Back
「…山さん、朝山さん」
ふいに自分を呼ぶ声に気付いて、朝山東洋(背番号38)は振り返った。その後ですぐ、あ、見つかったらマズいのに、と思ったのだが、なぜか振り返った。広いグラウンド、横を守る右翼手から声をかけられたときのように。しかし、そこには無表情の栗原健太(背番号50)がいた。
「よかった、朝山さんいたんだ」
「お前―――」
俺の姿を見て逃げ出したじゃないか、という言葉は出てこなかった。栗原の表情に飲まれて言葉が出ないのである。たしかに栗原の顔は―――どちらかというと印象に残らない朝山のそれと比べなくとも、彫りの深い顔立ちで、他を圧倒する印象はあるのだが。それを別としても、栗原の雰囲気はいつもとどこか違った。どこが―――と冷静に見て、やっと気付いたのだ。栗原は、泣いていた。
「朝山さん、あっちへ」
「―――え?」
「上へ」
さっきまで拳銃を握ったまま下ろされていたはずの栗原の右手が、朝山を指差した。正確には、その方向へ逃げるように指示されていたのだろう。ただ指差したまま、栗原は涙を流しているのである。が、次の瞬間、朝山は再びぎょっとすることになる。目から流れている無色透明の涙が、みるみるうちに赤く染まっていったのだ。
「栗原!栗原!」
朝山は栗原に近寄ろうとしたが、足が動かなかった。というよりも、動けなかったのだ。朝山の両足がしっかりと何者かに掴まれていた。その気味の悪い十本の指の感覚が、動かそうとした足にしっかりと伝わってきたのだから。
下を向いた。たしかに自分の両足は掴まれていた。掴んでいたのは手袋をした手。手袋には「9」の数字―――。
思わず朝山は「ひいっ」と声をあげた。その見覚えのある手袋は、間違いなく緒方孝市(背番号9)が試合中に使用していた、まさにそれだったのだ。
悲鳴とともに朝山の下の地面は盛り上がり、手袋から腕、肩、そして不気味な笑みを浮かべる緒方がボコボコと浮上してくる。
「逃がさないよ、お前は俺に何をした?」
その一言で、あの一連の出来事がフラッシュバックされる。もっとも、二人で揉み合って遊歩道を転がり落ち、次に意識が戻ってきた時には緒方の姿はなかったわけだが、あれはもう緒方は死んでいて、誰かが遺体を処理したということなのか?でも名前が呼ばれない限りは生きているはずだ。
腰にまとわりつく土まみれの腕のひんやりとした感触が朝山を再び恐怖の淵へと引き戻す。両足を握っていたはずの腕が、いつの間にか腰へ、二の腕へ、肩へ、徐々に上がってきている。朝山は必死に振りほどこうとするが、か弱い女ならいざ知らず、相手は一流の野球選手。その強靭な腕を取り払うのは、まずもって無理であった。
「お前は、俺を、殺そうとした―――」
その瞬間、緒方の全体重が朝山の肩に乗せられた両腕にかけられた。朝山の足が地面に飲まれる。無駄だと分かっていても、朝山は緒方の両腕を掴みそれを引き離そうと必死にもがく。そうしているうちにも、地面は朝山をどんどん飲み込んでいく。
「いやだ、死にたくない!!」

自分の声に朝山ははっとした。いつの間にか今日最後の陽の光が、自分の体を包み込んでいた。ゲーム開始以来一睡もしていなかったのがまずかったのだろうか、気がつかないうちに寝ていたらしい。両手の手のひらにはベットリと脂汗をかいていた。夢にしては、あまりにリアルだった。しかし自分が死ぬ瞬間というのは、あれぐらいの恐怖感を感じるということだろう。それにしても―――。
栗原。なぜか自分の夢に出てきたその選手が妙に心に引っかかった。なぜ彼は泣いていたのだろうか。そして。
朝山は後ろを振り返る。栗原は「上へ」といった。朝山が身を潜める岩陰の数メートル先には小川がある。もしかして上流へ行けということか?それが何をもたらすのか?栗原は俺に何を伝えたかったのか?
朝山には、これがただの夢の一つにすぎないとは思えなかった。理由は朝山自身にもわからなかったが―――この先長くないのなら、夢にかけてもいいと思った。それが何かをもたらしてくれるなら。栗原が何かをもたらしてくれたのだったら。それが自分の終焉をもたらすことになってしまうのなら―――その時はまた策を考えるしかないが、こんなところに隠れとおすよりはましだ。
日没とともに朝山は移動を開始した。何も持たない、身一つの移動だった。

【残り24人】

Next

menu

index