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野村謙二郎(背番号7)は、目の前で味噌汁をすする老人を目の前にして、やや途方に暮れていた。
―――さて、どうしたもんか。
そもそも、目の前にいる老人―――紛れもなく、かの鬼軍曹、大下剛史(99年ヘッドコーチ)だった―――はなぜここにいるのか。立場的にはあの厳島神社の本堂で達川や松原などと選手の殺し合いを監視しながら茶でもすすっているべきであろう。もっとも、散々達川との確執(もちろんヘッドコーチ時代のことだが)をマスコミに暴露された大下が、その達川や、あるいはヘッドコーチになるまでは広島と縁もゆかりもなかった松原と仲良しクラブを形成している光景を、野村は少しも想像することができなかったけれども。
野村はチラリと横の緒方孝市(背番号9)に目をやった。緒方も大下退陣決定後に、大下との不仲をマスコミに噂された一人である。そしてその噂は、あながち間違いでもないことぐらい野村も承知していた。緒方は野村の視線に気づき、一瞬うんざりした表情を見せた。
―――仕方ないな。
「大下さん」
野村の呼びかけに少し不必要に間をおいて大下が「なんやぁ」と返す。野村の気分、それはまさにホームテレビの実況アナウンサー。
「何してるんですか?」
「見りゃ分かる。飯を食うとる」
緒方があからさまにため息をつく。
―――おいおい、俺がやりにくくなるんだからやめてくれよ。野村は一つ小さく咳払いをして質問を続ける。
「そうじゃなくて、何の目的でここにいるんですか?」
「ほんまはフェリー乗り場におったんじゃが、寒うなって移動してきた」
「大下さんは、達川さんたちと一緒じゃないんですか?」
その瞬間、大下は野村をギロリと睨みつけた。
「ワシがそんな事に参加すると思うんか?」
いつもよりさらに低く、鋭い声が三人のいる空間に響き渡った。
「お前もか?」
大下の視線が緒方へ滑る。
「―――ええ、まあ」
「何を馬鹿なこと言うとるんなや!」
勢いよく叩きつけられた茶碗とテーブルが激しい音を立てる。この時ばかりは野村も緒方も同じ台詞を叫びたかった。誰かに見つかるから静かに!―――当然、言えるはずがない。
「わしがこの話を聞いたのは、昨日が初めてだ」
先ほどの音とは対照的な、小さな呟き。
「達川がな、うちに電話かけてきよったわ」
その呟きに、苦笑が混じる。
「誰がこのゲームに勝つか、聞いてきよった。わしゃはらわた煮えくり返った。あいつらの好きにはさせまあ、と思うてな…今朝、船に乗ってやってきたわ」
そういってため息とともに笑った大下の顔には今まで見たこともない、寂しさ、悔しさ、やるせなさ―――コーチ業や解説での強気を帯びたものではない、諦めの匂う「負」の感情が見えた。それが野村や緒方には、逆に声をかけ辛い雰囲気を醸し出しているように感じられる。
「ワシのことを疑うとるが、お前らは誰か殺ったんか―――緒方」
「殺られそうにはなりましたけど、殺ってはいません」
「…じゃろうのう。ボール1個じゃ人は殺せんからな」
その瞬間、声を上げたのは緒方ではなかった。
「大下さん?」
「謙二郎、お前はどうなんや?お前の銃なら大丈夫じゃろうが」
「―――大丈夫って、言い方ってもんがあるでしょう?それに、なんで今朝来たばかりなのに俺らの武器を知っているんですか?あんた、やっぱり達川さんたちの―――」
仲間なんでしょう、と発する前に脇に立てかけてあったレミントンM870に手をかけたのだろう、銃口が床をこするわずかな音が食堂に拡散した。
「殺すんならやってみい」
さながら仁侠映画のように凄みのある低音で大下が返す(残念ながら野村の緒方も仁侠映画は未鑑賞だ。ただ、ここから無事に抜け出せても人を殺すような映画を見るのはほとほとごめんだ)。わずか数秒の張りつめた睨み合いが野村との間で交わされたが、野村に視線を切られた。
「こんな老いぼれに気合で負けとったら、そりゃカープは勝てんの」
薄笑いを浮かべて、大下はA4判の茶封筒をテーブルに放り投げた。二人はそれが何なのか分からなかったが、とりあえず先に野村が手にとって、懐中電灯の薄明かりを頼りに中の資料を確認しだした。
「このゲームの情報があるのは、ここだけじゃない」
資料を手にとるたびに野村の表情を確認するのを横目に、大下は再び喋りだした。
「朝、球団事務所に寄ってな。あそこも、ここのことはチェックしとるらしい。そりゃそうじゃろうな、球団の許可なしにこがなことができるわけない。そして、あいつらはわしらみたいなOBにも欲しい情報は逐一提供しちょる」
「それが、これ…」
「誰が誰を殺したとかいう資料はさすがになかったがのう。ただ、武器は分かる。これを貰うた時の生存者の場所みたいなんも、あったはずやな。どう使おうと構わん。―――お前らに託す」
「まさか、これだけのためにここへ?」
「本当はわしがこのゲームを止めるはずだったんじゃが、ああも銃声が響くと自信がのうなってきてのう。お前らを連れて帰るにも、その首輪とやらが邪魔でな。わしが無理を言うことで、お前らを殺したくはない。謙二郎と緒方なら、信頼できる」
野村も緒方も返事ができなかった。大下の“ゲームを止める”という意志が自分たちの生存確率を下げるかもしれないことは、この時は全く考えられなかった。その意志は野村の意志でもあり、緒方の意志でもあった。大下は、自らの意志のためにここまでやってきた。果たして自分たちは、大下と同じように、そして大下の信頼通りに、誰も傷つけずにこの意志のために行動できるのか。
「さて、わしは一眠りした後に一旦戻って新しい資料でも取って来るかのう。ここに持ってこれるかは分からんが」
二人の返事を前にして、大下がバッグから携帯電話を取り出し、時刻を確認する。今日連絡しても船を走らせるのは無理だと判断したのだろう。
「―――ちょっと待ってください?さっきも言ってましたけど、帰るってどうやって」
「何言うとるんじゃ、謙二郎?船で来たから、船で帰るに決まっとろう」
「その船は明日来るんですか?」
「わしが連絡したら来ることになっとる」
「連絡はどうやって?」
「質問ばっかりするな。携帯に決まっとろうが」
「大下さん―――」
野村が声を落とす。きっと資料を見落としてるんだな。
「携帯はつながりませんよ」
「何?ここは圏外か」
「そうじゃないんです。このゲームでは携帯が使えなくなってるんですよ」
「そんなことはなかろう」
大下が笑いながら自宅の番号を探し当て通話ボタンを押す。呼び出し音が鳴るか鳴らないかのうちに、受話器からけたたましい“宮島さん”が流れ出した。大下の口元から笑みが消え、それから2,3度同じような操作を行ったが、いずれも通話できないことを喜ぶかのような宮島さんが流れるばかりだった。それから大下は何も口に出せなくなってしまった。文字通りお通夜のような空気が三人の周りを支配した。
しばらく10分ほどたって、ようやく野村が口を開いた。
「大下さん」
しかし、大下は顔を上げなかった。
「ゲームを止めるんでしょう?」
野村の声だけが、しんとした部屋にこだまする。
「そのためにここに来たのに、何落ち込んでるんですか。俺らを使ってくださいよ、ゲームを止めたいなら」
横で緒方が何を言ってるんだ、と顔をしかめたが、野村は構っていられなかった。何より、こんな大下を見るのは初めてだった。
「大下さん」
二度目の呼びかけにようやく大下が顔を上げた。しかし、同時に立ち上がった。
「―――今日は寝る。明日、また話をさせてくれ」
それだけ言うと、部屋を出て行った。廊下を歩く大下の生気のない足音が、野村の心をわずかに苦しめた。

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