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どのぐらい眠っていたのだろうか。緒方孝市(背番号9)はぼんやりと目を開けた。日も暮れ、電気もついていない部屋の中では本当に目を開けたのかどうかもわからない感じではあったが、少し離れたところにある型の古い石油ストーブの赤さと、それからくる温かい空気の流れが睡眠から覚めたことを緒方に教えてくれた。
体を起こして確認したが、どうやらこの部屋の中には野村謙二郎(背番号7)はいないようだ。体も頭もまだ気だるさは抜け切れていなかったが、ここに来た頃のような状態ではなかった。野村の出してくれた解熱剤は効果的面だったらしい。自分で選んでも効果は同じだったろうが、そもそも自分一人で行動していたら山の中でのたれ死んでいただろう。野村の存在は素直にありがたかった。
緒方は覚束ない足取りながらもベッドから出てそっとその部屋の扉を開けると、玄関とは逆へ歩いた。床から伝わる遠慮のない冷たさに、ふと、いつの間に自分はスパイクを脱いだのだろうという疑問を抱いた。と同時に、余計なことを考えてしまったせいだろう、足と意識とがうまく噛み合わず、足が絡まって思わず前のめりになる。体を支えていた壁のおかげで何とか転ばずにすんだものの、二、三歩慌てて前進した震動がかすかな音となって床を這った。その音に共鳴するかのように、一番奥の部屋から誰かが動き出す音がしたかと思うと、間髪おかず野村が顔を出した。
「―――緒方か」
その声にはどこか安堵も混ざっていたようだった。
「大丈夫か?手、貸そうか」
「いや、何とか―――」
緒方はその冷たさにだんだん足の裏の感覚がなくなるのを感じつつも、野村のいる奥の部屋まで壁伝いで進んだ。野村もいつ手を貸すか心配そうに見守っていたが、部屋の近くまで緒方を見た後で、すいと顔を引っ込めた。
野村のいる部屋は廊下の突き当たり、右側にあった。入ってすぐにダイニングテーブルと椅子が四脚置いてあり、そのさらに奥には流し台があった。いわゆるダイニングキッチン、という形式をとっているようだ。
野村は流しの横のガスコンロに向かい合って、なにやら鍋を温めているようだ。テーブルの下にどこから見つけてきたのだろう、寝袋が敷いてあった。
「何か食えるか?」
「―――ああ、軽くなら何とか」
「熱は?」
「さっきよりはないです」
「そうか」
野村の見つめる鍋から湯気が立ち上るとともに、味噌のいい匂いが緒方のもとにも漂ってくる。今度は緒方が質問する番だ。
「味噌汁ですか?」
「ああ、飯が食いたけりゃジャーをあされ。たいしたもんはなかったから、こんな食事しか作れん」
振り向かず答える野村に緒方が苦笑する。台所に向かう姿が似合わないようで、意外に似合う。
「人の家で勝手に飯を食うなんて、ドロボーみたいですね」
「ドロボーだよ。違うと思ったか?」
野村はあっさりと言い、そして、コンロの火を消して付け加えた。
「一応、心構えはしとけよ。いつ誰がここに来るか分からないからな」
緒方は「はい」とだけ返事をした。
目の前に味噌汁と、野村がよそってくれたご飯が出された。緒方は「いただきます」といい、それらをかきこんだ。暖かい食事はいつぶりだろう。―――実際には広島をたって三日とたってはいないのだが、それ以上に以前の生活に懐かしさを感じる。ここでのゲームは、それだけ心身を痛めつけていたのだ。
「また三人死んでた」
そう呟いて、野村は緒方の向かいの椅子に腰掛けた。ということは、寝ている間に午後六時の定時放送があったのだろう。
「誰が?」
「鶴田、栗原、井生だ」
―――ほんの一瞬、複雑な“何か”が緒方の心の中に浮上した。それを言い表すのは難儀なことだ。しいて言えば、容赦なく腹部に死球を当てられた時に浮かび上がる怒りや、打っても打っても打たれ返されるマウンド上の投手への焦燥、トンチンカンな質問を浴びせる記者への苛立ちなど、それらに似ているような感情かもしれない。どれにでも当てはまるようで、どれも違うような。
「朝山の事を考えてるのか?」
野村が言った。読心術?緒方は顔を上げ、野村を見た。
「気にするな。あいつがどういう状態になっているかは分からんが、今考えてもしょうがない」
「でも―――」
「朝山は銃では攻撃してこなかったんだよな」
思い出したくもない過去に意識をめぐらせ、そして緒方は「はい」とだけ答えた。
「じゃあ、今回の三人には関係ないんじゃないかと思う。お前が眠ってた時も結構銃声が響いてたんだが、この人数を考えても妥当な回数だった。みんな銃撃戦で死んだとは断定しがたいけど、一番可能性が高い死に方ではあるよな。むしろ、ここまで生き延びてて銃がないってことはかなり考えにくい。もしお前がやられかけた時のまま銃がない状態なら、絶対的不利な条件下でむざむざ戦いを挑むような奴でもないだろう」
野村の言う通りだった。自分が襲われた時も不意打ちという、朝山が絶対的に有利なポジションに立つ場面だった。あの後に銃を手に入れる可能性もなくはなかったが、そもそも銃を持っている相手からいかにして奪うのか?余程うまく、相手に気付かれないように事を遂行しなければ、奪う前に撃たれるのがオチだろう。
「それはいい。お前は本当に大丈夫か?」
緒方の思考を切るように、野村がもう一度確認するように聞く。
「山の中にいる時よりかは随分―――世話になりました」
「いや、あれで何とかなってよかったよ。もっと他に―――肺炎とか手の付けられない病気になったらどうしようかと思ってたからな。お前を放って逃げたかもしれん」
野村が苦笑する。緒方もつられて笑みを浮かべた。しかし―――
カチャン、という音が響き、野村も緒方もその表情をこわばらせた。音のした先は、玄関。
「こんな時に客か」
吐き捨てるように野村が呟き、パンツの後ろポケットに差し込んであったショットガンを手にとる。そうしているうちにも、“来客”は引き戸を開けようとして、その度につっかえ棒とひびの入った引き戸のガラスの共鳴音が響いた。
「お前はここで待て。様子を見る。やばい人間だったら、裏から逃げるしかない」
それだけ言うと、野村は壁に身を寄せながら静かに、静かに部屋を出た。緒方はスパイクを履いていないその足から全身に冷気が上るような感覚に襲われたが、そのせいか、妙に冷静だった。逃げるんならスパイクをとってこないと―――そんなことを考えた。
一方野村は緊張の真っ只中にいた。手にずっしりと重いグリップの感触が、心にものしかかる。
客はあまり「慎重」とか「疑う」とかいう言葉を知らない人間のようだった。その引き戸には野村が開ける際に割った穴があるというのに、そしてそれがあるにも関わらず扉が開かないようにされているのに、それでもムキになって開けようとしていた。―――あまり戦い慣れてない選手だな。それとも、そう見せかけてるだけか?引き戸に映る人影が看板の蛍光灯がついたり消えたりするのにあわせて現れたり消えたりしている。電気がついているとただでさえ目立つのに、それを消すのを忘れていたのは迂闊だった。
野村はさっきまで緒方が寝ていた診察室と台所の間にある待合室に身を寄せた。危険を覚悟で客に呼びかけてみようと思ったのだ。声をかけた途端、相手に発砲されたらたまったもんじゃない。それに、相手に入ってこられたら、診察室に隠れていたらあまりに玄関からの距離がなさすぎて捕まるかもしれない、とも思ったのだ。何分、自分の足が褒め称えられたのも股関節を痛める前の話だ。
「外にいる奴、動くな。撃つぞ」
野村の呼びかけに、相手は手を止めた。―――撃ってこない。銃は持っていないのか?
「誰かおるんか?」
―――おいおい、なんて間の抜けた質問だよ。ガラスが割れてるのが見えてないのか?野村はいくらか拍子抜けしたような感じを受けた。そして、すぐ、不思議に思った。聞き覚えのないような、それでいて懐かしいような声。誰だ?
「誰かおるんか、と聞いとろうが」
もう一つ、声が響いた。今度はその言い回しと、自分より年輪を重ねたような重く、どこか棘のある声質である人間の存在が浮かび上がった。が、まさか―――なぜ、こんなところにいるのだ?思わず、その名を呟かずにはいられなかった。
「―――大下さん?」

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