「あ」
広池が声をあげた。
「動くな、お前の首んとこ、何かいる」
河内がそれで、びくっと首に手を持ち上げた。広池は「俺がとってやるよ」とそれを制し、河内に近づいた。河内の首筋に―――実は別のものに、目をこらした。
「あ、逃げた」
広池は言い、河内の後ろに回り込んだ。さらに目をこらした。
「広池さん、とれました?広池さん?」
河内が何が起こっているのかわからない、不安交じりの声で言うのを聞きながら、広池はさらに子細に観察した。
それから河内の首筋をさっと手で払って「とれたよ」と言った。座っていた椅子へ戻りながら、「小さなクモの子だった」と付け加えた。河内がそれで安堵の表情を浮かべた。広池はちょっと笑み、「さあ、地図だ」と声をかけた。河内がそれで地図を覗き込み―――その地図が裏返しになっているのを見て、眉を寄せた。
広池は立てた人差し指を口元に寄せ声を立てないよう河内に促すと、シャープペンシルを地図の裏面に走らせた。利き腕の左手で書く広池のなかなか達筆な文字が、紙の端にいくつか並んだ。
“盗聴されていると思う”
河内が顔を引きつらせ、「マジで?どうして分かるんですか?」と訊いた。広池は慌ててその河内の口に手を伸ばした。河内が了解して、精一杯見開いたままの目で頷いた。
広池はその手を離してから、「わかるよ。俺は虫にも詳しいけど、あれに害はないよ」と言った。それから念のため、またシャープペンシルを走らせた。
“俺たちは地図を見てる。疑われるようなことを口にするな”
「いいか、それでハッキングが失敗した以上、俺たちにはもう手がない」
カモフラージュのために広池は言い、続けて書いた。
“だから、あっちは俺が河内に説明するのを聞いて、俺のマックを回線から切り離したんだ。俺が甘かった。向こうは、俺たちのように反抗してくる選手を想定してたはずだ。だったら、てっとりばやい予防策は盗聴だ。当然だ”
河内が同じく机の上にある筆立てからボールペンを取り出すと、地図の端にくるくるっと試し書きをして、それから広池の文字のすぐ下に書いた。広池の字よりいくらかくせのある字だった。
“盗聴器ってどうやって?家の中全部につけたんですか?”
「だから、とにかく誰かを探そうと思う。俺たち二人じゃ何も出来ない。それで―――」
広池は言いながら、自分の首に付けられた首輪を指先で軽く叩いた。河内が目を丸くして頷いた。
“今、河内の首輪を調べた。カメラまではない。盗聴器だけだ。それとこの家にも監視カメラみたいなのはないみたいだ”
河内は首輪に手を当て、それからはっと気付いたように顔をこわばらせた。ボールペンをぎゅっと握ると、地図の裏に向かった。
“パソコンのやつ、俺に話したから失敗したんですね。俺がいなかったら成功してたんですね”
広池はその河内の肩を、シャープペンシルを握った左の人差し指でちょっとつつき、笑んでみせた。それからまたその左手を地図に向けた。
“そうかもしれないけど、気にするな。俺の不注意だったんだから。達川さんたちが気付いた時点でもしかしたら首輪を吹っ飛ばされてたかもしれない。なんでか分からないけど、俺たち、まだ生きてる”
河内がそれでまたも首輪の巻かれた首筋に手を上げ、ぎょっとした表情をみせた。しばらく広池の顔を見つめ、それからぎゅっと唇を結ぶと、頷いた。広池も頷き返した。
「大体みんなどこかに隠れていそうなんだが―――」
“いいか、今から俺のプランをここに書く。俺は適当なことをしゃべるから、合わせて話してくれ”
河内が頷いた。それから慌てて、「うーん、だけど誰が信用できて誰が殺し合いに参加してるかってのはわからないんじゃない」と言った。
うまいぜ、と思って広池はにやっと笑った。河内が笑みを返した。
「そうだな―――小山田とかは大丈夫そうじゃないか?名前を呼ばれてないのは投手の方が多いから、もしかしたら固まって逃げているのかも」
“一つ言っておくけど、ハッキングが成功してたらみんなを助けることができたかもしれない。でも今は自分たちが逃げることを考えるしかない。それはいいか?”
河内がちょっと考えた様子で、それから、書いた。
“みんなを探さないんですか?”
“そうだ。辛いけど、俺たちにはもうほかの選手にかまっている余裕はない”
河内は唇を噛んだが、結局、頷いた。それを見て広池は頷き返した。
“ただ、俺の考えてることがうまくいったら、このゲームは一時ストップする。そしたら、ほかのみんなもこのゲームから逃げられるかもしれない”
河内が小さく二度、頷いた。
「みんな俺たちみたいに家の中に隠れてるんですかねえ。銃声は山の方向からするから、そっちにいるのかな」
「そうだな―――」
広池は次に書くことを考えていたが、先に河内が書いた。
“考えていることって?”
広池は頷き、シャープペンシルを握りなおした。
“実は朝の失敗から今まで、ずっと待ってるものがある”
河内が、今度はペンを使わず首を傾けてみせた。
“このゲームの中止のアナウンス。今も待ってるんだけど”
河内がちょっと驚いた様子で、また首をひねった。広池はちょっと笑ってみせた。
“河内にいろいろ話す前、あいつらのコンピュータに入ったとき、最初にそこの全ファイルのバックアップを探したんだ。それとファイル検査ソフト。すぐに見つかった。それで、データを落とすより前に、その二つに保険としてウイルスをしかけたんだ”
河内が“ういする?”と声を出さずに口を動かした。あっ、河内、自分だけ手を動かすのをさぼってるな?
そう思ったが、広池は手を動かした。“つまり、向こうが何かトラブルが起きたと判断して、ファイルを検索するか、バックアップからファイルを回復したときに、ウイルスがあのコンピュータシステムに入るようにだ。そしたら、もうめちゃくちゃなことになって、ゲームの続行は不可能になる”
河内が感心したように何度も小さく頷いた。それで広池は、こんなことは時間の無駄だと思ったのだが、つい書きたくなって書いた。
“俺が知り合いから教わって作ったとんでもないウイルスだ。あまりのすごさに東出の身長が河内並になるかもしれないな”
河内が半ば笑い声をこらえるように、ほがらかな笑みをみせた。
“動き出したら全データぶっ壊して『オマリーの六甲颪』だけを永遠に演奏する。最初は笑えても、そのうち気が狂うぞ”
河内がますます、笑いをこらえるようにおなかを抱え、口元を押さえた。広池もちょっと、爆笑の発作を抑えるのに苦労した。
“とにかく”書いた。“さっきの俺のハッキングがばれて、向こうがそのファイル回復をやらないかと思ったんだ。そしたらゲームはもう、しばらく中止するしかない。だけど、そうはなってない。つまり、向こうは小手先だけのチェックですませたんだろう。実際俺は本体のファイルは全然いじってないわけだし”
「とりあえずシラミつぶしに探してみるか」
「けど、危ないんじゃないですか?実際さっきだって銃声がしたし」
「まあね。でも、こっちだって銃は持ってるから―――」
“それで、だ。俺の作戦っていうのは、そのファイル回復を向こうにやらせることだ。そしたらウイルスが作動する”
広池はパワーブックを引き寄せ、先刻眺めていた文章を河内に見せた。それは“五十五行”のテキストファイルだった。データのダウンロードは中断されたが、それまでにコピーを終えていたもののうち、広池が一番重要だと考えたファイルだ。横書きのプレーンテキスト、各行の一番左は「C00」から「C68」までの連続ナンバー、次が十桁のあたかも電話番号のように見える番号で、これも通しナンバーになっている。最後に、これがランダムに見える、実に十六桁の番号。各行とも、それら三つの文字列を半角のカンマが区切っていた。ファイル自体の名前は受けを狙ってるとしか思えない、“anoneanone-miyajimaCarp”というもの。
“何ですか、これ?”河内が書いた。
広池は頷いた。“俺はこれが多分、この首輪を管理するための番号だと思うんだ”
河内が、ああ、というように大きく頷いた。そう、即ち「C00」は背番号00の嶋さんで、最後の「C68」は広池さんのことだ。
“思うんだけど、要するに携帯電話と同じシステムなんだと思う。それぞれの首輪の番号があって、同時に暗証番号がある。たぶん爆破するときにも、この番号で行う。つまり”
広池は手を止めて、河内の顔を見た。続けた。
“データがウイルスにやられたら、とりわけこれがやられたら、俺たちはもう首輪を吹っ飛ばされる心配をしなくて済む。ウイルスはどんどん感染するから、フロッピーなんかで予備のファイルがあっても無駄だ。手書きで書き留められてたらちょっとつらいけど、それでもシステム自体が壊れるから、時間稼ぎにはなる”
「目星付けたとこに石つぶての雨でも降らせて、誰か逃げ出してくるか確かめるってのはどうですか?」
「うーん、ただでさえ俺たちノーコンだからなあ。こっちも危ないけど、石をぶつけられた方も怪我しそうだ」
「そんなあ、ノーコンは広池さんだけですよ」
「よくそんな憎まれ口が叩けるもんだ」
“どうやってそれをやらせるんですか?”
広池は頷き、そしてまた字を書いた。
“神社を出るとき、神殿の奥のほうを見たか?”
河内が頷いた。
“あそこにコンピュータがあったけど、覚えてるか?”
河内はまた目を丸くして首を振った。“そこまでは見てません”と書いた。
広池は軽く笑った。“俺は出て行くのが最後だったからよく見ておいた。デスクトップタイプがずらっと並んでたし、大型のサーバも一つ置いてあった。ここまでどうやって運んで設置したのかはわからないけど。そして首脳陣のほかに見知らぬ人間も数人いた。ユニフォームは着てたけど、間違いなく球団関係の人間ではないよ。ということは、あと考えられるのはあのコンピュータを操作する技術者ぐらいしか考えられない。つまり、このゲームを動かしてるコンピュータは間違いなくあそこにある。だからハッキングができなくなった今は、コンピュータのある神社ごと攻撃してそれ自体ぶっ壊したいと思ってる”。
そこまで書いて広池は一旦書くのをやめ、奇術師のような気障な仕草で手を広げた。地図の裏に戻った。
“神社に爆弾をぶち込む。それから海上へ逃走する”
河内が、今度こそ目を見開いた。“ばくだん?”と口を動かした。広池はにやっと笑った。
「けど、先に河内は武器になるものを探したほうがいいかもしれない。そんなフォークだけじゃ何かあった時どうにもならないからね」
「そうですね―――」
“俺が今ほしいのはガソリン。軽油でもいい。そして肥料。軽トラがあれば言うことない”
河内が肥料?軽トラ?という感じで眉を寄せた。広池は頷いた。
“肥料の中に硝酸アンモニウムって成分が入ってる。それとガソリンを使えば、爆弾が出来るんだ”
広池はポケットから先ほどの鎖を取り出し、それにくっついている円筒を親指と人差し指で挟むように持つと河内に示した。
“この中に雷管が―――起爆装置が入ってる。なんで俺がそんなもん持ってるのかは、暇があったら説明するが、とにかくある”
河内はちょっと考えた様子だったが、しばらくして書いた。
“ドミニカ?”
広池は苦笑して頷いた。さっきの電話の話で河内はピンときたに違いない。さらに河内が書いた。
“けど、どうやって神社にぶつけるんですか?入り口には見張りがいるらしいじゃないですか”
“だから軽トラだ”
河内が、あ、というように口を開いた。
“あの一体を禁止エリアにしてないのはなぜか知らないが、あそこに入れるうちに神社へ軽トラを突っ込ませる。荷台に爆弾を満載させてね。もちろん、ギリギリのところまで俺は運転しなくちゃならない。入り口のところまできたら海に飛び込めるよう、満潮に合わせてやらなきゃいけないと思う。神社自体は木造、さらに最近晴天続きだ。ほんの入り口で爆発させても水気がないから勢いよく燃えるはずだ。たとえ入り口に見張りがいようとも、猛スピードに突っ込んでくる自動車に抵抗する人間なんていやしないさ”
河内がまたしても感心したように何度も頷いていた。
「日が沈む前に動いた方が探しやすいと思う」
「うん―――そうですね。特定の誰かを探すよりかは簡単そうだし」
“作業のためにもその方がいい。それでだ、俺が目を付けたのはここだ”
と書くと、広池は即座に地図を表に返し、あるマークをシャープペンシルでさした。それを見て河内は“がっこう?”と口を動かした。また地図を裏返して、広池はシャープペンシルを走らせる。
“そこなら肥料は確実にある。用務員の使う軽トラがある可能性もある。すぐ近くにガソリンスタンドがある。問題は距離だ”
広池はちょっと考えて、再び書いた。
“地図だけで判断しても、ここからじゃ結構距離がある。移動する間に他に会ってしまった時に攻撃されるかもしれない。行き先の学校だっていい隠れ家になるから、誰かがいるかもしれない。計画以上の危険がともなうと思うけど、ついてくるか?もし怖かったらここにいてもいい”
すぐに河内が首を横に振った。
“ここまできたんなら何でも手伝わないと。広池さんだけにいい思いはさせませんよ”
書き終わって河内はにっと笑った。それを見て広池も笑みを返した。
「よし、じゃあ今から準備だ」と言いながら左手を走らせる。
“あまりいい計画じゃないかもしれない。脱出できる可能性は100%じゃない。それでも、他に思いつかない”
肩をすくめて、河内の顔を見た。河内がまたにこっと笑って書いた。
“やるしかないですよ”
【残り24人】
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