マッキントッシュ・パワーブックがビープ音とともに敢え無くネットワークとの接続を断ち切られてから、もう五時間近くが経過していた。広池浩司(背番号68)は、今はもう通信端末ならず、ただの計算機になってしまったパワーブックの画面、ウインドウの中の文章をたらたらスクロールしながら、ため息をついた。
あの後何度も電話をいじり直し、接続を確認し、再度の立ち上げを試みたが、パワーブックのモノクロ画面は同じメッセージを表示するだけだった。最終的にはモデムと電話の接続コードを一旦すべて外すに至り、結論したのは、結局、携帯電話そのものが完全に死んでしまったということだ。電話回線に入れない以上、もう広池の自宅のパソコンに接続することすら不可能だった。当座自分のファン(らしい人たち)が集まるヤフーのトピックスに「俺もうすぐ死にそうなんだけど、みんなの励ましが一番うれしかった」と書き込んでみることも、もちろん不可能だった。それでも何かが間違っているのではないかと、なおその電話の分解まで考え―――しかし、広池はぱたっと作業をやめた。
―――ぞっとして。
回線に入れなくなった理由は、もはやはっきりしていた。即ち達川以下首脳陣は、広池が苦労して作った特製電話、というより苦労して偽造した“第二のロム”、電話会社の技術職員が使う回線検査用電話のその番号を突き止め、その接続をほかの一般電話同様、ストップしてしまったのだ。問題は―――なぜ首脳陣がそういう対応を取ったのかということだった。ハッキングを気づかれるようなヘマをやったはずはないのだ。それだけは自信がある。
となると、考えられる理由はたった一つしかない。首脳陣は、コンピュータ回線内部の防御システム、警戒システム、あるいは手動操作による監視とは別の方法で、広池がハッキングを試みていることを知ったのだ。そして知った以上―――
広池は“それ”に気づいたとき同様、また、自分の首に巻かれた首輪に手をやった。
首脳陣が知った以上、自分は即座にこの中の火薬を遠隔操作で爆破され、殺されていてもおかしくなかったということだった。多分、河内も一緒に。
おかげで昼過ぎにとった昼食のカップラーメン(この家に置いてあったもので、二人は勝手に拝借した)は、いつもよりまずく感じられることになった。
河内は、広池がパソコンを止めてしまったのを見て説明を求めたけれど、広池は結局ただ、「だめだ。理由は分からないが、だめになった。電話が壊れたのかもしれない」とだけ答えておいた。
河内も、それ以来すっかりしょげかえった様子で、朝と同じ場所に腰を下ろしている。時々響く銃声にぽつぽつと言葉を交わすほかは、ずっと沈黙が続いていた。河内に“すごい”と言わせた広池の華麗なる脱出作戦はぱあになってしまったのだ。
だが―――俺たちをすぐに殺さなかったことを後悔させてやる。絶対にだ。
少し考えてから、広池はズボンのポケットに手を突っ込み、金色の細い鎖の輪を取り出した。その鎖には婚約者から以前貰った水晶のお守りとともに、フェロニッケル製の小さな円筒が一つ通してあった。広池は小さな傷が無数についた古臭いそれを目の前にかざした。
この円筒はドミニカでの生活を終え、ドラフトのために日本に帰るとき、世話になったフィーバー平山(駐米スカウト)からもらったものだった。「一生使うことがなければいいが、もしものために―――私の形見だと思って肌身離さず持っていてほしい」と言われたものだ。その時は軽く受け流した一言が、今ではとても重いものに感じられる。もしかすると、フィーバーはこの事態を予測していたのではないか―――。
親指ぐらいの大きさのそれは、キャップの中にゴムリングをつけた防水ケースだった。帰国後広池が中を確認すると、そこにはさらに二つ、同じようなケースを納めていた。無論、広池はその二つの中身をさらに取り出した。一見、何だかわからなかった。すぐに見当がついたのは、その二つは組み合わせて使うものらしいということだ。一方のネジ山がもう一方にぴったり噛み合った。バラして厳重に別のケースに納めてあったのは、一緒にしておくと何かまずいことがあるから―――。そして、いろいろ調べてその正体を突き止めた後も(当然バラしておくべきだった、そうでなければ危険で持ち歩けたもんじゃない)、フィーバーがどういう意図でそれを持ち続けていたのかはわからなかった。なぜならそれは、それだけでは特に役に立つものでもなかったし、あるいは、このゲームに巻き込まれるまでの広池がこれを持っていたのと同様に、単に誰かの想い出のために持っていただけなのかも知れなかった。ただいずれにしてもそれは、このゲーム下におかれたことで初めて、広池にフィーバーの、そしてこのチームの過去を推測させる一つの手がかりにはなかったのだが。
広池はいささかきしむキャップをねじり、それを開けた。開けるのは、帰国後に中身を確認したそれ以来だった。入れ子になっている二つのケースを手のひらに落とし、さらにそのうち小さい方の封を切った。
ショック防止のために、中にはたっぷり綿が詰まっていた。そしてその綿の中から、真鍮の鈍い黄色がのぞいていた。
広池はしばらくそれを見つめていた後、キャップを戻した。もう一つの小ケースと一緒に、元通り大ケースに納めた。本当は―――もしこれを使うときがくるとしても、この島を脱出した後になるだろうと思っていたのだ。あるいは神社のコンピュータを狂わせた後、必要なものを揃えて達川らを急襲するときに使うことも考えないではなかったが、―――しかし、いずれにしても今はもう、これに頼るしかない。
広池はキャップをぎゅっと締め込むと、目の前にある筆立てからファンシーな柄で囲まれているシャープペンシルを抜き出した。この部屋の主が使っていたものだろう。広池はその頭を数回押して芯を出し、さらにデイパックの中から地図を取り出した。裏返した。当然、白紙だった。
「河内」
広池が呼ぶと、膝を抱えて視線をぼんやり床に落としていた河内が顔を上げた。目が輝いていた。
「何か思いついたんですか?」と訊いた。
その時、その河内の何が気に障ったのかよくわからない。口調だったのか、言葉自体だったのか、とにかく広池の心のどこかで一瞬、何だよそりゃ、という声がした。俺が脱出方法について頭を捻っている間じゅう、おまえはぼんやりそこに座ってりゃいいってわけなのか?まさかマウンドでもそんな調子じゃないだろうな?これじゃ相手するキャッチャーも大変だよ。ちくしょう、先発が早々に降りた時の中継ぎの大変さでも思い知れよ。
―――しかし、広池はその声を押さえつけた。
河内の顔色は夏場のこんがり焼けたそれとは違って青みさえ浮かんでいた。無理もない、いつ終わるとも知れない殺し合いの緊張の中で、だいぶ疲れているはずだった。ドミニカでの荒修行の中で、広池は逆境にもびくともしない体力と精神力だけは身につけていた(マウンドでストライクが入らないのは精神力が弱いせいではない。ただ単に、コントロールがないだけなのだ)。ただし他の選手が皆それを持ちえているかといえば、そうではない。特に目の前にいる河内はまだ20歳だ。広池とでは、疲れの度合いが違うのだ。頭がうまく働かないのかもしれなかった。
それから広池は、あることにはたと気付いてぎょっとした。今、河内にちょっとでも腹を立てたということ自体、自分もまた疲れていることの証拠なのだ。もちろん、助かる見込みがほとんどないこんな状況じゃ、神経が参らない方がおかしいのかも知れないけれど。
だめだ。気を付けなきゃならない。そうでないと―――これがペナントの試合なら負けて悔しがるだけですむところだが―――このゲームでは当然の帰結として、死ぬことになる。
広池はちょっと頭を振った。
「どうしたんですか?」
河内が訊き、広池は顔を上げて笑んでみせた。
「何でもない。それより、ちょっと地図を検討したいんだ、いい?」
河内が広池の方に身を寄せようとした。
【残り24人】
|