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雲の隙間から差し込む日差しで冷たくもまぶしく光る山道へ向けて、鶴田泰(背番号17)は動き出した。本来なら茂みの中に隠れているのが一番安全だったのだが、彼にはそれ以上そこに留まる事ができなかったのだ。全身が熱く、この真冬の薄暗い山中にいても炎天下の砂漠にいるような気分だった。
水。
水が必要だった。
長谷川昌幸(背番号19)に撃たれた傷は、左腕上部だった。血でぐっしょり濡れたアンダーシャツの袖を破いて確認したところ、どうやら弾丸は完全に鶴田の腕を貫通していた。特に銃創の出口側で皮膚が大きく裂けていたが、太い血管を危うくそれたらしく、破いたユニフォームの袖を包帯代わりにくくりつけた後、出血はしばらくして止まった。しかし―――徐々にその傷は熱を持ち、全身にそれが広がっていた。正午の達川の放送を聞く頃には、鶴田は手持ちの水を全部飲み干してしまっていた。長谷川を倒した後、新井から逃れて二百メートルほど走り、そのとき、傷を洗おうとして水をかなり使ってしまったこともある(ひどく後悔した、それを)。
それから一時間ほどしか時間はたっていなかったのだが、体の様子は明らかにおかしかった。しばらくはユニフォームの下、汗が大量に噴き出していたのだけれど、今はそれも出なくなっていた。脱水症状に近づいていたと言っていい。要するに、鶴田は撃たれた傷が原因で敗血症を起こしかけていたし、さらにはその傷を消毒しなかったこともあってか極めて早く症状が進行していたのだけれど、もちろん鶴田自身そんなことは知る由もなかった。
ただ、―――水だ。
くすんだ緑で覆われた山肌をそれでも精一杯慎重に移動している鶴田の頭の中を、長谷川への憎悪がぐるぐる回っていた。全身ののどの渇きが、その回転を加速していった。
鶴田はこのゲームで誰一人として信用するつもりはなかった。もちろん彼は広島東洋カープの一員であることははっきり自覚していたし、背番号でいうとチームの大黒柱である佐々岡真司(背番号18)の一つ前、従ってスタート後すぐに佐々岡と合流することもできたのだけど、それはしなかった。
たしかに鶴田自身は自分はカープの一員だと思っている。しかし、他のメンバーは本当にそう思っているのだろうか?三ヵ月半も怪我で離脱して、ほとんどチームの役に立てなかった自分を。チームのムードメーカーだった紀藤がトレードといえどもほぼ戦力外みたいな形でチームを追いやられ、そのかわりにのこのこと中日からやってきた自分を。喋るのが苦手で、それほど喋りかけてこない選手には特に交流を持とうとしなかった自分を。
結局、鶴田はカープの選手であることを自分に思い込ませていただけかもしれなかった。“生え抜きでない”という意識がマイナスへマイナスへと働いてしまう。それはカープの選手がほぼ生え抜きであるという、他チームと比べるとやや特殊な事情があったからかもしれなかった。西山秀二(背番号32)や木村拓也(背番号0)など、数少ないながら他所からきた選手もいるにはいたが、木村は広島で花を咲かせた、いわば遅咲きの選手であったし、西山にいたってはたった1年で南海からカープにやってきた、よってカープの“生え抜き”と間違われてもほとんど違和感のない選手だった。それに比べると一度中日で活躍してその後移籍した自分はやはり疎外感を抱かずにはいられなかった。中日から一緒にやってきた島崎毅(背番号47)や佐藤康幸(背番号48)は1年で解雇されてここには来ていない。その事実は鶴田をよりいっそう孤独にさせた。
ゲームが始まって、初めてまともに出くわした選手、倉義和(背番号40)は笑顔で話しかけてきた。「鶴田さん、大丈夫だったんですね」。その一言が神経を張り詰めさせていた鶴田の、その神経の奥底にあった何かに触れてしまったのかもしれない(もっともその時点で鶴田の神経にはどこか狂いが生じていたと言うべきなのだが)。―――大丈夫じゃいけなかったのか?「イキテイタノカ」とでも言いたいのか?その笑顔はどういう意味だ?ああ、俺は騙されない。きっと馴れ馴れしく近づいて、いつかは気を許すはずの俺をその時殺すのだろう?そうだ。そうだ。お前だけじゃない。お前らみんなそうなんだろう―――?
一度高ぶって破裂した感情は、もう元には戻らない。鶴田の脳裏の中でなにか黒ずんだ感情がぐるぐると回る中、無意識のうちに彼は自分の武器であるコルト・ハイウェイパトロールマン三八口径を手に取り、目の前にいた悪魔の笑みを浮かべる(倉の笑みは仲間が見つかったという安堵した笑みだったのだが、少なくとも鶴田の目にはそう映ってしまっていた。一種の幻覚症状みたいなものである)敵を撃っていた。敵は一発目で倒れたが、引き金にかかった指が自然と二発目を繰り出していた。しばらく何も考えず―――考えられず突っ立っていたのだが、突然襲ってきた足の震えのせいで鶴田はその場にしゃがみこんだ。
とにかく今までの人生の中で見たことも触ったこともなかった拳銃を何の違和感もなく使った自分に驚いていた。倉を撃ったという後悔はなかった。はぁはぁと音の漏れる浅い息の中、彼は自分に言い聞かせた。―――いいか、俺は平気で人殺しをするような人間じゃない。その点は確かだ。ただな、正当防衛なら話は別なんだ。まだこの辺をうろついている奴らが自分を騙して殺そうとするなら、それは全くいたしかたないことなんだ。
そして勢いに任せてこうも思った。―――もしも、もしも正当防衛で最後まで残れたんなら一刻も早くうちに帰ろう。娘たちをまっさきに抱っこしてやろう。美香と美味しいシャンパンでも飲もう。広島に来ることで負担をかけてしまった家族のことを一番に思いやって余生を過ごそうじゃないか。
そう思うと、不思議と笑い声が出た。いつの間にか足の震えも消えていた。とりあえず、その場を離れようと立ち上がってユニフォームについた土埃を掃き、視線を前に戻したちょうどその時、鶴田の目は長谷川をとらえたのだった。長谷川はどうも倉の死体しか見えていないように鶴田には思えたので、挨拶代わりに倉の死体にもう一発ぶち込んだ。長谷川がはっきりと鶴田の姿を認識し、しばらく睨みつけるような目つきで弾の飛んできた方向を見ていたのだが、心の中、踏ん切りがついたのだろう。自分の持っていた銃に手をのばすと鶴田めがけて発砲した。
それはあっという間の出来事で、長谷川の撃った弾は鶴田の左腕をとらえ、勢いで軽く飛び上がり、そのまま地面に不時着した。それでも何とか体勢を立て直し、支給の銃を構えて撃ち返した。そしてすぐ後ろにあった繁みに飛び込み動くに動けずに釘付けになっている時、新井貴浩が現れたのだ。
あのモミアゲ男―――。ふだんは遊び歩いて練習にも遅刻してくるような悪ガキのくせに、遠慮なく俺を殺そうとしやがった。とにもかくにも長谷川は片付けることができたのだけれど(俺は最初長谷川に向けて撃たなかった。あっちから攻撃してきたんだ。正当防衛だ、これは。市民球場の少ない客もみんなそう言ってくれるさ)、他の連中も倉や長谷川と同じような感じなのだとしたら、やはりこっちも容赦すべきじゃない。
それから鶴田は新井貴浩のことを考えた。少なくとも新井は自分に銃を向けてはいなかった(だからこそ余裕を持って長谷川を撃つことが出来た)。前田や森笠も一緒なのだと言った。
―――あの三人、一体どうして一緒にいるんだろうか?三人で逃げ出そうとでもいうんだろうか?
鶴田は無意識に首を振った。
ろくでもない。こんな状況で誰かと一緒にいるなんて、そんなやばいことはない。グループなんか組んでたら、後ろから撃たれても文句言えないじゃないか?それに、逃げ出すなんてとても無理だ。森笠や前田の姿は見えなかったけれど、もしあの話が本当なのだとしたら、一番可能性があるシチュエーションとして前田は森笠と新井を殺すだろう。もしかしたら森笠、あるいは新井が下克上を起こすのかもしれないが、それはわからない。誰が残っても―――その時は、またその一人とやりあうことになるのかもしれない。しかし、そんなことは今はどうでもいい。とにかく―――
水だ。
いつの間にかかなりの距離を移動していた。太陽は西に傾きかけていた。それでも、まだこの島に光をもたらしている。熱を帯びた自分の体をどうにもできない鶴田にはそれさえ忌々しく感じられた。
長谷川と倉を倒したリボルバーを握り締めたまま、鶴田は茂みの間をざざっと走った。頭を低くし、息を殺した。茂みの陰からそうっと顔を出した。狭い畑の向こうに家が一軒、ぽつんと建っていた。畑を隔てて鶴田と反対側にはやや築年数の経った家が数件建っている。地図からするとその数件の家の向こうにはホテルや寺院があり、さらにその多くに観光客用の商店街があるはずだ。移動前に確認した通り、禁止エリアの心配は今のところこの付近にはない。
鶴田はのどの渇きを我慢して、しばらく目の前の家を観察した。辺りはしんと静まり返っている。とりあえずタイミングを見計らって、姿勢を低くしたまま畑を抜けた。家のある敷地は、畑より少し高くなっていた。鶴田は畑の端で止まり、まず後ろを見回してからもう一度家を観察した。何の変哲もない、古びた平屋建ての農家だ。瓦葺の屋根には三月の地震(芸予地震と呼ばれたそれは、四国でオープン戦を行っていた時に体験したが、この辺ではめずらしく大きな地震だったらしい)で被害でも受けたのだろうか、青いビニールシートがかぶせてある。鶴田がいる畑の左手から未舗装の道路が引き込まれていて、家の前に軽トラックが一台止まっていた。原付と自転車も一台ずつ見えた。
そして反対側に顔を向けたとき、鶴田の目に探していたものがとまった。―――水道だ。たぶん畑へ水をまくときに使用するものなのだろう。もう一度周囲を確認した鶴田は人の気配のないことを確信し、水道の方へ走った。渇きと熱で頭がぐらぐらしていた。
高さ五十センチ程度の支柱から生えた蛇口に手を伸ばす。―――水だった。よかった、水道は使えた。
鶴田はリボルバーをポケットに差し、痛む左肩から、右手でデイパックをおろした。土の上に、それがどさっと落ちたが鶴田は一向に構わなかった。蛇口の下、水の出る先に自分の口を置き、がぶがぶと飲んだ。自分でも信じられないほど、水はのどの奥へと落ちていく。飲んで飲んで飲んで、頭を逆にむけ目いっぱい水をかぶり、頭を上げた鶴田の視界に人の影が映った。
ほんの四、五メートル先、ユニフォーム姿の男の影がびくっと足を止めていた。鶴田は家の方に背を向けていたのだったけれど、その影の向こうで勝手口らしいドアが開いていた。
その影が足を止めた様子で、鶴田の脳裏を幼い頃の記憶が―――鬼が振り返ったときに動いてたらダメ、というやつだ―――無意識によぎったが、そんなことはどうでもよかった。問題は、その首をすくめておどおどしている男―――田中由基(背番号34)が、両手に細いリボンのようなものを握っていることだった。一瞬のうちに、鶴田はそれがベルトなのだと確認した。
見ろ―――田中由基は、カープでいまだ芽の出ない救いようのないサウスポーだ。確か酷いノーコンで、1軍のマウンドだときっかり計ったように4回2/3で降板するというもっぱらの評判の投手だ。そんな能無しが―――俺を殺そうとしている!
ビデオ映像の一時停止が解かれたかのような感じで田中が唐突に動き、左手で握ったベルトを振り上げて襲いかかってきた。大き目のバックルが太陽の反射光を一瞬引きずった。あんなもので殴られたら肉が弾け飛ぶだろう。距離はわずかに四メートル―――。
十分だった。
鶴田は右手を体の前へ走らせ、リボルバーを握った。すっかりおなじみになったグリップの感触が手に伝わった。
田中は、もう目前に迫っていた。撃った。今度は三発続けて撃った。その全弾が田中の腹に命中し、田中のユニフォームが鮮やかに裂けるのが見えた。
田中はくるっと半回転すると―――俯せに横たわった。土埃が少し舞うと、もう、ぴくりとも動かなかった。
鶴田はリボルバーを再びポケットにつっこんだ。余計な時間を食ってしまった。とにかく今は―――水だった。
銃声をたててしまったことで、外で自分の姿をみすみす晒すのは危険だと判断した鶴田は自分のデイパックを拾い上げると、家の中へ入った。家の方に背を向けていたのはうかつだったが、もう誰かが隠れている気遣いは絶対にない。そして、田中の持っていた水があるはずだ。
その思いはあっさり現実になる。田中のデイパックはドアの内側に見つかった。鶴田はしゃがみ込み、右手だけで何とかジッパーを開けた。水のボトルがあった。一本はまだ封を切っておらず、もう一本もまだ半分残っている。ありがたかった。
鶴田は膝をついた姿勢のまま、半分残っている方の蓋を開けると、しゃぶりつくように唇を押し付け、ボトルを傾けた。これを全部飲み干しても水道水を入れれば問題はない。携帯用のペットボトルが増えるということは、それだけ水のない場所にでも隠れられる時間が増えるということである。今はここに隠れておけばいいわけだが、そのうち禁止エリアに指定されるだろう。その時は、また移動しなければならないのだ。
ごくごくと水を飲み干した。うまかった。さっき飽きるほど飲んだような気がしていたが、それでもまだ水は自分の体へ滲入することが出来た。水がないことを確認すると、ボトルを口から外し息をついた。
突然、のどにしゅるっと何かが巻きついた。ちょうど、選手の誰にも平等につけられた首輪の上の辺り。げほっと咳き込み、口の中に残っていた水が唇から霧になって飛んだ。
鶴田はその、のどの下に食い込んだものを使える右手で引き離そうともがきながら、首を捻じ曲げた。自分の顔のすぐ右側に、引き攣った男の顔があった―――田中由基、ついさっき死んだ男の顔が!
ぎりぎりとのどが締め付けられた。自分の首を巻いているのが、さっき田中が手にしていたベルトだと理解するのに数秒を要した。
なんでなんでなんで―――なんで生きているんだ、この男は?
家の中の家具や差し込む光が赤い色に染まり始めた。ベルトを引き剥がそうとする鶴田の右手の指から、爪がばりばりともげていた。血が指を伝った。
そうだ銃を―――
鶴田は思い出し、ポケットに差した銃に手を伸ばしかけた。
その腕が、鋭い歯が光るスパイクを履いた足に蹴飛ばされた。ぼきっと音がして、鶴田の右手は左手に続いて感覚を失っていた。その一瞬、ベルトが緩んだが―――すぐに元に戻った。鶴田はもうベルトを握ることもできず、ただ、不気味に歪んだ右腕を振り回した。
それも、数十秒のことだった。腕がだらんと垂れた。体がぐったり力を失った。鶴田は長谷川とまではいかなくともまずまずバランスのよい体型(他と比べるとやや細くはあったが)で、顔も地味ながらそう大きくもなかったのだが、その顔はうっ血して腫れ上がり、通常の倍ぐらいに膨張した舌が、だらっと口の中央から下へこぼれていた。
五分余りが立ち、ようやく田中はベルトを鶴田の首から離した。もう息をしていない鶴田の体がぐたりと前に傾き、上がりがまちの上にどさっと倒れ込んだ。ぱきっというこもった音がした。鶴田の顔のどこかの骨が折れたのかもしれなかった。元々くせのある鶴田の髪はめちゃくちゃな方向へ乱れ、袖を破り取った左腕だけが、鮮やかに白く浮き上がっていた。
田中由基は、しばらくぜえぜえと荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。まだ腹に痛みはあったが、さほどじゃない。全く、デイパックを開けてグレーのごわごわした変なチョッキが出てきたときはなんなんだと思ったが、性能は添付の仕様説明書通りだった。たいしたものだった。
―――すごいな、防弾チョッキというやつは。

【残り25人】


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