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午後七時を目前にして、田中由基(背番号34)は隠れていた家を出た。ほんの一時間前にあった定時放送で、この家を含む一帯が八時から禁止エリアになると、松原の放送(そういえば今回初めて達川以外が放送を行った。松原とは喋る機会もないので、今回の放送は田中にとっては最も業務的な放送に聞こえたのだが、まあともかく)で告げられたからである。
勝手口のドアを開けて出る前、上がり口脇に放っておいた鶴田泰(背番号17)の死体をちらっと見やった。しかし、見やっただけだった。特にかわいそうとも思わなかった。ここは真剣勝負、お互い様ってやつだ。事実、鶴田は自分を見た途端、容赦なく撃ってきたのだから。もっとも自分の方も、背後から何とか鶴田の首を絞めようと忍び寄ってはいたけれども。
田中は比較的禁止エリアと縁遠い住宅地に落ち着こうと計画を練っていた。禁止エリアになっていない分、誰か他の選手が既に潜伏している家に入り込む可能性もあったが、彼はあまり心配はしていなかった。何せ、今や彼は防弾チョッキ(鶴田との一戦で高性能証明済)を身につけていれば、鶴田から奪ったリボルバーを手にしており、おまけに、―――家で見つけたフルフェイスのバイク用ヘルメットをかぶっていたので。
田中はもう一度だけ自分のフル装備―――とくになれないヘルメット―――をもう一度確かめると、とりあえず家の庭を横切り、隣接する狭い畑に降り立った。
今いるところの右手前方、南側に家が二軒並んで建っているのが見えた。これはそう、地図上、民家の位置を示す青い点の表示を信じるなら、禁止エリアと隣接エリアの境界線上に当たる。―――とにかく、それより先へ動こう。
畑のあぜの端に沿い、身を低くして慎重に歩を進めだしたが、鶴田に防弾チョッキごしに撃たれた腹部の鈍痛がそれにあわせるかのように響いて、田中は自分の癇の虫が疼くのを感じた。なんで自分がこんなゲームに放り込まれないといけないのか?
鶴田を殺した後も時折銃声が聞こえていたし、何より定時放送の直前にものすごい銃撃戦の音が響いていたが、今はあたりも闇に包まれ、しんと静まり返っていた。左手には大きな広葉樹が梢を広げている。幹周りが多分四、五メートル、高さも七、八メートルはあるだろうか。
まさか―――あの上に誰かいたりはしないだろうな―――。
田中は銃を握り締め、人の気配だけに注意しながら、ゆっくりと歩を進めた。たっぷり三分は時間をかけてやっとその木を通過してから、もう一度だけ後ろを振り返った。ヘルメットの正面に開いた四角い窓みたいな視界の中、特に不審な動きはなかった。―――よし。
目指す二軒の家は、もう、すぐ近くに見えていた。
―――田中は首をもう一度、あの木へ振り向けた。木の後ろ、地面に近いところで、丸い黒いものがかすかに動いたような気がした。それは―――
人の頭、と認識したときには、田中はもうそちらへ向けて銃を持ち上げていた。もうすぐ禁止エリアに入ろうというこの地域でまだうろうろしている、一帯何者なのか―――そんなことはどうでもよかった。
引き金を絞った。手のひらにおさまったグリップから快い刺激が伝わり、やや軽めの激発音とともに銃口からオレンジ色の火炎が伸びて、田中の背筋を痺れさせた。本物だ、俺は本物の銃を撃っている!
田中は二発撃ったが、その誰かは頭を下げて動けないようだった。撃ち返してもこなかった。そりゃあそうだろう、銃を持っていたら、自分が背中を見せた時に撃っているはずだ。だからこそ今自分も、安心して引き金を引けたというものではないか。田中は、心に余裕を感じながらゆっくりその影へと近付いた。
「待て!」と、声が上がった。
その声で、その影が佐々岡真司(背番号18)なのだとわかった。なんでこんなところにいるんだよ、この馬面が。
「俺は戦う気はない」佐々岡の声が続いた。「お前は誰なんだ?」
田中は一瞬思考を巡らせた。やる気がないだって?そんなばかな。このゲームでやる気がないというのは、自殺を決めたという意味だ。トリックか?だとしても、銃を持っていないなら―――
田中は作戦を変えることにした。銃を下ろした。
フルフェイスのヘルメットのあごのガード部分を右手で少し押し下げ、「田中です」と言った。ああ、どもった方がいいよな、少し。
「ご、ごめんなさい。けけ、怪我、しませんでした?」
それで、佐々岡がゆっくりと、その大きな体を持ち上げた。田中とは逆の左肩にデイパックをかけ、右手には棒のようなものを握っていた。
「大丈夫だ。それにしてもすごい防備だな。ヘルメットか?」
「え、ええ―――こ、怖くて、ね―――」
“ね”の音が完全に終わらないうちに、田中は左手を持ち上げていた。距離五メートル。外すわけがない。
しかし、コルト・ハイウェイパトロールマンから噴き出した火炎の先に、佐々岡の体はなかった。ほんの一瞬前に、予想もつかない動きで佐々岡が体を右へ―――田中から見て左側へ倒していたのだ、信じがたい素早さで。そして、傾いた姿勢から棒を左手に持ち直すと、田中の左手首から先、炎を吐いたばかりの銃を叩き落した。
途端、左手から銃が消えていた。瞬間的に親指付け根から手首にその衝撃が走り、その痛みの根っこを押さえた。ヘルメットをかぶっていても、指は無防備だったのだ。
佐々岡が体の向きを素早く変え、払い落とした銃を手に取ると、それを構えて近付いてきた。田中は左手を押さえたまま、ヘルメットの奥から、怯え、錯乱した目でそれを見守った。そのヘルメットの中、急速に噴き出した脂汗で、顔面がぬるぬるしていた。
「やる気十分なんだな」
佐々岡が言った。
「撃ちたくはないが―――俺は撃たなきゃならない、どうしても」
その言葉の本当の意味はわからなかったし、酷い痛みを抱えてもいたが、とにかく、田中にはまだ余裕があったと言っていい。なぜなら―――、その銃口は、田中の胸へ向けられていたのだ。それもそのはずだった、田中がヘルメットをかぶったことには、その実際の防弾効果以上に、敵がそこを狙わず、田中の体を狙うよう仕向けるという思惑があったのだから。そして、ユニフォームの下には防弾チョッキがある、というわけだった。防弾チョッキが銃弾を止めてくれれば、そして隙を見て、後ろからでも襲い掛かれば―――勝てる。
田中のぎらぎらした視線の先、佐々岡はなお数瞬の間を置いたが、口元をぎゅっと結ぶようにすると、静かな目で引き金を絞った。田中は、鶴田と相対したときのことを思い出しつつ、今度はどうやったらリアルに“死ねる”か、その寸前までいささか思案していた。
しかし、ことは田中の予想以上に簡単に終わった。佐々岡が手にした銃は、かちんという小さな金属音を立てただけだったのだ。佐々岡が狼狽した表情になり、慌ててもう一度撃鉄を起こし、引き金を引いた。再び、かちん。
歪んだ笑みが、ヘルメットに隠れた田中の口元にわき上がった。―――馬鹿馬、そいつは弾切れだよ。その弾は俺の荷物の中だ。お前にはもう使えねえんだよ。
田中は佐々岡の持つ銃に飛びつこうとした。佐々岡はぎりぎりでそれをかわすと、くるっと背を向けてもうすぐ禁止エリアになる山の方めがけて逃げ出した。そして、そのまま山裾の木立の中へ消えた。田中の銃を持ったまま。
―――くそ!
追うべきかどうか田中は数秒迷い、やめた。銃を失ったのはこの戦いで一番大きかった。できることなら取り返したかったが、ここでむざむざ禁止エリア内に戻るのは馬鹿げている。それに視界が藪と闇で遮られる山の中へ入ったら、佐々岡のみならず他の人間からの攻撃もあるかもしれない。そう考えれば、今現在も遮蔽物も何もない中で、体を無防備に晒しているのは危険だった。慌てて、身を低くした。
早く目指す家にたどり着かなきゃならない。しかも、入るところを佐々岡に見られないようにしなければならない。
田中は痛む左手を押さえながらも(かなり強い衝撃だったのか、触るだけでも腫れている箇所がわかった)よたよたと立ち上がると、向かう家の方に歩き出そうとして、そして見た。目指す家の手前、六、七メートルばかり向こうの畑のあぜ道に男が立っているのを。さっきまで何もなかった空間に、わき出した様に現れたその男を。
金本知憲(背番号10)だ(どうしてこうも主戦級のやつらばかりに出くわすんだ。しかも今度は筋肉馬鹿かよ)、と認識した時には、ぱららら、という音とともにその手元から激しい火花が噴き上げ、田中の上半身にいくつもの衝撃が叩きつけた。田中は後ろに吹っ飛び、仰向けに倒れていた。背中がずずっと土をこすった。ヘルメットをかぶった頭が、続いて地に落ちた。
銃声の残響がすっ、と夜の空気の中に消えた。再び静寂が支配した。
しかし無論、田中由基は死んではいなかった。息を殺し、体をぴくとも動かさずにそこに横たわりながら、ほくそ笑みたい衝撃を押さえ付けていた。その邪悪な喜び、左手から伝わる痛み、佐々岡真司を取り逃がしたことへの苛立ち、はたまたいきなり筋肉馬鹿に急襲された怒りと、彼の情動をつかさどる大脳辺縁系辺りはもはやほとんどめちゃくちゃなことになっていたと言っていいが、とにかく、鶴田にやられた時と同じで、体の方は全然平気だった。やはり、ヘルメットをかぶっていたのは正解だったわけだ。金本は、防弾チョッキに守られた、田中の胴体部分を狙ったのだった。そして―――金本はきっともう、鶴田泰がそうだったのと同じように、田中が死んだものと思い込んでいるに違いない。
ほんのわずかに開いたまぶたの薄い隙間、映画のパノラマスクリーンみたいなその視界には金本は映らなかった。佐々岡に銃口を向けられた時と同じようにだらだらと脂汗をたらしながら、田中は金本が去るのを待った。他人が逃げるのを待つとは何とも愚かな策だが、これしか方法がなかった。そして弾が田中の上半身に命中している以上、金本がすることはもうないと思っていた。
しかし、どういうわけか、金本はその場を去らず、まっすぐ田中の方へ進んできた。
―――。
まっすぐ進んできた。田中を感情のないその冷たい目で見据えたまま。
―――なんでだ?心の中、田中はそう問うた。俺はもう死んでるんだぞ?見ろ、こんな完璧な死人が他にいるもんか。
金本の足は止まらなかった。ただ、まっすぐ進んできた。一歩、二歩―――。
俺はもう死んでるんだよ!なんでだ!
柔らかな土を踏むかすかな音がますます大きくなり、視界に金本の姿がいっぱいに広がった。穴だらけになったはずの田中の上半身を、金本のつま先が小突いた。
「バカみたいに膨らんでるが―――防弾チョッキか」
―――!
恐怖と狼狽が田中を支配し、田中は我を忘れて目を見開いた。
その瞬間、ヘルメットをかぶったその頭へ向けて、金本のイングラムから再び火線が伸びた。至近距離から放たれた弾丸の何発かはヘルメットの強化プラスチックの表面を削り取って色つきの火花を噴き、何発かは田中の頭蓋骨を貫通した後ヘルメットの中で跳弾して、田中の頭がヘルメットごとがくがく揺れた。そして当然ながらそれが終わった時には―――田中の頭部は、ヘルメットの中でもはやぐちゃぐちゃに砕けていた。
田中は、今度ばかりは死んだふりをしていたわけではなかったけれども、もう、ぴくりとも動かなかった。すっかりスープだかソースだかのボウルみたいになったヘルメットの端、首との境目から、とろとろと血がこぼれだした。
そういうわけで、田中由基は、最初二人の反応や様子を一般的リアクションだと信じ込んだせいで、三人目の冷静さを見抜けず、あっさりと死んだ。前日夕方の高橋建(背番号22)と横山竜士(背番号23)の死に様をよく聞いていれば、トドメを刺す、ということがありうるのだとわかったはずなのだが、彼にはそれほどの学習能力はなかったのだ。もちろん、この話を例に挙げなくとも、彼に学習能力がないことぐらい、広島で、全国で、海外で―――のんびりと来年の開幕を待っているファンには、もはや分かりきったことではあったのだが。

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