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佐々岡真司(背番号18)は後退したその誰かが、自分と同じユニフォームを着ているのを確認した。それはもはや広島東洋カープの選手と、一部の首脳陣しかいないこの島では当たり前のことだったのだが、それでも確認せざるを得なかった。そしてそれと同時に、その人物が東出輝裕(背番号2)であることも、薄闇の中理解することができた。
ふいに、東出が顔の前に両手を上げて後ろへ退がった。「撃たないでください!」と叫んだ。よろけてしりもちをつき、血とも土とも見分けのつかない変色したユニフォームをさらに砂利で汚して、なおそれでも後ろへ退がろうとした。
「お願いします!話しかけようとしただけなんです。佐々岡さんを殺そうなんて思ってません。助けてください!佐々岡さん!」
佐々岡はただ黙って、その東出を見下ろしていた。
その沈黙を、佐々岡に当座敵意がないと読み取ったのか、東出はゆっくり、顔の前に上げた手をあごの下まで下ろした。怯えた小動物の目で、佐々岡を見た。その目に、涙が光っていた。
「信じて―――くれるんですか?」
涙でくしゃくしゃの東出の顔に光明が差し、かすかな笑みが目元に浮かんだ。もちろん、相手をうまく騙しおおせたといったような勝ち誇ったそれではなく、心底の安堵があふれ出た、という笑みだった。
「あの―――俺、佐々岡さんなら信じられると思って―――だから―――怖かったんです、ずっと―――ひとりで、こんなことになって―――恐ろしくて―――」
佐々岡は黙って、東出の落とした銃の撃鉄を片手で戻し、東出のところまで行くと、銃把を先にして差し出した。
「あ―――ありがとうございます―――」
東出がおずおずと手を差し出し―――その手がぴたっと止まった。
佐々岡が手の中で銃をくるっと回転させ、その手に握ったので。その銃口が、ぴたりと東出の眉間に向けられていたので。
「な―――何、何するんですか、佐々岡さん―――」
東出の顔が驚愕と恐怖に歪んだ―――少なくとも歪んで見えた。全く、見事としか言いようがなかった。このゲームの中で、東出のことなど気にもかけずに今まで過ごしていれば、この顔に、態度に、間違いなく騙されていたに違いない。ただ、今の佐々岡には東出の涙を信じることができない特別な事情があった。
「もういいんだ、チビ」
佐々岡は言った。“チビ”の愛称が口から滑り出たのは、己の内にあった最後の情けからかもしれなかった。しかし、銃を構えたまま、佐々岡は少し背筋を伸ばした。
「俺は黒田に会ったんだ、あいつが死ぬ直前に」
「あ―――」
東出が、その決して大きくはない目を震わせて佐々岡を見上げた。黒田にとどめを刺さなかったことを後悔しているのだとしても、そんな色は微塵も表れなかった。ただ、怯えた表情。理解と保護を求める表情。
「ち、違うんです。あれは事故なんです。そう、俺、ずっと一人でいたわけじゃないんです。ただ―――黒田さんに会ったとき―――黒田さんの方だったんです、俺を―――俺を殺そうとしたのは。そのピストルだって本当は黒田さんの―――だから、だから俺―――」
佐々岡はさっき戻したコルト・ガバメントの撃鉄をがちっと再び起こした。東出の目がすっと細まった。
「俺は、少なくともお前よりはクロを知っている。あいつは、進んで人を殺すようなヤツでもないし、錯乱して誰にでも銃をぶっぱなすようなヤツでもない。たとえこのクソゲームの最中だろうと」
佐々岡がそう言うと、東出はちょっとあごを引き、それから、顔を傾けた。佐々岡の顔を見上げ―――そして、その厚い唇がすっと笑みの形を作った。それはぞっとさせるような笑みで、よりいっそう、東出の小憎らしさを引き出したと言っていい。
ふふ、とかすかに東出が笑った。
「即死だと思ってましたよ、黒田さんは」と言った。
佐々岡は何も言わず、じっとガバメントを東出にポイントしていた。東出はもはやそれに怯えることなく、佐々岡を見上げ続ける。
「交渉しましょう。俺を助けてくれたら、佐々岡さんは殺しません。一緒に組みましょう。悪くないですよ、俺」
佐々岡は銃を構えた姿勢のまま、動かなかった。東出の目を、正面から見据えていた。
「だめっか」東出が言った。軽やかな口調ですらあった。「そりゃそうですよね、隙見せたら俺、佐々岡さんでも殺しますもんね。それに自分の後継者を殺した選手とは一緒にいられませんよねー」
「クロはクロだ。俺の後継者なんかじゃない」
それで、東出がまた、佐々岡の目を覗き込んだ。佐々岡が続けた。
「けど、俺の、一番信頼できる後輩だったんだ」
「ふうん、そうですか」東出が眉を持ち上げた。
「だったら、どうして撃たないんですか?佐々岡さん、チーム思いだから、他の選手は撃てませんって言うんですか?」
その東出の自信に満ちた顔は、相変わらず小憎らしかった。高校を卒業してまだ丸二年もたたないこんな子供(東出はたしかこの夏に二十歳になっている。社会的に「大人」に分類されるべきなのだが、練習中や移動中の言動、服装、趣味などどれをとってみても、佐々岡にとってはまだ「子供」だと言える存在だった)が、銃を額に向けられていることなどまるで頓着していない。佐々岡はめまいがしそうだった。
「どうして―――」
かすれた声が自分の喉から出るのが聞こえた。
「どうしておまえは、平気で誰かを殺せるんだ?」
「―――ばかじゃないんですか?それ、このゲームのルールじゃないですか」
その言葉に、佐々岡が首を振った。
「誰もがそれに乗ったわけじゃない」
東出がまた首を傾けた。ややあって、相変わらずにっこり笑ったまま、「佐々岡さん」と呼んだ。キャンプ地の沖縄や日南で、赤い帽子を被った男の子に声をかけられる、そんな、暖かく、親しみのこもった言い方だった。
「佐々岡さんは、相変わらず、いい人なんですね」
佐々岡はわけがわからず、眉を寄せた。口が少し開いたかもしれない。東出は歌うように軽やかに続けた。
「いい人はいい人なんです。ある局面ではね。けれど、その人もいつだって、悪い人になりうるんですよ。あるいは、一生いい人のままで終わる人だっているかもしれませんけどね。そう、佐々岡さんは、そうかもしれない」
東出は佐々岡から視線を外し、首を振った。
「そんなことはどうでもいいんです。俺は、奪われるよりは奪う側に回ろうと思っているだけなんでね。そうすることがいいとか悪いとか、正しいとか間違ってるとか言ってるんじゃないですよ。俺はただ、“そうしたい”んです」
佐々岡の口元が、無意識に、ひきつるように震えた。
「―――なんでだ?」
東出がまたにこっと笑った。
「自分にも分かりませんねえ。けど佐々岡さんはもう“奪う側”を経験してるじゃないですか。名声もお金も奪って、それなら今の俺の気持ちだって分かるでしょう?今度はこっちの番なんです。―――佐々岡さんはここで死んでももう思い残すことはないですよね。名誉は残したし、お金ももらったし、自分がいなくても家族は一生食べていけるでしょう?だから、俺はあんたや他から全てを奪ってやるんです」
そう言い終わるか終わらないか、その瞬間に、東出の手元から銀色の光がしゅっと走った。それで、佐々岡は、東出の右手が背中に回っていたことにようやく気づいたが、そのときには、もう、佐々岡の右肩に両刃のダイヴァーズナイフが深々と突き刺さっていた(もちろんそれは、そもそもは兵動秀治に支給された武器だった)。佐々岡ののどからうめき声が洩れ、銃こそ放さなかったものの、痛みで後ろへよろけた。
東出はその隙を逃さず体を起こすと、佐々岡の脇をすり抜けるように、佐々岡の後方の木立の間に走り込んでいた。
佐々岡が慌てて振り向いたとき、その背中が一瞬見え、―――すぐに闇に消えた。
きっと―――東出を今倒しておかなければ、西山秀二(背番号32)すらもその手にかかるかもしれないとわかっていたのに、佐々岡は、東出を追うことができなかった。ただ、ナイフの周り、ユニフォームに血がじくじくと滲み出す右肩を左手で押さえ、東出が消えた闇の奥を見つめていた。
袖の中を流れた血が、右手に提げているコルト・ガバメントに伝わり、銃口の先から細い筋になって落ち始めた。足元に転がる砂利に、佐々岡の赤い血が音もなく吸い込まれた。

【残り23人】

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