不気味なほどの静けさを背後に支えつつ、やや引きつった表情で、そして自分が踏んだ枝の折れる音にいちいち両肩をほんのわずかではあるが飛び跳ねさせながら歩く男。それは、その年のドラフト入団生の中では端正な顔立ちをしていたお陰で、巨人の高橋由喜に似ているとさえ言われた井生崇光(背番号64)だった。
その端正な顔には宮島に放り込まれてからの疲労がありありと浮かんでいた。もっとも、彼はその時間のほとんどを水族館の中で過ごしていたので、他のチームメイトよりはまだマトモだったに違いない。今まで会ったのも偶然に迷い込んできた鈴衛佑規(背番号63)一人である。
なぜその井生が弥山の麓でうろついているのか、答えは単純明快であった。水族館のある一帯が禁止エリアに指定されたのである。ゲームスタート以降世話になった安全な逃げ場と、そして水中でゆらゆらと手を振る鈴衛の死体に別れを告げ、まだ自由に身動きの取れそうな弥山の麓へと逃げ込んだのだった。
差し込む日差しのせいか、極度の緊張のせいか、井生は歩くのをやめ、道の脇の草が生い茂る斜面にもたれかかるようにしてしゃがみ込んだ。デイパックからペットボトルを取り出し、一口だけ水を飲んだ。長期戦になるのなら食料のストックは必要になってくる。疲れたとはいえ迂闊に支給された食料を減らすことだけはできなかった。
それにしても、禁止エリアは相当効率よく考えられていた。まるで魚を網で捕獲するかのごとく、外側から外側から指定されている。生きている選手は追い詰められてただ一ヶ所空いた自由なエリアへと逃げ込み、遭遇する確率も―――全員進んでそうしているのかは分からないが、殺しあう確率も高くなっていくのだ。網で捕獲される魚は捕獲した人間の手によって運命が委ねられる。それでは、今その魚のように捕獲されようとしている俺の運命は誰の手に委ねられるのだ?ゲームを進める達川以下首脳陣?こうやって生き延びようとしている俺自身?それとも―――俺を殺すかもしれない誰かか?
突然激しい身震いが井生を襲った。嫌だ、嫌だ、俺はまだ死にたくない!宮島にきて何度も何度も叫びたかった言葉が、ここでも口をつきそうになった。たった二年間プロの世界に身をおいただけだったが、井生自身は薄々感づいてはいた。自分がこの世界では大成できないだろう、ということを。同期である東出との比較、過去大成していった選手との比較、さらには外野へコンバートされても結果を残せない自分のモチベーションの低さ―――全てが井生に「プロでの成功」から目をそむけさせていた。ただ、プロで大成しなかったからといって自分の人生が全部否定されるわけではない。それからどのような仕事に就くか分からないわけだし、その仕事で成功すれば、もしかしたらプロ野球選手としての稼ぎ以上の報酬さえ手に入れることが出来るかもしれないのだ。―――だから、俺は生きたい。これからの人生の可能性をここで絶やしたくない。だから、俺はまだ死にたくない!
もたれかかった斜面からほんの少量の土砂がこぼれ落ち、井生の頭や肩に降り注いできた。ふと顔を上げ見上げたその斜面から、今度はもっと勢いよく土砂とそして人間が―――。
「ひっ」
突然のことに井生は頭を抱えて突っ伏した。ざざざざ、という音と体に降りかかる土砂を浴びながら。
「…つうっ…」
土埃の中、誰かの声がした。こぼれかかる土の勢いが弱まったことを背中で確認して井生はおそるおそる声のしたほうを確認する。そしてそこにいたのは、自分より小柄な選手。
「―――岡上さん?」
そう呼ばれたその人影はぎくっとしたように振り返った。まさかこんなところに人がいたなんて思いもしなかったらしい。一瞬張り詰めた空気が二人の間に流れたが、それはすぐに消えた。
「なんだ、井生か。変なとこ、見られちまったな」
「いや、僕こそびっくりしましたよ。まさかこんな所で」
「お前、ヘルメットなんかかぶって何してるんだよ?」
「あ…」
それでふと、井生はかぶっていたヘルメットの存在を思い出した。何かあったときのためにと、水族館を出たときからかぶっていたものだった。
「これ、俺の武器らしいんですよ。くだらないっすよね」
「ほんとだな」
岡上は笑みとともに言葉を返したが、それもわずか一瞬、すぐに顔をゆがめて膝に手をついた。井生もその様子に一変、不安げな顔を見せて岡上に近づいた。
「岡上さん、まさか膝…」
「そっか、井生には言ったことがあるもんな。あまり調子がよくないらしい。これも仕方ないけどな、もうすぐ手術する予定だったんだから」
岡上が一軍に昇格するまでは、井生も岡上も共にウエスタンの試合に出場することがほとんどだった。だからこそプレー上の悩みとか、怪我についてなどはある程度宿舎での話題として知っていたのである。特に井生はコンバート前、岡上と同じくショートストップとして試合に出ていた。昔のことではあるが、同じポジションのライバルの調子というのが気にならないはずはなかった。
「それじゃ無理したらやばいっすよ」
「…そうだけど」
それだけ言うと岡上は不安そうに落ちてきた斜面を見上げた。何かを悟ったように井生の表情が凍りつく。
「まさか、岡上さん、今誰かから逃げてきたとか…」
岡上は何も言わずただ一回、首を縦に振った。井生の顔から血の気が引く。
「まじっすか!俺こんな所で死にたくなんかないっすよ!ねえ、岡上さんもそうでしょう!ねえ!」
「落ち着け、井生。静かにしろ。死にたくないから逃げてきたんじゃないか」
「もう嫌だ!なんで俺野球選手になんかなっちまったんだろう…岡上さんもそう思うでしょう…」
今にも泣き出しそうな顔で岡上にしがみつく井生を何とかもとのように斜面に座らせると、岡上も並んで座った。その方が足にも負担はかからない。
「俺は野球選手になってよかったと思ってるよ。将来どうなるかは分からないけど」
「そうっすか…俺はこのゲームの前から迷ってましたよ。怪我したときも、外野守るようになってからも、今年も上に上がらないままシーズン終わってしまって。なんか俺の時のドラフトで一番結果残せてないじゃないですか。矢野も酒井も一軍で投げて、俺だけ取り残されて」
「まあ、それは悩むけどな。かと言って、そのまま野球人生が終わるってわけでもないけど」
「そうっすかねえ?」
「そんなもんだって。大学時代の俺見たいだな、お前」
井生にはこのほんのひと時が、変な殺人ゲームに巻き込まれているのさえ嘘のように思えた。馴染みの友達と二人、居酒屋で酒を酌み交わしながらどうでもいいことを喋って笑っている、そんな時間を過ごしているかのようだった。
「なんか、ちょっと吹っ切れましたよ、俺。野球選手辞めたらどういう人生送って、どうやって幸せになるかとか、そんな計画ばかり考えてましたから、ここに来てずっと」
「将来の計画、か…」
「そういえば岡上さん、さっき誰に追われてたんですか?やっぱり本当にいるんですね、殺し合いやってる奴って」
「―――まあ、誰にも追われてはいなかったんだけど」
「え?」
聞き返そうと岡上のほうを見ようとして見えたのは、目の前で打ちあがった花火―――のはずはなく、いつの間にかポケットから岡上の右手へと移動していた357リボルバーの銃口から噴き出した火花で、それが井生がこの世で見た最期の光でもあった。弾は井生の額の右側から斜めに頭部を貫通し、ヘルメットの中までもをその外観と同じように赤く染めたはずだ。焦点の合わない目を開けたまま、しかし生きていた時と同じように井生の死体は斜面にもたれかかっていた。
「将来よりどうやってここを生き延びて脱出するか考えた方がよかったと思うよ、俺は」
そう呟いて再びその死体の横に岡上は腰を据え考えた。井生は今までこのゲームで会った人間の中で一番警戒心がなかった奴だったが、それが井生らしいといえばそれらしい。緊迫感がないというか、現実から目をそむけているというか。ただ―――このゲームが始まって以来、初めて岡上がプロ以前の自分を振り返るほど自分を出した瞬間とも言えたであろう。それは思いもよらなかった偶然の再会がそうさせたのか、今までで一番酷い膝の痛みで井生に見せてしまった自分自身の弱さを隠すためにそうしてしまったのかは岡上自身にも謎ではあったが、ここで思い出した過去の記憶が、このゲームで岡上を動かす部分の根底にあるということを―――岡上自身はっきりと確信したのだった。 【残り24人】
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