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人気のない道路の真ん中でなぜかテニスのラケットを振っている選手がいた。林昌樹(背番号53)である。毎日欠かすことのない朝のトレーニングをここでもやっていた。
デイパックを受け取った林は住宅地に一目散に逃げ込んだ。一晩寒空の下布団一枚だけで寝かされていた事もあって、数日前からひいていた風邪が悪化したのである。もう寒い中外で過ごすのはごめんだった。適当な民家に飛び込んで中から全ての鍵を閉めると、物色して探し出した風邪薬を飲み、一日ぐっすりと寝たのであった。おかげで体調も大分回復し、その家の子供部屋と思われる部屋から見つけてきたラケットでいつものトレーニングをしていたのであった。こんな早い時間だったら大丈夫だろうと外へ出て。
テニスのラケットを振っていると林は無心になれた。これのおかげで自分は今年一軍に上がることが出来たのだ。二軍に落ちた後もラケットを振ることだけはやめなかった。やり続けることでもう一度一軍にあがれるという希望を持ちつづけることが出来たからだ。それはきっと来季も同じであろう。もっとも、ここから無事に広島に戻れればの話だが。
どれだけラケットを振っただろうか。ふとその手を止めた。ひんやりとした朝の風が顔を流れる汗に触れて心地良かった。これが宮島でなかったら、いつもの朝とかわらない。
ふいに自分の後ろで何かが落ちる音がして、林は慌てて振り返った。
「…いた」
林の視線の先にいた男はただ一言呟いた。一瞬西山秀二(背番号32)かと思ったが、すぐにそれが間違いだと言う事に気づいた。
「カズさん?」
足元に自分のデイパックを落としたまま、木村一喜(背番号27)が立っていた。とりあえず武器を持っていないか確認したが、それらしきものは見当たらなかった。もちろん、林にも攻撃する気などなかった。ただ、立ち尽くしている木村に対してどう反応してよいのかわからず、黙って木村を見やるよりほかなかった。まるでそこだけ時が止まったかのように、しばらくの間お互いただ立ったままだった。その沈黙を破ったのは木村だった。
「トレーニングか。もう無駄かもしれないのに」
「そうかもしれないけど」
「なら何で」
「何でと言われても…頭では無駄だとわかってるつもりです。だけど、もしかしたらこのゲームが突然終わるんじゃないかとも思えるんです。このまま広島に戻れて、無事に来年のシーズンも戦えるなら…」
言っていることが滅茶苦茶なのは林自身理解していた。銃声も聞こえる。決まった時間に放送も入る。チームメイトはだんだんと少なくなっている(その放送を信じるならば、だ)。このゲームが突然終わりを迎えるなんてまずないだろう。それでも、それでも―――。
「そうだな―――帰れるかもしれない」
木村の口から漏れた一言に林は妙な違和感を感じた。―――なぜ同意したんだ?てっきり楽観視しすぎだとでも言われると思ったのに。それともカズさんは帰るための方法を知っているとでも?
「キャッチボール、せんか?」
さっきまでの話題とは全く関係のないその言葉の意味さえ理解することができず、いぶかしげな表情を浮かべた林は木村に視線を戻した。
「いや―――やらせてください、だな」
何か思うところでもあるのだろうかと自然に思えるくらい、その言葉はずっしりと重たく響いた。木村が何を目的としているのかは林にはわからない。でも、その呼びかけにのらない理由もなかった。
「ちょっと待っといてください。グラブとってくるんで」
林はそう言うと一旦家屋の中へ戻った。荷物の中からグラブを引っ張り出して、念のために支給されたスタンガンをポケットの中へ突っ込み、再び外へ出た。木村もキャッチャーミットを左手にはめ準備は出来ていた。
「やるか」
木村のその一言でキャッチボールは始まった。グラブから聞こえる「バシッ」という音と、右手でつかみなおしたボールの感触がやけに心地良い。
「なんか懐かしい感じですね」
林はそう木村に声をかけたが、返事は返ってこなかった。どことなく神妙な顔つきでボールを受けて、投げる。普通ならそんな辛気臭い顔をしないでくださいと叫んでいるかもしれなかったが、こんな状況だから何があったとしてもおかしくはない。それを聞こうなんて野暮なことをする気も林には全くなかったので、木村に合わせて黙々とボールのやり取りをすることにした。二人とも無言のまま、しばらくそのキャッチボールは続いた。木村から返ってくるボールとグラブのぶつかる音がだんだんと響きのあるものにかわってきている。―――自分に向かって投げられるボールの勢いが増している?
「林」
ボールを受け取った木村が林を呼んだ。
「座って構えてもらっていいか?思い切り振りかぶって投げたいから」
それは普通ピッチャーがキャッチャーに頼むことでしょう、と心の中では問い返した林だったが、「わかりました」とだけ返事をしていつも木村がやるみたいにグラブを(キャッチャーミットではないが大丈夫だろう)ど真ん中に構えてみせた。それを見届けて木村は何も言わずセットからオーバーハンドのフォームでボールを投げた。
重いストレートが林のグラブにおさまった。そのボールを受けた林は、ただ自分の左手に電流のように走った痺れを感じるだけだった。そしてやや間があって、それからふと我に返って言った。
「ストライクです。―――木村さん、ピッチャーでもやれるんじゃないですか?」
その言葉を聞いて木村はほんの少しばかりの微笑を見せ「ありがとう」とだけ言った。そして、左手のミットを外した。
「俺、そろそろ行くわ」
「え、行くって、どこへ?」
その質問には答えずに木村はミットをしまうと、デイパックを担いだ。
「会えたのが林でよかった」
またも即座に理解できない一言をかけられて、林には返す言葉がなかった。
「林と最後のキャッチボールが出来て、よかった」
木村はそう言うと林に深く一礼をして、逆方向へ歩き出した。“最後”という言葉とあいまった木村の後姿を見ていると、そのまま木村が帰ってこないような気がして、不安になって無意識のうちに林は叫んだ。
「待ってるんで」
その言葉に木村の足が止まる。
「何するかしらないですけど、ここで待ってるから帰ってきてください」
木村は少しばかり立ちどまっていたが、その言葉を断ち切るかのように走り出し、やがて見えなくなった。木村が投げたボールを握りしめたまま、林はその姿を見送った。わけもなくあふれる涙で目に映る風景が歪んでいた。

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