静かに、静かに部屋を出た。緒方はスパイクを履いていないその足から全身に冷気が上るような感覚に襲われたが、そのせいか、妙に冷静だった。逃げるんならスパイクをとってこないと―――そんなことを考えた。
一方野村は緊張の真っ只中にいた。手にずっしりと重いグリップの感触が、心にものしかかる。
客はあまり「慎重」とか「疑う」とかいう言葉を知らない人間のようだった。その引き戸には野村が開ける際に割った穴があるというのに、そしてそれがあるにも関わらず扉が開かないようにされているのに、それでもムキになって開けようとしていた。―――あまり戦い慣れてない選手だな。それとも、そう見せかけてるだけか?引き戸に映る人影が看板の蛍光灯がついたり消えたりするのにあわせて現れたり消えたりしている。電気がついているとただでさえ目立つのに、それを消すのを忘れていたのは迂闊だった。
野村はさっきまで緒方が寝ていた診察室と台所の間にある待合室に身を寄せた。危険を覚悟で客に呼びかけてみようと思ったのだ。声をかけた途端、相手に発砲されたらたまったもんじゃない。それに、相手に入ってこられたら、診察室に隠れていたらあまりに玄関からの距離がなさすぎて捕まるかもしれない、とも思ったのだ。何分、自分の足が褒め称えられたのも股関節を痛める前の話だ。
「外にいる奴、動くな。撃つぞ」
野村の呼びかけに、相手は手を止めた。―――撃ってこない。銃は持っていないのか?
「誰かおるんか?」
―――おいおい、なんて間の抜けた質問だよ。ガラスが割れてるのが見えてないのか?野村はいくらか拍子抜けしたような感じを受けた。そして、すぐ、不思議に思った。聞き覚えのないような、それでいて懐かしいような声。誰だ?
「誰かおるんか、と聞いとろうが」
もう一つ、声が響いた。今度はその言い回しと、自分より年輪を重ねたような重く、どこか棘のある声質である人間の存在が浮かび上がった。が、まさか―――なぜ、こんなところにいるのだ?思わず、その名を呟かずにはいられなかった。
「―――大下さん?」
【残り23人】
佐々岡真司(背番号18)は後退したその誰かが、自分と同じユニフォームを着ているのを確認した。それはもはや広島東洋カープの選手と、一部の首脳陣しかいないこの島では当たり前のことだったのだが、それでも確認せざるを得なかった。そしてそれと同時に、その人物が東出輝裕(背番号2)であることも、薄闇の中理解することができた。
ふいに、東出が顔の前に両手を上げて後ろへ退がった。「撃たないでください!」と叫んだ。よろけてしりもちをつき、血とも土とも見分けのつかない変色したユニフォームをさらに砂利で汚して、なおそれでも後ろへ退がろうとした。
「お願いします!話しかけようとしただけなんです。佐々岡さんを殺そうなんて思ってません。助けてください!佐々岡さん!」
佐々岡はただ黙って、その東出を見下ろしていた。
その沈黙を、佐々岡に当座敵意がないと読み取ったのか、東出はゆっくり、顔の前に上げた手をあごの下まで下ろした。怯えた小動物の目で、佐々岡を見た。その目に、涙が光っていた。
「信じて―――くれるんですか?」
涙でくしゃくしゃの東出の顔に光明が差し、かすかな笑みが目元に浮かんだ。もちろん、相手をうまく騙しおおせたといったような勝ち誇ったそれではなく、心底の安堵があふれ出た、という笑みだった。
「あの―――俺、佐々岡さんなら信じられると思って―――だから―――怖かったんです、ずっと―――ひとりで、こんなことになって―――恐ろしくて―――」
佐々岡は黙って、東出の落とした銃の撃鉄を片手で戻し、東出のところまで行くと、銃把を先にして差し出した。
「あ―――ありがとうございます―――」
東出がおずおずと手を差し出し―――その手がぴたっと止まった。
佐々岡が手の中で銃をくるっと回転させ、その手に握ったので。その銃口が、ぴたりと東出の眉間に向けられていたので。
「な―――何、何するんですか、佐々岡さん―――」
東出の顔が驚愕と恐怖に歪んだ―――少なくとも歪んで見えた。全く、見事としか言いようがなかった。このゲームの中で、東出のことなど気にもかけずに今まで過ごしていれば、この顔に、態度に、間違いなく騙されていたに違いない。ただ、今の佐々岡には東出の涙を信じることができない特別な事情があった。
「もういいんだ、チビ」
佐々岡は言った。“チビ”の愛称が口から滑り出たのは、己の内にあった最後の情けからかもしれなかった。しかし、銃を構えたまま、佐々岡は少し背筋を伸ばした。
「俺は黒田に会ったんだ、あいつが死ぬ直前に」
「あ―――」
東出が、その決して大きくはない目を震わせて佐々岡を見上げた。黒田にとどめを刺さなかったことを後悔しているのだとしても、そんな色は微塵も表れなかった。ただ、怯えた表情。理解と保護を求める表情。
「ち、違うんです。あれは事故なんです。そう、俺、ずっと一人でいたわけじゃないんです。ただ―――黒田さんに会ったとき―――黒田さんの方だったんです、俺を―――俺を殺そうとしたのは。そのピストルだって本当は黒田さんの―――だから、だから俺―――」
佐々岡はさっき戻したコルト・ガバメントの撃鉄をがちっと再び起こした。東出の目がすっと細まった。
「俺は、少なくともお前よりはクロを知っている。あいつは、進んで人を殺すようなヤツでもないし、錯乱して誰にでも銃をぶっぱなすようなヤツでもない。たとえこのクソゲームの最中だろうと」
佐々岡がそう言うと、東出はちょっとあごを引き、それから、顔を傾けた。佐々岡の顔を見上げ―――そして、その厚い唇がすっと笑みの形を作った。それはぞっとさせるような笑みで、よりいっそう、東出の小憎らしさを引き出したと言っていい。
ふふ、とかすかに東出が笑った。
「即死だと思ってましたよ、黒田さんは」と言った。
佐々岡は何も言わず、じっとガバメントを東出にポイントしていた。東出はもはやそれに怯えることなく、佐々岡を見上げ続ける。
「交渉しましょう。俺を助けてくれたら、佐々岡さんは殺しません。一緒に組みましょう。悪くないですよ、俺」
佐々岡は銃を構えた姿勢のまま、動かなかった。東出の目を、正面から見据えていた。
「だめっか」東出が言った。軽やかな口調ですらあった。「そりゃそうですよね、隙見せたら俺、佐々岡さんでも殺しますもんね。それに自分の後継者を殺した選手とは一緒にいられませんよねー」
「クロはクロだ。俺の後継者なんかじゃない」
それで、東出がまた、佐々岡の目を覗き込んだ。佐々岡が続けた。
「けど、俺の、一番信頼できる後輩だったんだ」
「ふうん、そうですか」東出が眉を持ち上げた。
「だったら、どうして撃たないんですか?佐々岡さん、チーム思いだから、他の選手は撃てませんって言うんですか?」
その東出の自信に満ちた顔は、相変わらず小憎らしかった。高校を卒業してまだ丸二年もたたないこんな子供(東出はたしかこの夏に二十歳になっている。社会的に「大人」に分類されるべきなのだが、練習中や移動中の言動、服装、趣味などどれをとってみても、佐々岡にとってはまだ「子供」だと言える存在だった)が、銃を額に向けられていることなどまるで頓着していない。佐々岡はめまいがしそうだった。
「どうして―――」
かすれた声が自分の喉から出るのが聞こえた。
「どうしておまえは、平気で誰かを殺せるんだ?」
「―――ばかじゃないんですか?それ、このゲームのルールじゃないですか」
その言葉に、佐々岡が首を振った。
「誰もがそれに乗ったわけじゃない」
東出がまた首を傾けた。ややあって、相変わらずにっこり笑ったまま、「佐々岡さん」と呼んだ。キャンプ地の沖縄や日南で、赤い帽子を被った男の子に声をかけられる、そんな、暖かく、親しみのこもった言い方だった。
「佐々岡さんは、相変わらず、いい人なんですね」
佐々岡はわけがわからず、眉を寄せた。口が少し開いたかもしれない。東出は歌うように軽やかに続けた。
「いい人はいい人なんです。ある局面ではね。けれど、その人もいつだって、悪い人になりうるんですよ。あるいは、一生いい人のままで終わる人だっているかもしれませんけどね。そう、佐々岡さんは、そうかもしれない」
東出は佐々岡から視線を外し、首を振った。
「そんなことはどうでもいいんです。俺は、奪われるよりは奪う側に回ろうと思っているだけなんでね。そうすることがいいとか悪いとか、正しいとか間違ってるとか言ってるんじゃないですよ。俺はただ、“そうしたい”んです」
佐々岡の口元が、無意識に、ひきつるように震えた。
「―――なんでだ?」
東出がまたにこっと笑った。
「自分にも分かりませんねえ。けど佐々岡さんはもう“奪う側”を経験してるじゃないですか。名声もお金も奪って、それなら今の俺の気持ちだって分かるでしょう?今度はこっちの番なんです。―――佐々岡さんはここで死んでももう思い残すことはないですよね。名誉は残したし、お金ももらったし、自分がいなくても家族は一生食べていけるでしょう?だから、俺はあんたや他から全てを奪ってやるんです」
そう言い終わるか終わらないか、その瞬間に、東出の手元から銀色の光がしゅっと走った。それで、佐々岡は、東出の右手が背中に回っていたことにようやく気づいたが、そのときには、もう、佐々岡の右肩に両刃のダイヴァーズナイフが深々と突き刺さっていた(もちろんそれは、そもそもは兵動秀治に支給された武器だった)。佐々岡ののどからうめき声が洩れ、銃こそ放さなかったものの、痛みで後ろへよろけた。
東出はその隙を逃さず体を起こすと、佐々岡の脇をすり抜けるように、佐々岡の後方の木立の間に走り込んでいた。
佐々岡が慌てて振り向いたとき、その背中が一瞬見え、―――すぐに闇に消えた。
きっと―――東出を今倒しておかなければ、西山秀二(背番号32)すらもその手にかかるかもしれないとわかっていたのに、佐々岡は、東出を追うことができなかった。ただ、ナイフの周り、ユニフォームに血がじくじくと滲み出す右肩を左手で押さえ、東出が消えた闇の奥を見つめていた。
袖の中を流れた血が、右手に提げているコルト・ガバメントに伝わり、銃口の先から細い筋になって落ち始めた。足元に転がる砂利に、佐々岡の赤い血が音もなく吸い込まれた。
【残り23人】
野村謙二郎(背番号7)は、目の前で味噌汁をすする老人を目の前にして、やや途方に暮れていた。
―――さて、どうしたもんか。
そもそも、目の前にいる老人―――紛れもなく、かの鬼軍曹、大下剛史(99年ヘッドコーチ)だった―――はなぜここにいるのか。立場的にはあの厳島神社の本堂で達川や松原などと選手の殺し合いを監視しながら茶でもすすっているべきであろう。もっとも、散々達川との確執(もちろんヘッドコーチ時代のことだが)をマスコミに暴露された大下が、その達川や、あるいはヘッドコーチになるまでは広島と縁もゆかりもなかった松原と仲良しクラブを形成している光景を、野村は少しも想像することができなかったけれども。
野村はチラリと横の緒方孝市(背番号9)に目をやった。緒方も大下退陣決定後に、大下との不仲をマスコミに噂された一人である。そしてその噂は、あながち間違いでもないことぐらい野村も承知していた。緒方は野村の視線に気づき、一瞬うんざりした表情を見せた。
―――仕方ないな。
「大下さん」
野村の呼びかけに少し不必要に間をおいて大下が「なんやぁ」と返す。野村の気分、それはまさにホームテレビの実況アナウンサー。
「何してるんですか?」
「見りゃ分かる。飯を食うとる」
緒方があからさまにため息をつく。
―――おいおい、俺がやりにくくなるんだからやめてくれよ。野村は一つ小さく咳払いをして質問を続ける。
「そうじゃなくて、何の目的でここにいるんですか?」
「ほんまはフェリー乗り場におったんじゃが、寒うなって移動してきた」
「大下さんは、達川さんたちと一緒じゃないんですか?」
その瞬間、大下は野村をギロリと睨みつけた。
「ワシがそんな事に参加すると思うんか?」
いつもよりさらに低く、鋭い声が三人のいる空間に響き渡った。
「お前もか?」
大下の視線が緒方へ滑る。
「―――ええ、まあ」
「何を馬鹿なこと言うとるんなや!」
勢いよく叩きつけられた茶碗とテーブルが激しい音を立てる。この時ばかりは野村も緒方も同じ台詞を叫びたかった。誰かに見つかるから静かに!―――当然、言えるはずがない。
「わしがこの話を聞いたのは、昨日が初めてだ」
先ほどの音とは対照的な、小さな呟き。
「達川がな、うちに電話かけてきよったわ」
その呟きに、苦笑が混じる。
「誰がこのゲームに勝つか、聞いてきよった。わしゃはらわた煮えくり返った。あいつらの好きにはさせまあ、と思うてな…今朝、船に乗ってやってきたわ」
そういってため息とともに笑った大下の顔には今まで見たこともない、寂しさ、悔しさ、やるせなさ―――コーチ業や解説での強気を帯びたものではない、諦めの匂う「負」の感情が見えた。それが野村や緒方には、逆に声をかけ辛い雰囲気を醸し出しているように感じられる。
「ワシのことを疑うとるが、お前らは誰か殺ったんか―――緒方」
「殺られそうにはなりましたけど、殺ってはいません」
「…じゃろうのう。ボール1個じゃ人は殺せんからな」
その瞬間、声を上げたのは緒方ではなかった。
「大下さん?」
「謙二郎、お前はどうなんや?お前の銃なら大丈夫じゃろうが」
「―――大丈夫って、言い方ってもんがあるでしょう?それに、なんで今朝来たばかりなのに俺らの武器を知っているんですか?あんた、やっぱり達川さんたちの―――」
仲間なんでしょう、と発する前に脇に立てかけてあったレミントンM870に手をかけたのだろう、銃口が床をこするわずかな音が食堂に拡散した。
「殺すんならやってみい」
さながら仁侠映画のように凄みのある低音で大下が返す(残念ながら野村の緒方も仁侠映画は未鑑賞だ。ただ、ここから無事に抜け出せても人を殺すような映画を見るのはほとほとごめんだ)。わずか数秒の張りつめた睨み合いが野村との間で交わされたが、野村に視線を切られた。
「こんな老いぼれに気合で負けとったら、そりゃカープは勝てんの」
薄笑いを浮かべて、大下はA4判の茶封筒をテーブルに放り投げた。二人はそれが何なのか分からなかったが、とりあえず先に野村が手にとって、懐中電灯の薄明かりを頼りに中の資料を確認しだした。
「このゲームの情報があるのは、ここだけじゃない」
資料を手にとるたびに野村の表情を確認するのを横目に、大下は再び喋りだした。
「朝、球団事務所に寄ってな。あそこも、ここのことはチェックしとるらしい。そりゃそうじゃろうな、球団の許可なしにこがなことができるわけない。そして、あいつらはわしらみたいなOBにも欲しい情報は逐一提供しちょる」
「それが、これ…」
「誰が誰を殺したとかいう資料はさすがになかったがのう。ただ、武器は分かる。これを貰うた時の生存者の場所みたいなんも、あったはずやな。どう使おうと構わん。―――お前らに託す」
「まさか、これだけのためにここへ?」
「本当はわしがこのゲームを止めるはずだったんじゃが、ああも銃声が響くと自信がのうなってきてのう。お前らを連れて帰るにも、その首輪とやらが邪魔でな。わしが無理を言うことで、お前らを殺したくはない。謙二郎と緒方なら、信頼できる」
野村も緒方も返事ができなかった。大下の“ゲームを止める”という意志が自分たちの生存確率を下げるかもしれないことは、この時は全く考えられなかった。その意志は野村の意志でもあり、緒方の意志でもあった。大下は、自らの意志のためにここまでやってきた。果たして自分たちは、大下と同じように、そして大下の信頼通りに、誰も傷つけずにこの意志のために行動できるのか。
「さて、わしは一眠りした後に一旦戻って新しい資料でも取って来るかのう。ここに持ってこれるかは分からんが」
二人の返事を前にして、大下がバッグから携帯電話を取り出し、時刻を確認する。今日連絡しても船を走らせるのは無理だと判断したのだろう。
「―――ちょっと待ってください?さっきも言ってましたけど、帰るってどうやって」
「何言うとるんじゃ、謙二郎?船で来たから、船で帰るに決まっとろう」
「その船は明日来るんですか?」
「わしが連絡したら来ることになっとる」
「連絡はどうやって?」
「質問ばっかりするな。携帯に決まっとろうが」
「大下さん―――」
野村が声を落とす。きっと資料を見落としてるんだな。
「携帯はつながりませんよ」
「何?ここは圏外か」
「そうじゃないんです。このゲームでは携帯が使えなくなってるんですよ」
「そんなことはなかろう」
大下が笑いながら自宅の番号を探し当て通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに、受話器からけたたましい“宮島さん”が流れ出した。大下の口元から笑みが消え、それから2,3度同じような操作を行ったが、いずれも通話できないことを喜ぶかのような宮島さんが流れるばかりだった。それから大下は何も口に出せなくなってしまった。文字通りお通夜のような空気が三人の周りを支配した。
しばらく10分ほどたって、ようやく野村が口を開いた。
「大下さん」
しかし、大下は顔を上げなかった。
「ゲームを止めるんでしょう?」
野村の声だけが、しんとした部屋にこだまする。
「そのためにここに来たのに、何落ち込んでるんですか。俺らを使ってくださいよ、ゲームを止めたいなら」
横で緒方が何を言ってるんだ、と顔をしかめたが、野村は構っていられなかった。何より、こんな大下を見るのは初めてだった。
「大下さん」
二度目の呼びかけにようやく大下が顔を上げた。しかし、同時に立ち上がった。
「―――今日は寝る。明日、また話をさせてくれ」
それだけ言うと、部屋を出て行った。廊下を歩く大下の生気のない足音が、野村の心をわずかに苦しめた。
【残り23人】
茂みの中、新井貴浩(背番号25)は膝を抱えて、ただ、俯いていた。闇はあの戦闘を消すかのごとく、辺り全てを黒く飲み込んでいる。
前田智徳(背番号1)と一緒にこの場所にようやく戻ってきた直後、午後六時の定時放送があった(なぜか達川ではなく松原が行っていたが)。長谷川昌幸(背番号19)を倒して新井の前から逃げた鶴田泰(背番号17)の名前を含め三人の死亡が報告され、さらに二箇所の禁止エリアが追加された。二人のいる場所に隣接するエリアが三時間後に禁止エリアになるが、それ以外は特に問題がなかった。そして、森笠繁(背番号41)の名前は呼ばれなかったのだが―――
定時放送から一時間たつかたたないかという頃に、再び遠くで銃声、そしてあのマシンガンの音がして、新井の心臓をわしづかみにした。それは、忘れようとしても忘れられない、間違いなく、あの金本知憲(背番号10)のマシンガンだった。そしてそれは、森笠がなお金本に追われていて、ついに見つかったという恐ろしい推測につながった。
新井は前田にそのことを聞きかけたが、前田が察したのか首を振り、「わしらがカネに会ったところより南側だな。森笠は東に逃げた。そっから南に方向を変えたとしても、戻るとは思えない場所だな。多分、模試傘じゃない。とにかく、森笠を待とう」
それで新井も当座胸をなでおろしたのだけれど、しかし、その時点からもう一時間近くがたっていた。森笠は帰ってこなかった。
頭の中を、いやなイメージがかすめた。森笠の顔。自分たちを置いて走っていったその時の、目を見開いた真剣な顔。しかし、その額の中央に予告なく唐突に、赤黒い血の塊が盛り上がってくる。大きなその塊が破裂し、その奥の脳のある場所から幾分鮮やかな血液が流れ出す。その血が森笠の顔に広がっていく、ガラスにヒビが入るように―――
新井はぶるっと頭を振ってその妄想を打ち消した。
「前田さん」
「何だ?」
「遅すぎます、森笠」
前田が地面に一つ、唾を吐いた。それで、新井は、ちょっといらいらする感じを覚えた。
「そうだな」
そんな前田の淡々とした言い方も、じれったかった。しかし、前田が何度も自分や森笠を助けてくれたことを思い出して、新井はそのいらつきを抑え込んだ。
「何か―――あったのかも」
「そうだろうな」
「そうだろうって―――」
「まあ、待て。さっきのマシンガンは間違いなくカネだ。同じマシンガンが出回ってなけりゃな。けど、さっきも言ったが場所を考えろ。俺はあいつに戻って来いと言った。森笠が覚えているなら、わざわざ元の場所とは逆の南に逃げ込むとは思えない。お前はあいつを信用してやれんのか?多分、さっきやられたのは別のやつだ。森笠はカネから逃れとる」
「じゃあ、どうして森笠は」
「それは」前田が遮った。
「どこかに身を潜めてるんだろう。道に迷ったのかもしれん」
新井は首を振った。
「怪我をしたかもしれない。下手したら―――」
新井は背筋がぞくっとして、それ以上口に出すことができなかった。またあの、顔に赤いくもの巣を広げた森笠の顔が、脳裏を横切った。森笠は、金本からは逃れたものの、致命的な怪我をして、今にも死にかけているのかもしれなかった。そうではないとしても、もし山の中を逃げているうちに他の誰かに狙われたら―――いや、あるいはどこかで気を失ったりしたら、そしてそれがもし禁止エリアの中だったとしたら、森笠はそのまま死んでしまうのだ。
前田が静かに言葉を発した。
「そうかもしれない、そうでないかもしれない」
「前田さん、お願いです―――森笠を探しに行けませんか?一緒に行きませんか?」
前田は何も言わず、新井を一瞥し、そして、口を開いた。
「それはだめだな。お前一人で行くと言っても行かせん。そんなことしたら、森笠がわしにお前を預けた意味がなくなるからな。あいつが危険を犯してわしとお前を避難させた意味がなくなる」
新井は、唇を噛んで前田の顔を見つめた。
「んな顔するな。わしだって心配はしとる。けど、これは森笠の思いだ。森笠を思ってやるなら、お前もあいつの意を汲んでやれ」
それで、新井はまた唇を噛み、―――それから、視線を落とし、頷いた。
「わかりました。待つしかないんですね」
「そうだな」
前田が頷いた。しばしの沈黙が落ちた。
「第六感っていうのを信じるか、お前は」
ちょっと唐突な話題のような気がして、新井は目を丸くした。何か別の話題で、気を紛らわそうとしているのだろうか?
「…少しは、まあ。よく分からないですけど。前田さんは?」
「いや、わしは信じんな。というか、無視して差し支えないというところやな。ユーレイだとか、死後の世界とか、第六感とか占いとか超能力とか、ああいうのは実際的対応をするだけの能力がなくて現実逃避しようとするアホの言うことだ。お前は信じとるらしいから、これはわしの勝手な意見だと思ってくれ。とにかく、だがな―――時に何の根拠もなく、未だ不明確なことについて確信を抱くことがある。それで、それが外れたことはないんだな、どういうわけか」
新井はただ黙って、前田の顔を見つめていた。
「だから、森笠は生きとる。帰ってくる。信じとけ」
新井はふと、表情をゆるめた。今前田が話したことはそれもこれもすべて、作り話かもしれなかった。ただ、それでも、そう言ってくれるのがうれしかった。
「ありがとうございます。優しいんですね、前田さん」
「気持ち悪いこと言うな。感じたままを述べてるだけだ」
再度、前田が唾を吐いた。
「体を横たえとけよ。森笠が帰ってくる前にお前が潰れたら話にならん。俺は起きとるから、気の済むまで眠れ」
前田にそれほどの負担をかけられないとは思ったが、反論もできない雰囲気だった。
「そうします。ありがとうございます」
それでもなお十分ほど座って待った後、新井は毛布に身をくるみ、横になった。
しかし、眠れなかった。
【残り23人】
朝山東洋(背番号38)は、このゲームが始まって以来、まだ二夜目ではあったが初めてほっと安心できる一夜を迎えていた。食料も水も全て尽きていたところに豊かな水源を発見できたからというのもあったが、それ以上に、自分の隣に人がいるということが嬉しかった。そう、朝山はゲーム開始以来、ずっと―――緒方孝市(背番号9)を殺そうとしたあの一時以外は―――ただ一人で、鳴り止まない銃声を聞いていたのだった。
たっぷり半日以上前に栗原健太(背番号50)に遭遇し、発砲されながらも冷静にその場から逃げ出して以降(それにしても、あんなに半狂乱で撃ってしまっては当たるものも当たらないだろうに。―――そんな忠告めいた思いも、栗原が死んでしまっていると分かった今では意味すらない)、数時間おきに移動を繰り返していた朝山は、それなりにチームメイトを目撃していた。―――生死は別にして、の話だが。
一番凄惨だったのは、福地寿樹(背番号44)の死体。自分の死に様がああだったら―――そのような想像すらしたくもないグロテスクな物体に成り下がっていた。その近くに澤崎俊和(背番号14)と黒田博樹(背番号15)の死体もあった。澤崎のそれは銃撃をくらいそのまま地面に突っ伏したような状態で放置されていたが、黒田の死体は誰かがそうしたのであろう、樹木を背もたれにして転寝するかのような格好になっていた。
金本知憲(背番号10)は、斜面を上へ上へと移動しているところを目撃した。金本からは気付かれない、わずかに離れた位置に隠れるような状態で保身していたことは、命拾いだったといっても過言ではない。岩と草木の間からわずかに確認できた、金本の武器。性能までは分からないが、昔マンガで見たマシンガンと似たような形状であった。そして、もしそれが本当にマシンガンならば、高橋建(背番号22)の呼びかけを止めたのは金本だったのかという考えも浮上した(それは全くもって正しい想像であったのだが、朝山にはマンガ程度の知識しかなかったが故に、それは結局想像止まりでここまで経過していた)。
その金本とぴったり十数メートル後をつけて石橋尚登(背番号65)が移動し、さらにその石橋の十メートル程後を、東出輝裕(背番号2)が最も腰を低くして斜面をかけあがっていった。東出が通り過ぎようとした時、「親亀の上に子亀を乗せて、子亀の上に孫亀を乗せて―――」という古い言い回しの一節を思い出し、ついニヤリとしてしまったのがこれまでのゲームで唯一笑いのこぼれた場面だったかもしれない(金本の上に石橋を乗せて、さらにその上に東出を乗せたところで、金本がこけることはないだろうなあ、などと呑気なことを考えた)。その笑みも、それから十五分もたたないうちに響いた銃声とともに消えてしまったけれども。
銃声のことを考えしばらくその場へ身を隠していたが、一睡もしていない身にその行為はあまりにも過酷で、気がついたときには眠りの淵をさまよった後のことだった。その淵で栗原健太(背番号50)が言った「上へ」という一言が妙に引っ掛かり、暗くなるのを見計らって移動を開始した。流れる小川に沿って上流を目指した。
30分も歩かないうちに流れるというよりも打ち付けるような水の音が大きくなり、視界が開けた(もっともそこは闇の中、高感度カメラ並の風景しか見えてはいない)。真冬の乾いた空気に水面からの突き刺す冷気が交じり、瞬間身震いを覚えた。とりあえず水だけ補給し、さらに上流で移動しようとして歩を進めたときに、つま先が何かにぶつかって思わず前のめりになり、体の倒れる位置に手をついて―――そして朝山は気付いた。
ゲームが始まって9番目に見たチームメイト、木村拓也(背番号0)がそこに眠っていたことを。
その時の驚きようといったら、今までのゲームの中でも一、二を争えるオーバーリアクションだったかもしれない。何とも言い表せない短い声を一つあげ、体を支えた両手をバネに体を起こしたかと思うと、そのまま数歩後退し、その勢いでバランスを崩し思い切り尻餅をついた。まるで何かのコメディを思わせる一連の動きが終わると、今度は四つん這いになりおそるおそる木村に近づいた。普通なら逃げるか隠れるかの二択だろうが、反応が返ってこないことにある程度の勘が働いていた。
朝山の勘どおり、木村は既に息をしていなかった。デイパックは枕もとにあったが、武器のようなものは存在しなかった。そしてなぜか―――木村は森笠繁(背番号41)のユニフォームを毛布か何かのようにまとっていた。
朝山はこの時、森笠が木村を殺したとは考えなかった。こんなゲームの中でなくとも、殺ったことを宣言してその場を去る犯人はほとんどいないだろう。森笠は―――木村の武器を奪ったという可能性はあるにしろ―――大方のところ、死んだ後の木村を見つけて片付けたというところだろう。それにしても、わざわざこの寒さの中、自分のユニフォームをかける理由は見当たらないけどなあ。
ふうっと息をつき、そして朝山は自分がいつの間にか四つん這いの状態から正座をしていたことに気がついた。目上の人の前ではきちんとしなきゃいけないけど、木村さんは寝てるからいいですよね。そんなことをひとりごち、水面の方へ足を投げ出し木村の横に寝転んだ。一段と澄んだ空気の向こう、無数の星が輝いていた。
そういえば、星なんてずっと見てなかったな。
それはゲームが始まってからもそうだったし、ゲーム以前、遥か彼方広島の地でレギュラーとかいう、今となっては屑同然の肩書きを目指していた頃も星を見上げる余裕などなかった。自分のことだけで必死だった。それは今だってそうだ。野球なんて生半可なレベルではない、未来の奪い合いだ。こんなちっぽけな島で自分の人生が強制終了させられるなんてまっぴらだとずっと思っていた。それ故に緒方を殺そうとしたのだ。それが、自分の未来を切り開く唯一の方法だから。仕方がなかったことだと、今でも断言することはできた。
しかし、時間がたつにつれてそれ以上に辛く感じられることが朝山の胸にはあった。このゲームの中、それは生ぬるく不必要な感情ではあったが、銃声が聞こえるたびにその思いは一層強くなった―――もう、一人でいるのが辛いのだ。人一人殺しかけておいて何を言うかと咎められるかもしれない。オーケー、そのぐらいの謗りは受けよう。けれども、既に二日近くこの島に放置されている。誰とも喋っていないんだ(緒方を脅迫した以外は)。つい三日前までは仲間と飯を食ったり、女と肌を触れ合わせたりしていたんだ。そう、今目の前に輝く星のように、同じ空間で同じ仲間がひしめきあって暮らしていたんだ。
星は多分、朝山の孤独感と仲間への飢えをより深めてしまっていた。緒方を殺そうとしたことも、栗原に殺されかけたことも、ほとんど頭の中には残っていなかったのかもしれない。会いたい、誰でもいい。誰かに会いたい。潤んできた目をふこうとして動かした右手が何かに触れた―――今はもう動かない、木村にかけられた森笠のユニフォーム。そうだ、今は木村さんが―――いる。
朝山は、既に常識の中の一部分にどこか支障をきたしていたといってもよかった。すなわち、人を望む気持ちが「死ぬ」ということへの解釈を歪ませてしまっていたし、福地や澤崎の穴が開きっぱなしになった(もちろん、福地の死体は穴どころではなかったのだが)死体に比べ、木村のそれは就寝中と言われてもおかしくない状態であったのも拍車をかけたのかもしれない。隣に木村がいると思うだけで、不安という分厚く暗い雲がさあっと晴れていくような気がした。色々な感情が混さったり消えたりする中、これだけは思えた。やっとひとりじゃなくなった、と。朝山はそれが嬉しかった。
デイパックから引っ張り出した毛布をかぶり、もう一度夜空を確認した。星はあいも変わらず瞬いている。
それを見ていたら、木村以外にも誰かに会えそうな気がした。人への遭遇が必ずしも安心なことではないということは、今の朝山が気づくところではなかった。ただ朝山は、どこかおかしくなった心持ちの中で一つだけ願った。あの星のように、もう一人ぼっちになることはありませんように、と。
【残り23人】
「薄々は予想してたけど、こんなところにいたんですね」
懐中電灯を逆さに立て光を最小限に抑えた事務室の中、扉を開けた人影が玉木重雄(背番号30)であることを確認し、広池浩司(背番号68)は言葉を発した。森笠繁(背番号41)を小山田保裕(背番号39)らに託した後、河内貴哉(背番号24)とともに入り口左手の事務室へと通された(その河内は緊張が解けたのか、向かいの机に突っ伏していた)。ほかにも数名の選手(大方投手ばかりであろう)が小学校へ身を寄せていたのだろうが、その選手たちとは違う部屋へ案内されたことが二人への警戒を解いていないことを暗に意味していることは、十分に理解できた。全く、こんなにも同僚への信用を失わせるなんて。すごいな、このゲームは!―――くそ、ゲームがなくたって投手間の信頼なんて元々薄いものさ。今年はまだいつもより防御率はよかったけどな。
「あれ、どこで見つけたの?」
「言った通りですよ。移動中に道の真ん中で倒れてたんです、あの状態で」
「そうか―――河内とはずっと一緒?」
玉木が不自然に言葉を詰まらせたことが気にかかり、広池はそれを問おうとしたが、玉木の次の質問に遮られ言葉にはできなかった。
「ええ、昨日の夕方ぐらいかな、そっからずっと一緒にいました」
「そうだったんだ。無事でよかった」
よく聞くと若干不自然さが残る発音で(それは玉木にとって日本語が母国語ではないため仕方のないことだった。自分のスペイン語だってドミニカの人間からしたら酷いもんだっただろうと、広池の頭の中、必要のない昔の思い出が一瞬蘇った)、それでも本当に安心したという感じで玉木が呟いた。
「今度はこっちから質問したいんですけど」
玉木がああ、忘れてたといった表情を作った後、一つ頷いた。
「ここには玉木さんと小山田と佐竹の他にあと誰がいるんですか?」
少し逡巡した様子を見せて、それでも話して大丈夫と判断したのか、玉木が答えた。
「小山田と佐竹は見たんだよね。後は山内さんとキク―――菊地原と横松、それに幹英。7人いる」
「誰がこのメンバーをかき集めたんですか?背番号順に見たら横松かキクさんでしょうけど―――」
広池には、菊地原毅(背番号13)はともかく、まだ入団して一年もたたない横松寿一(背番号11)などがここまでのメンバーを集めるとは俄かに想像し難かった。
「いや、僕とか小山田が中心だよ。偶然だけど、なんとか7人集めた」
「それって危なくなかったですか?攻撃とか、されなかったんですか?」
玉木の顔が翳る。
「攻撃はされなかったけど、由基さんには逃げられた。ほら、背番号近いじゃない。それで同じ方向に逃げてきたみたいだから最初に声かけたんだけどね」
前回の放送で読み上げられた田中由基(背番号36)の名前に、広池は無意識に納得の感情を覚えた。ああ、由基さんね。―――それだけで終わってしまったけれど。
「けど、それだけなら幸運じゃないですか」
「そう…だね。やっぱり最初のうちに小山田に会ったのが良かったのかな。あいつ、妙にみんなに好かれてるみたいだし」
控えめな笑みを浮かべる玉木につられて、広池も微笑んだ。そういう余裕は今はないけれど、まあ、ずっと気張ってたんだ。これぐらいはいいよな。河内だって、いつの間にか寝息を立ててるじゃないか。
「背番号だけで考えたら、玉木さんと佐竹と小山田が最初にあったってことでいいんですかね?」
「うん、それでいい。ピッチャーばかり集まっちゃったから、とりあえず逃げる中で見つけたピッチャーに声かけようってことになって」
「…そういえば、幹英さんとは最初から一緒じゃなかったんですね」
小林幹英(背番号29)と玉木は背番号が続いている。佐竹や小山田に会うよりも、まず小林に会いそうなものだと思ったのだ。
「幹英は小学校に来るまでの中では最後だったよ。ちょっと色々あったみたい」
「色々?」
「僕もよく分かんないけど。―――その前に山内さんと横松に会えていて、さすがに六人だと移動が難しいと思って、ここに逃げてきたんだよね」
玉木が時々意味深に言葉を区切るのが気になってはいたが、話を掘り下げたところで詳細は知らないのか、あくまで隠し通すのだろうと判断し、広池は話をつなぐ。
「それだとキクさんがいない」
「キクねえ」玉木が苦笑する。
「あいつ、今日の昼前に一人で無用心にこの辺歩いてたんだよ!これ、どう思う?しかもさ、武器なんか銃は銃でもおもちゃの水鉄砲でさ。それが分かった時にはみんなで大笑いしたよ」
その様子を思い出したからなのか、玉木は口元の緩みを隠し切れないでいる。いかにも彼らしいエピソードだ。それにしても、菊地原といい、何かあったのであろう幹英さんといい、ここまでまだ生存している。このグループは案外強運揃いなのかもしれない。些細なミスで壮大な計画をパァにしてしまった俺にその運をいくらか分けてほしいところだが、ここに居過ぎては終わるものも終わらない。
「キクさんらしいや」と一つ笑んだ後、広池はすぐに表情を引き締めた。やらないといけないことが、俺にはある。
机にあった電話用のメモを手元に引き寄せると、それにささっていたボールペンを紙上でくるくると踊らせ、そして書いた。
“適当なこと話すんで、あわせてもらえますか?”
怪訝な顔をした玉木を確認すると、ボールペンで首輪をさし、再びペンをメモ上に戻した。
“盗聴してるんです、こいつが”
玉木の眉間の皺がいよいよ深くなる。
「それで、今キクさんたちは?」
“ここには、このゲームを止めるための道具を借りに来たんです”
眉間の皺が消えないでいる玉木だったが、昼間の河内と同様に目についたペンを取って同じメモに疑問をぶつける。
“盗聴って本当?ゲームを止める?”
“盗聴は確認しました。それに気付かなかったせいで、ちょっと問題が起こって”
玉木が首を傾げる。河内といい玉木さんといい、ちゃんと言いたいことは書こうぜ。
“ゲームを止めようとしました。けど、河内に説明してたらそれを聞かれてたみたいで、全部ダメになりました”
“何かやられたんだ?”
“まあ、ちょっと”
そのことを事細かに書いたところで、きっと玉木は半分も理解できないに違いない。試合前にソリティアで遊ぶぐらいしかパソコンの使い道がないよ、などと以前豪語していたほどだ。
“で”
「そんなに隠さないでくださいよ。みんなと会わせてくれたっていいじゃないですか」
口と手を同時に動かすのはなかなか難しい。ただ、さっき玉木には適当なことを話すと書いたけれど、それは嘘だということに気付いた。せっかくここまで来たのに誰にも会えずにいるなんて、さすがにちょっと虚し過ぎるんじゃないか?
“軽トラと肥料がほしいんです。それがあれば何とかなりそうなので”
「いや、別に隠してないよ」
玉木もやっとのってくれた。この台詞が本心だったら嬉しいのだけれど。
“そんなもので止められるの?”
“100%うまくいくかは保証できません。今持ってるものと、そいつらを使って「走るダイナマイト」でも作ってやろうかと思ってます。危険は承知してます。だけど、やってみる価値はあると思います”
そこまで書いて、ビッと用紙を破いて玉木の前に差し出した。文字サイズを小さくしても、すぐに埋まっちまう。
「折角いるって分かったのに、会えないんじゃ寂しいですよ」
“ただ、実行する時もそうだけど、準備するのも注意が必要です。途中で邪魔が入ったら、この小学校だって半分は壊してしまうかもしれない。厳しい計画だとは思います。俺もこんなゲームでなけりゃやろうとか考えません。だから、ちょっとみんなを巻き込めない”
ここまで書いて、ちらっと玉木に視線を送った。眉間の皺は相変わらずだが、広池の言葉に何やら思いを巡らしているようだ。広池が続ける。
“できることなら、早めにこのゲームを終わらせたい。なので今すぐにでもさっきのやつと、あと作業する場所を貸してもらえませんか?それと”
ほんの少しだけ手を止めた。
“計画を実行する時になったら、河内も面倒みてほしいんです”
玉木がすぐに筆を走らせる。表情の変化はまだない。
“一人でやる気か?”
“さっきも書いたはずです。巻き込めないって。特に河内は、まだ先がある”
“お前一人だけ全てを背負うなんておかしいぞ。河内だって、きっとお前を信頼して一緒にそれをやりたかったからお前に付いてきたんだろう。それに、その話を聞いて何も手伝わないなんてありえない。俺らも何か手伝えないか?人手ならここに七人いる。危険だっていっても、一人じゃ限界があるだろ。この話をみんなにしたら、きっと分かってくれると思う”
「…分かった。じゃあ、会いにいくか。ちょっと不安がってた奴もいたから様子を見させてもらったけど、広池たちなら大丈夫そうだ」
用紙をめくりながら玉木が言葉を返す。その発言とメモの内容に、広池は久しく触れていなかった嬉しいという感情に出会えた。さすが玉木さん、ブルペンさながらのまとめ役っぷりだ。あまり情に流されてる暇もないけど、少し昔の雰囲気に浸ろう。無論、再会したところで計画に皆を巻き込むことなんて、できやしないけど。
「ありがとうございます。安心しました」
“お気持ちはありがたく頂きます。けど、みんなにはとにかくこれをやり終えるまで無事でいてほしい。成功したら、帰れる可能性はぐっと増えます。今はただ、さっきのブツ、それに作業場所さえ貰えれば”
「さて、この寝てるのはどうしましょうかね。放っておくのも何だし」
作り笑いで河内をみやる。いつの間にか眉間のしわは消えているものの心配そうにこちらを見やる玉木に、おどけたように肩をすくめる。
“No te preocupes.”(心配しないで)
これだけ書いて再度玉木の顔を覘いた。―――あれ、レスポンスが返ってこない?あ、ブラジルってポルトガル語だったっけ。けど何となく分かりますよね?スペイン語もポルトガル語も似たようなもんじゃないですか。
“何も死にに行くわけじゃないですよ。無駄なことをやる主義でもないです。大丈夫。きっと成功します。俺がそうさせますから”
メモと広池の顔を二度ほど玉木の視線が往復した後で、三枚目の最後の余白に玉木は強く書き足した。
“分かった。あとは向こうで話そう。そして、みんなで帰ろう”
【残り23人】
話し声。移動に伴う物音。あるいは殺しても殺しきれないかすかな息遣いでもよかったが、東出輝裕(背番号2)の耳に聞こえてきたのは、液体が草を叩くぱらぱらという音だった。ごく近くのやぶの中、誰かが用を足しているのだとわかった(そう、どこかの飼い犬が紛れ込んでいるのでない限りは)。首をちらっと上に向けると、漆黒に無数の光が点在する空が見えた。
佐々岡真司(背番号18)と出会い、どうにか逃げおおせた後、東出がまず考えたのは、銃が必要だということだった。兵動秀治(背番号4)や岡上和典(背番号37)と出くわしたのはほとんどアクシデントだったが、そのあと、矢野修平(背番号66)と酒井大輔(背番号67)の争う声を聞きつけて、二人を倒し、うまく銃を手に入れることができた(本当は最初から銃があれば、厳島神社へ戻り、出てくるやつを次々に片付けることもできたのだが。それができれば敵は木村拓也(背番号0)と前田智徳(背番号1)だけになるところだったのに)。そして銃さえあれば多少大胆に動き回ることも平気だったし、福地寿樹(背番号44)とやりあった後の黒田博樹(背番号15)や不意打ちをかけてきた澤崎俊和(背番号14)を倒すのも簡単だった(しかし黒田にとどめを刺しておかなかったのは本当にまずかった。気を付けなければならない)。
しかし今は、丸腰だ。兵動が持っていたナイフも使ってしまったし、手元には、最初に自分に支給されたカマがあるきりときている。何としても再び銃を入手する必要があった。なぜなら“やる気”になっているのは自分だけじゃない。あの、高橋建(背番号22)と横山竜士(背番号23)を倒したマシンガンの誰か(もし他にマシンガンが出回っていなければ、それは金本知憲(背番号10)で確定だろう。石橋尚登(背番号65)を追っていた最中、金本の右肩にそれはかかっていた)がいる。そのマシンガンの音は、夕暮れ時にもまた、けたたましく響いたばかりだ。
もちろん、その分逆に、無理して自分がほかのチームメイトを減らすことはない、そいつに任せておいて、自分は無理なくやれるときに無理なくやるということでもいい、とは言える。事実、その夕暮れ時の交戦と思われる銃声が響いた際は、東出は近づかない方がいい、と判断したのだ。マシンガンにも、そして相手がもっているのだろうと思われる拳銃(一人で撃っているにしては発砲音が多い気がした。複数で組んで行動しているのだろうか)に対しても分が悪い。そして、ただ死体が転がっていないか、万一にでも銃がないか探ろうと音の発生場所であろう位置まで動くうちに、佐々岡を見つけ後を追った。そしてそれこそ、無理なくやれる仕事のはずだったのだけれど―――。
とにかく、最終的にはそいつ、そのマシンガンの誰かとやりあうことになる可能性が高い。そのときに銃がないというのは圧倒的に不利だ。拳銃とマシンガン、どころじゃない、カマとマシンガンではそもそも勝負にならない。
もちろん佐々岡をこっそり尾けていくこともできたが、佐々岡から銃を奪い返すのは困難なような気がした。なぜ、佐々岡は自分の存在に気づいた?―――細心の注意を払って近づいた自分に。それに、今度こそ、自分を見つけたら、容赦なく撃つだろう。
そういうわけで、東出はやむなく山の中を移動しているわけだが―――今、ようやく、耳に物音が届いている。東出はその物音を頼りに、やぶの中をかき分けて進んだ。ただし佐々岡の時以上に慎重に。こちらが音を立ててはならない。
やぶが切れた。茂みの中にぽっかり開いた四畳半ぐらいもないほんの小さな空間がそこにあった。正面も右手もやはりやぶになっている。左手もまたそうで―――その隅に、ユニフォームの男が、背中を向けて立っていた。ぱら、ぱら、という音がまだ続く中、落ち着きなく顔を左右に振り向けている。
もちろん、誰かに襲われやしないかと不安でたまらないのだろうが、それで、男が浅井樹(背番号6)であることを確信した(顔を見る前に、背中の文字で見当はついていた)。身長は高め、がっしりした体で、顔はまあ―――言うのやめときましょうか。
そんなことより何より、その浅井が、用を足しながらも右手にしっかり握っているものが東出の目をとらえた。
―――銃だった。やや大型の、回転式だ。東出の口元に、またあの堕天使の笑みが浮かび上がった。
浅井の小用は、まだ終わらないようだった。随分長く我慢していたのかもしれない。浅井は相変わらず首を左右に振り向けながら、膀胱が空になるのを待っているようだった。
東出は物音を立てないようにゆっくりとカマを右手に抜き出し、待った。ズボンのジッパーを上げる時、浅井は両手を使わざるを得ないだろう。無理して片手で済ませるとしても、隙ができる。
その時が浅井さんの最期になるみたいですよ、どうもね。
音がまばらになった。一旦止まり―――もう一度ぱらっと音がして、今度は完全に止んだ。浅井はまた辺りを見回すと、さっと両手を前へ回した。
その時には、東出はもう浅井の背後へ忍び寄っていた。短く髪を刈り上げた浅井の後頭部が、目の前に迫った。右手のカマを持ち上げかけた。
誰かが背後で「あ―――」と言うのが聞こえ、浅井がそれでびくっと振り返ったのだけれど、びくっとしたのは東出も同じだった。カマを振り上げるのは(当然ながら)やめ、声のした方を振り返った。
町田康嗣郎(背番号5)が、立っていた。体つきの割に童顔なおっさんだ。右手に、それが武器なのか金属バットを提げ、東出を見つめて口を開いていた。
浅井が東出を認めてこちらも「あ―――」と言い、それから「くそっ」と言って、東出に向けて銃を持ち上げた。町田の出現自体に驚いた様子がないところを見ると、浅井と町田は一緒にいたようだ。東出は内心、歯噛みした。浅井は、ただ用を足すために少し町田から離れていただけだったのだ。それを確認しなかったなんて、俺はなんて馬鹿なんだろう!こんなところでまで二人一緒になってる必要はないでしょうに!
それどころではなかった。浅井の持ったリボルバー(どうでもいいことだが、スミスアンドウエスンM19・357マグナムだった)の銃口が、まっすぐ東出の胸の辺り(ちょうど「CARP」のR付近)を狙っていた。
「浅井!やめろよ!」
町田が、恐らく状況に対する混乱と、それに、今、目の前で人が殺されようとしていることに対する狼狽でか、引き攣った声を上げた。浅井は、今にも引き金をひきそうだったけれども、多分、撃鉄が落ちるほんの〇・数ミリ手前でその指が止まった。
浅井が銃は東出にポイントしたまま、町田の方を見た。
「なんでですか!こいつ、俺を殺そうとしたじゃないですか!こいつの右手、カマなんか持ってるじゃないですか!」
東出は「ち、違います」とのどの奥から消え入りそうな声を絞り出した。語尾を高く震わせ、もちろん、体を一緒にすくませるのも忘れなかった。またまたこのたびの主演俳優、東出輝裕さんの見せ場ってわけか。目あけてよっく見とけよ。
「お、俺」
カマを捨てようかと思ったが、握りっぱなしの方が自然に見えそうだったのでやめておいた。
「話しかけようとしただけです。そ、そしたら、浅井さん、よ、用を足してるって分かったから―――」
「嘘つくな!お前は俺を殺そうとしてたんだ!」
浅井は銃を下げなかった。しかし、銃を握ったその手が、ぶるぶる震えていた。多分―――引き金をひくのをためらわせているのは、実際に人を撃つことの恐ろしさだけだろう。東出を見た途端、ついさっきなら、勢いですぐにでも撃ったところだっただろうが、町田に止められて考える余裕ができた分だけ、ためらいが生じたのだ。そしてそれは―――
浅井さん、あんたの負けってことなんですよ。
「やめろよ、浅井」
町田が、懇願するように続けた。
「さっきも言ったろ。俺たち、仲間を増やさなきゃ―――」
「冗談じゃないっすよ」
浅井が首を振った。
「こんな糞餓鬼と一緒になんかいられるもんか。町田さんが今の俺の立場だったら、こいつを信用できますか?今までこんな調子で人を殺してきたかもしれないんですよ」
「ち、ちが―――俺、そんなの―――」
東出は目に涙をにじませた。それを見て、町田が必死な調子で言った。
「東出はマシンガンなんて持ってないじゃないか。銃だって持ってないよ」
「そんなの分からないじゃないですか!弾がなくなって捨てただけかもしれない!」
それで、町田は少し沈黙したが、ややあって、「浅井。大声上げちゃだめだよ」と言った。
それは、それまでとはちょっと違う、落ち着いた、穏やかな声だった。浅井が、虚をつかれたように口を薄く開いて、町田を見た。
東出もちょっと、おや、と思った。町田は代打の切り札としてはその存在感を存分に出しているが、普段は
自分の意見を無理に通そうとはしない、他人の意見があればまずそちらを立てるような人だったのに。
町田が首を振った。
「それに、証拠もないのに疑うなんてだめだ」諭すように続けた。
「考えてみてくれよ、東出はお前を信用したからこそ話しかけようとしたかもしれないんだぞ」
「じゃあ―――」
浅井が眉を寄せた。相変わらず銃は東出に向けていたが、引き金にかかった指の緊張は随分緩んでいた。
「じゃあ、どうしろって言うんですか?」
「どうしても信用できないんなら、俺たちが東出を交代で見張ってたらいいじゃないか。つまり、今、東出にどこかに行くように言ったって、お前の不安が解消されるわけじゃないだろ。また隙を狙われるって」
東出は感心した。なかなかどうして、やるじゃないですか、町田さん。論理的だし、話しぶりも適切だ。これが年の功ってやつですかね。―――まあ、やろうとしてることの当否は別にしなくちゃいけないけど(今撃った方がいいですよ、俺をね)。
浅井が、それで、唇をちょっとなめた。
「な。俺たち、仲間を増やさなきゃだめなんだ。それで、なんとか抜け出す方法を探さなきゃ。しばらく一緒にいたら、東出が信用できるかどうかだって、分かるはずだろ?」
町田が駄目を押すように言い、浅井は、ようやく、まだ疑わしげに東出を見ていたのだけれども、頷いた。疲れたような感じで、「分かりました」と言った。
東出は、ほうっと全身の力を抜いた(ように見せた)。涙をにじませていた目を、左手でちょっと拭った。町田も、ほっと息をついたらしいのが分かった。
「そのカマを放せ」
浅井が言い、東出は慌てて放り出すようにそれを地面へ落とした。それから、落ち着きなく浅井と町田へ、視線を交互にさまよわせた。
続けて「ボディチェックするからな」と浅井が言い、銃をぴたりと向けたまま東出へ歩み寄った。
「命がけだからな」と言い、銃を持っていない左手を東出の体に軽く走らせた。ひととおり終えると、「町田さん、ベルト貸してください」と言った。
「こいつの手を縛ってもらえませんか?」
町田が浅井に非難の視線を向けたが、浅井は銃を構えたまま譲らなかった。
「それが俺の条件です。もしそれがだめだと言うなら、俺は今すぐにこいつを撃ちます」
町田が東出と浅井を交互に眺めて、唇をなめた。それで、東出は町田に「町田さん」と呼びかけた。
「構わないから、そうしてください」
町田はちょっと東出の顔を見ていたが、ややあって小さく頷くと、自分のベルトを抜き出して東出の手をとった。
「ごめんな、チビ」
浅井が、相変わらず東出に銃を向けたまま、「愛称なんかで呼ぶこたぁないんですよ」と言ったが、町田はそれは聞こえなかったように、ただ黙って、東出の手首に軽くベルトを巻きつけた。
素直に前に手を差し出したまま、東出は考えた。全く、カマを持ち上げる前に見つかったのは不幸中の幸いだった。
さて、どうしようか。
【残り23人】
「だからさ。どうしても、誰かを探さなきゃって思ったんだ」
町田はそう言い、言葉を切って、ちらっと東出の顔を見た。少量の焚き火が放つ明るさで、東出の顔が土で汚れているのが見てとれた。
茂みの中で、二人は並んで腰を下ろしていた。もっとも、東出の手には相変わらずベルトが巻かれていたし、東出が持っていたカマは、町田が自分のズボンの後ろに差していたけれど。浅井は少し離れたところで、すうすう寝息を立てていた。これまたもっとも、銃だけは自分が握り締め、おまけにハンカチで自分の手に縛りつけすらしていたけれど。
東出がとにもかくにもこのチームに加わった後、交代で眠ろうと言い出したのは、浅井だった。
「仲間を探すのはいいっすよ、町田さん。けど、まず眠りましょう。俺たち、ずっと起きっぱなしじゃないですか。判断も鈍ります」
町田が「じゃあ、俺は後ででいいよ」と言い、それを了解した。それで、浅井は銃を持ったまま(本来は見張り役の町田にそれを渡すべきなのだろうが、そんなことは一言も口にしなかったし、町田も特に文句は言わなかった)すぐに横になり、ほんの十数秒もしないうちに寝息を立て始めたのだった。
恐らく―――東出は見当をつけた。この二人はゲーム開始直後から一緒にいたのだろう(浅井が町田を追いかけるか、町田が出口で浅井を待っておけばすぐに合流できる)。そしてそこから、あまり眠っていなかったに違いない。なぜって、もし万一(本当にごくわずかの可能性だが)、町田が自分の寝首をかくことがあったら?と恐れたからだろう。しかし、その町田以上に、いやいや遥かに怪しかろうとなんだろうと東出が加わったことで、自分が眠っても、東出と町田はお互いに監視し合うことになる。だからまあ、自分が銃を放さず、気をつけてさえいれば眠っても大丈夫だ―――こんなところだろう(もちろんその点、東出だって一睡もしていなかったが、てんで大丈夫だった。こいつらみたいなおっさんと違い、若さと体力で何とかなる)。
それで、町田と東出はしばらく黙っていたのだけれど、そのうちに、町田がこれまでの顛末(といっても戦闘も揉め事もない、ごくごく平和な二日間のお話)を話し始めたわけだった。二人で脱出の方法がないかどうか話したがうまい方法は思いつかず時間だけが過ぎていき、ほんのさっき―――浅井が用を足すために少し離れ、しかし、随分時間がかかるので心配になって町田が様子を見に行った、そこで東出を見つけた―――ということらしい。
「最初は怖くてさ。浅井も信じられないんじゃないかと思った時もあった。けど、きっと、ほとんどのやつは俺と同じようにこれから逃げようと思ってるはずだって。考え直したんだ」
町田はそこで言葉を切り、東出の方をちらっと見た。東出と目があって、またすぐに視線を落とした。しかし、東出を警戒する様子はさほどない。
それで、東出も少し安心したふうを装い、訊いた。
「浅井さんはあのピストルを持っていたんですね」
町田が「そうだよ」と頷いた。
「今は、浅井さんのことは怖くないんですか?」
オーケイ、一安心して少し饒舌。
「ううん、今だってそうです。浅井さん、あれを握って放さないじゃないですか」
町田はちょっと笑った。東出が続ける。ちょっと青ざめた感じの表情を浮かべてみせる。
「町田さんも聞いたでしょう、建さんと横山さんが死んだところを。やる気になってる人がいるんですよ。浅井さんがそうじゃないなんて、分からないじゃないですか」
言ってから、俯いた。
「―――だから、浅井さんだって俺を疑うんです」
町田は少し口元を引き締め、何度か小さく頷いた。
「そうだね。けど、じっとしてたって死ぬだけだろ。だったら、試してみる方がいい。建やヨコみたいなことはできないけど、なんとか少しずつでも仲間を増やした言って、思ったんだ」
東出の顔を見つめた。今度は、俯かなかった。
「それにさ、浅井があの銃を手放さないのはしょうがないよ。あいつ、きっと怖くてたまらないんだ」
東出は少し首を傾け、少し笑んでみせた。
「えらいんですね、町田さん」
町田が「え?」と聞き返した。東出は笑んだまま言葉を継いだ。
「そんな風に勇気のあるところも、それに、こんな状況でも、ひとの気持ちを考えられることも」
町田が面映ゆそうに視線を落とした。ぼさぼさの髪を右手でなでつけ、「そんなこと、ないよ」と言った。
「だから―――だから。浅井がお前のこと疑うの、許してやってくれないかな。あいつきっと、怖いからさ。人間不信になってるんだ」
人間不信、という語彙が、これは本当にちょっとおかしくて、東出は微笑した。それから、ちょっとため息まじりの感じで言った。
「仕方ないです。俺、こんな時じゃなくてもイメージよくないですし。町田さんだって、俺のこと、怪しいと思ってたでしょ?」
町田は、少し間をおいてから、首を回して東出を見た。わずかに微笑して「いや」と言った。
「怪しいって言うんなら浅井だって怪しいさ。俺だってそうだよ。そりゃあ、お前の態度がファンに好かれてないってことは飲み屋でよく聞かされる話さ。けど、そんなの今の状況じゃ関係ないだろ。案外、いつもは善人ですっていうやつの方が、ギリギリの状況になるとき、見境なかったりするじゃないか」
足元の草を一つむしり、再び東出の方へ顔を上げた。
「俺は、お前はそんなに悪いやつじゃないと思う」
東出は首を傾けた。
「どうしてですか?」
「うーん―――東出、ほら、目なんだ」
「目?」
「チビ、お前、いつもちょっと怖い目をしてる」
東出はちょっと笑ってみせた。肩をすくめようとしたが、手首にベルトを巻きつけられているせいでうまくいかなかった。
「そうかもしれませんね」
「けどさ、お前、時々すごく哀しげな、孤独そうな目をしてるよ。十年前の俺を見てるみたいなんだ、俺もあの時はまわりに振り回されて人を信じられなくなってたから」
東出は町田の横顔を見つめて、黙って聞いていた。
「だからといって」
また草を一つちぎり、町田が続けた。
「お前に同情するわけではないけど、でもお前はみんなが言うほど悪い人間ではないって思ってる。もし、実際お前がそういう聞こえの悪いことを実際やっていたとしても、そうでもしなきゃいけなかったような理由がある。それは、東出が悪いわけじゃないって―――少なくとも、俺は、自分のチームメイトに対してそういうことを考えられないようなつまらない人間にはなりたくないって思ったんだ」
東出は胸の中でかすかに、ため息をついた。もちろん―――甘すぎますよ、町田さん。そんなんだからレギュラーすらとれないんじゃないですか、と思っていたのだ。しかし―――
「―――ありがとうございます」
東出は微笑して、そう言った。自分でもびっくりするような、棘のない声が出た。もちろん、そう装ったのではあるけれども、それが東出自身にとっても出来過ぎと思える演技になり得ていたのだとしたら、それは、もしかしたら、その言葉にほんのちょっとばかり本物の感情が混じっていたからかもしれない。
ただ―――それはそれだけのことではあったけれど。
ややあって、町田が訊いた。
「東出は、どうしてたんだ?俺たちに会うまで」
東出は少し間を作った。ちょっともどかしそうに体を動かした。
「ずっと、逃げ回ってました。近くでピストルの音がしたりとか。だから―――だから、浅井さんを見つけたときも怖かったんですけど―――でも、もう、一人でいるのも怖かったので。声、かけようかどうか迷ってたんです、あのとき。浅井さんなら大丈夫かなって思ったんですけど―――でもやっぱり、本当に声かけた方がいいのかどうか、迷って―――」
町田はまた小さく頷いた。東出の目をちらっと覗き込み、また視線を下げて、「それでよかったんだよ。どうやら」と言った。
東出は笑んで、「そうですね」と言った。二人で顔を見合わせて、笑みを交わした。
町田はそれから、「そうだ」と言った。
「のど、渇いてないか?荷物、なくしてたろ。長いこと、水、飲んでないんじゃないか?」
デイパックは、佐々岡真司(背番号18)とやり合ったときに、その場に残したままになっていた。確かに、のどは乾いている。
「少し―――少し、もらえませんか?」
町田は東出の顔を見ないまま頷き返し、近くに転がしてあったデイパックに手を伸ばして拾い上げた。水のボトルを二つ取り出し、見比べた後、封を切っていない方のボトルを手に残して、もう一つをまたしまい込んだ。新しいボトルの封を切った。
東出は、ベルトで縛られた両手を差し出した。町田はボトルを東出に渡しかけ―――しかし、不意にその手を止めた。寝息を立てている浅井の方を見やった。手にしているプラスチックボトルへその視線を動かした。
それから、ボトルを自分の脚の脇に置いた。
あらら、やっぱり気が変わりましたか?捕虜を甘やかしたら浅井鬼軍曹に怒られますか?
しかし、町田は、黙って東出の手をとり、少し上げさせると、巻きついているベルトに指をかけた。ほどき始めた。
「町田さん―――」
東出はびっくりしたように言った(事実少しびっくりしていた)。
「いいんですか?浅井さんが怒りますよ」
町田は、視線を東出の手首に集中させたまま、言った。
「いいんだ。武器は俺が預かっているんだし。それに、縛られた手で水なんか飲んでも、おいしくないよ。そうだろう?」
町田がまたちらっと東出の方へ顔を上げた。東出が申し訳なさそうな笑みを浮かべて「ありがとうございます」と言うと、また視線を落とした。
ベルトが外れた。東出は両方の手首を交互に撫でた。ベルトがゆるく巻かれていたせいで、別に異常はない。
町田が東出にボトルを差し出し、東出はそれを受け取って、二口ばかり飲んだ。ボトルを町田に返した。
「もういいのか?」
ベルトを自分のズボンに戻しかけた手を止め、町田が訊いた。
「遠慮せずに飲んどけよ。なくなったら、どこかの家ででも調達すればいいんだから」
東出は首を振った。
「いえ、もう十分ですよ」
「そう」
町田がボトルを受け取った。デイパックへ仕舞い込んでから、自分の腰へ手を戻し、ベルトのバックルをかけた。
その町田に、東出は「町田さん」と声をかけた。町田の視線が完全に自分へ移ったことを確認して、これ以上ない笑顔を作り、そしてそっと言葉を押し出した。
「よかったです。町田さんみたいな人に会えて。俺、ずっと怖かったけど―――もう大丈夫です」
町田は、いくぶんはにかんだ様子だった。言葉をうまく作り出せなかったのか、口元が幾度か動いては止めを繰り返し、そしてようやく考えた末の言葉を発した。
「大丈夫だよ。このゲームが終わるまでお前を守るよ。浅井だっているしさ。あいつ、今はちょっとナーバスになっているけど、落ち着いたら東出が敵なんかじゃないって分かるよ。そしたら、三人でほかのみんなを探そう。それで、逃げ出す方法を考えればいい」
東出はにこっと笑んだ。
「ありがとうございます。俺、頼りにします」
もちろん、誰かを頼ることも、誰かに頼られることも東出にとってはまっぴらごめんだった。が、町田に向けたその台詞にはそういう感情は含まれていないように自分でも感じられた。
―――まあ、多分。ほとんど。
【残り23人】
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