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背中から三発の弾丸を撃ち込まれた後三十分以上経っていたにもかかわらず、また、その傷及び福地寿樹にボウガンを撃ち込まれた脚の傷から大量に失血していたにもかかわらず、黒田博樹はまだ生きていた。東出輝裕はとっくに立ち去っていたが、いずれにしてもしれは黒田の知るところではなかった。 黒田は半ばまどろみ、夢を見ていた。家族が―――父親と母親、それに六つ年上の兄が、シャッターの閉まった実家のスポーツ用品店の前から黒田に手を振っていた。今日は阪神ファンにシャッター壊されてないな、とまず思った。ふと見ると、兄の英彦が涙を流しているのがわかった。「さよなら、博樹、さよなら」と言っていた。元プロ野球選手で八十近い歳なのに大柄な父親と、黒田がその顔の大方の特徴を受け継いだ母親は、ただ哀しそうな顔をして黙っていた。あほやなあ、と黒田は夢の中で思った。ろくでもないな。俺、まだ二十六年しか生きとらんのやで。兄貴、親父とお袋の事、頼むな。自分の家族ばかりにうつつ抜かしとったらあかんで。 あーあ、ほんまろくでもない。まだめぼしいタイトルも何もとってないのになあ。 それで、場面が変わって市民球場のマウンドの上に立っていた。ああ、これは幻想じゃない。実際にあった場面だ。これは―――野手陣が集まっていた。1回表の相手チームのスコアボードには「5」の数字が入っている。二、三年前のマウンドだな。いつの試合かわからない程、初回大量失点を当たり前のようにくり返していた。ベンチからコーチがやってくる。あれは大野さんだ。ということは、これは一昨年か。笘篠さんがまだ00番のユニフォームを着ていた。そうだ、笘篠さんはセカンドを守ってたんだ。ああ、赤い33番のユニフォームを着た江藤さんもいる。外野から金本さん、緒方さん、前田さんがあきれたようにこっちを見ている。この三人が揃ってるのもなんだか久しぶりに見た。でも、やっぱりいい外野陣だな。 場面がまたまた変わった。これは、まだ試合前の練習中だ。 「黒田、俺がいなくなるんだから、お前が投げる試合は全部勝てよ」 声をかけてきたのは佐々岡さんだ。そうだ、佐々岡さん、抑えに回るんだっけ。それじゃ、これは今年の風景だ。 「そんなプレッシャーかけないでくださいよ。なんで抑えなんか引き受けるんですか」 「俺だって先発やりたいよ。けど自分の都合よりチームの事を考えるとな、やっぱり断れないだろう?」 そうだよなあ。いくら自分の希望があっても、それがチームの望む方向にないのなら俺だってチームの方針に従うもしれない。変なこと言っちゃったなあ、佐々岡さんに。 自分を心配する佐々岡の顔が浮かんだ。泣いていた。 「黒田、死ぬな」 何なんですか、いきなり。泣かないで下さいよ。建さんじゃないんですから。いっそ俺まで泣きじゃくって、チームの三本柱を泣き虫で結成しましょうか。相手チームに(特に紳士球団巨人のお行儀のいいミナサマに)散々野次られそうですけどね。 神のいたずらというやつなのか、黒田はもう一度だけ覚醒した。ぼんやり目を開けた。朝のやわらかい光の中で、佐々岡真司(背番号18)が自分を見下ろしていた。最初に思ったのは、佐々岡が泣いていないという事だった。疑問はその後でやってきた。 「どうして…」 自分の唇から漏れる声が、錆びついたドアを無理矢理こじあけるような感じだった。それで、ああ、もう長くは生きられない、と確信した。 「…ここにいるんですか?」 佐々岡は、「ちょっとな」とだけ言った。佐々岡は黒田のそばに膝をついて、黒田の頭だけをそっと支え起こしてくれているようだった。自分は俯せに倒れたはずだが、仰向けになっている。近くの茂みに佐々岡が運んでくれたのか、右てのひらに下草の感覚があった(左手は―――いや、左半身全体が痺れていて、何も感じなかった。福地寿樹に側頭部をぶんなぐられた、その後遺症かもしれない)。 佐々岡はそれから、静かに「誰にやられた?」と聞いた。そうだ。それは、重要な情報だった。「東出」と黒田は答えた。福地の事は、もうどうでもよかった。「気をつけて」の言葉に、佐々岡が頷いた。それから、「すまんな」と言った。黒田は何のことかわからず、じっと佐々岡の顔を見つめた。 「俺、今日の朝、お前が走ってるのを商店街ぬけたところで見たんだ。けど、あのとき、銃声が聞こえて、一瞬だけ気をとられてしまった。それで―――お前、全速力で走っていっただろ。見失ったんだ。お前の消えた方へ走って呼んだんだけど―――もう、遠くへ行った後だったんだろうな」 黒田は、ああ、と思った。確かに、隠れている家を出て走り出してしばらくしたときに、何かかすかに声が聞こえた気はしたのだ。でも、銃声でなかば混乱していて空耳かと思ったし、そのまま全速力で走りぬけたのだ。 ああ。佐々岡は自分を呼んでくれたのだ。危険を冒して、あんな誰が隠れているか わからないようなところで、自分を呼んでくれたのだ。それで多分―――さっき佐々岡は“ちょっとな”と言ったけれど、自分の事をずっと探していてくれたのかもしれない。そう思うと、黒田は泣きそうになった。しかし、かわりに顔の筋肉を何とか動かして、笑みをつくった。 「そう―――だったんですか」と言った。「ありがとうございます」 黒田は、もうあまり言葉を喋れないのがわかっていたし、何を喋るべきか選ぼうといくつか考えていたのだけれど、全然どうでもいいことが頭に浮かんで、それを口に出してしまった。 「佐々岡さん、俺―――エースになれますか?」 佐々岡は静かに眉間にしわを寄せて、「そうだなあ」と少し考えるように言った。 「年間通して勝つことはできないし、四球は多いし、一発病だし、何回も打球を足に当ててコーチやトレーナーを心配させすぎるし、まだまだだなあ」 「そうっすか…」 中には佐々岡に当てはまるようなものもあったが、それはあえて言わず、黒田は一つ、大きく息をした。奇妙にとても冷たく、そしてなぜか同時にとても熱く感じられる体の中に、じわっと毒が腫れ上がるような感じがした。 「もしよかったら、もうちょっとこのままでいてもらえますか?すぐ…終わるんで」 それで、佐々岡が唇を引き結ぶと、黒田の上半身を起こして、自分の右腕を黒田の背中に回してその体を自分の肩に預けるようにおいた。黒田の首がぐったり後ろに倒れそうになったが、それも佐々岡が支えてくれた。まだ―――まだひとこと言えそうだった。 「佐々岡さん、来年はずっと先発ローテにいてください」 ―――もう一言いけるかな。黒田は佐々岡の顔を覗き込んで、にっと笑った。 「最後には、佐々岡さんを追い抜いて、俺がカープのエースになりますから」 「わかった」と佐々岡が言った。「けど、そんなに簡単にその称号は渡さんからな」 黒田はふっと笑み、わかってます、と言いたかったのだけど、もうのどから十分な息が出なかった。ただ、佐々岡の顔をずっと見つめていた。感謝していた。少なくとも、俺はひとり寂しく死ぬわけじゃない。最後に一緒にいてくれる誰かが、佐々岡さんでよかった。本当によかった。 その姿勢のまま、黒田博樹は、約二分後に死んだ。目は最後まで開いたままだった。佐々岡真司は、生命を失ってぐたりと全身を自分の肩に委ねている黒田の体を支えたまま、しばらく、泣いた。 【残り31人】
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