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背後で福地が舌打ちするのが聞こえたような気がした。いつも練習でやっているスタートダッシュで十五メートルたっぷりは離れたと思ったとき、右脚に衝撃が跳ね、黒田は前のめりに倒れていた。頬が湿った土から顔を出した木の根にこすられ切れるのが分かった。続いて襲ってきた脚の痛みよりも、黒田はその、顔に傷がついたという感覚に激怒した。毎週きまって人前で投げる、このローテーションピッチャーの俺の顔に傷をつけやがった、あのクソ野郎!
黒田は体をぐっとひねって土の上に座り込んだ。右脚太腿の後ろ側に、ユニフォームごしに銀色の矢が付き刺さっていた。傷の下側、よく発達した筋肉の上を血が伝い降りていくのがわかった。
福地が追いついてきた。黒田が座り込んでいるのを見てとって、ボウガンをがちゃっと地面に落とすと、代わりにベルトから短い鎖で結ばれた二本の木の棒のようなもの―――ヌンチャクを抜き出し、右手に構えた。その鎖がちゃらっと揺れた。
黒田は地面に落ちたボウガンをちらっと見て思った。お前、後悔するで、それを捨てたことをな。
「お前が悪いんだ」やや息を弾ませた福地が口を開いた。「俺を怒らせるからだ」
黒田は地面に座り込んだ姿勢のまま、福地を睨み上げた。この男、まだ言い訳を探している。全く、よくもまあこんな男と長い間、一緒に野球をやっていたもんだ。
「ちょっと待てや」
黒田はいい、福地が眉根をひそめる間に膝立ちに立ち上がると、背中側に右手を回し、歯を食いしばって一気に矢を抜いた。肉が裂ける感覚が伝わり、それでまた、どっと血が流れ出すのがわかった。矢を放り出すと、福地を睨みつけながら立ち上がった。大丈夫。痛みはひどいが、立つのに障害はない。アイスピックを右手に移した。
「やめとけよ」福地が言った。「無駄だ」
黒田はアイスピックを水平に倒して福地の胸を指した。予告ホームランでもやってるみたいだな、ホームランなんて全く縁がなかったけどな、と全く関係ないことを思って、言葉を発した。
「試合って言ったな。―――相手になってやる。てめえみたいなやつには絶対負けんわ。俺の全存在をかけて、お前を否定してやる。わかったか?理解したか?走るしか能のないやつにはわからないか?」
福地が顔を歪め、ヌンチャクを顔の高さに上げた。黒田もアイスピックを握りしめた。福地との間に、ぎりっと緊張が張り詰めた。体つきはそんなにかわらない。福地には俊敏さは負けるだろうが、タフさなら負けない(そりゃそうだ、俺は全球団見てもナンバーワンの完投能力の持ち主なのだから)。しかし、かなりの深手をおった右脚の傷が気になった。―――まあいい、こいつには負けない。絶対にだ。
いきなり、福地の方が動いた。前へ出ながら、ヌンチャクを斜め上から振り下ろしてきた!
黒田はそれを左手で受けた。二の腕にじいんと痺れが走って、脳の中心まで一気に突き抜けた。その痺れを感じながらも、右手のアイスピックを振り上げた。福地が顔を歪め、跳び退ってそれをよけた。再び、二メートルの距離。黒田の左手はじんじんしていた。しかし大丈夫、骨は折れてない。
第二撃が来た。今度はテニスのバックハンドの要領ですくいあげるようにヌンチャクを振り回してきた。黒田は頭を下げて体を傾かせ、それをよけた。そしてすかさず、その福地の右手首へ向けてアイスピックをふるった。ざっという軽い手応えが伝わり、福地がかすかにうめいて後ろへ退がった。
また距離ができた。ヌンチャクを構えた福地の手首に、赤い色が見えた。しかし、ダメージは大したことないようだ。一方、黒田の右脚の傷は、どくどくと脈打っていた。傷から下のユニフォームがほとんど真っ赤に染まっているのがわかった。多分、そう長くはもちこたえられないだろう。ぜえぜえという音にも気づいた。自分の唇から漏れている音だと、これもわかった。
福地が再び、ヌンチャクを振り回してきた。黒田から見て、頭の左上から、肩口の辺りを狙って。黒田は前へ出ていた。練習中に暇そうな若手を見つけては技をかけている(新井がいればたとえ誰がいてもそっちに走っていったが)金本がいつか教えてくれたことをこの時なぜか思い出したのだ。“間合いを外したらダメージはぐんと下がる。恐れることなく前へ出るってのも時には大事だ”。
肩にヌンチャクが当たったが、その通り、それは鎖の辺りでたいした衝撃ではなかった。黒田は福地の胸元へ飛び込んでいた。驚愕に目を見開いた福地の顔が眼前にあった。アイスピックを振り上げた。しかし、福地が空いた左手で黒田を思い切り突き飛ばした。黒田は傷ついた右脚からバランスを失って仰向けに倒れこんだ。福地が危うく刺されそうになった胸の辺りを左手で撫でながら、黒田を見下ろしていた。
「なんて野郎だ」
そう言うと、ゆっくり体を持ち上げた黒田に、福地はすかさずまたヌンチャクを振り下ろしてきた。今度は顔をめがけて!
黒田はアイスピックを持ち上げ、それを受けた。きいんという高い金属音とともにアイスピックが消え、すぐ近くの土の上に転がった。黒田の手のひらに重い痛みだけが残った。
黒田は唇を噛んだ。福地を睨みつけたまま、後ずさった。福地が口元を笑みの形に歪めて、一歩、二歩と前へ出た。くそ、こいつはまぎれもない異常性格者だ。目の前の人間を殺すことに何の禁忌も持っていない。むしろ、楽しんですらいる!
福地がもう一度ヌンチャクをふるった。すっと上半身を引いて躱し―――しかし、ヌンチャクはその黒田の体を追ってきた。多少その扱いに慣れたという事なのか、福地がなめらかな動きでその腕を伸ばしたのだ。
がん、と左の側頭部に衝撃がきて、黒田の体がぐらっと傾いた。左の鼻腔から、つっと温かい液体が流れ出したようだった。黒田の体が沈みかけていた。福地は、しとめた、という表情をしていたのかもしれない。しかし、そのぐらっときた姿勢のまま、黒田の切れ長の目がすっとすぼまった。体を倒しざま、その脚を伸ばして福地の左膝を外側から思い切り蹴っていた。ごっ、と福地がのどの奥からうめき声を漏らし、左膝をついた。体が泳ぎ、その左膝を軸に体が半回転した。背中が半分見えた。
ここでアイスピックを拾い上げることに執着していたら、黒田は敗れていたかもしれない。だが、彼はそうしなかった。福地の背中に飛びついていた。おぶさるように、その頭を抱え込んだ。体重がかかった勢いで、福地が前のめりに倒れた。
黒田は福地に半ば馬乗りになった姿勢で福地の短い髪の毛をつかんで、その頭をぐいと引き上げた。位置は、もちろんこんなことしたことはなかったが、見当がついた。福地が黒田の意図を理解したのか、反射的に目をつむるのがわかった。
無意味だった。フォークボールを投げる時のようにかまえられた黒田の右手人差し指と中指は、しっかり閉じられた福地のまぶたを割って、福地の眼窩にもぐりこんでいた。
「ああああああああああああああああ」
福地が絶叫した。腕をつき、膝をついた姿勢のままで体を起こし、ヌンチャクからも手を離して黒田の手をかきむしった。体をめちゃくちゃに動かし、黒田を払い落とそうとした。なんなんだ、俺はロデオをやってるわけじゃないんだ、そんなに暴れるなよ。
黒田はしっかり福地に組みついて離れなかった。さらに指を押し込んだ。人差し指も中指も、第二関節までずぶっと福地の目に沈んだ。途中黒田の手にちょっとした衝撃が伝わり、眼球が割れたのだとわかった。思ったより眼窩って小さいんだな、そんなことを考えた。しかし容赦なく、黒田はその指を内側に曲げた。みたことのない液体が、血と混じって変種の涙のように流れ出した。
「うがああああああああ」
福地が声を上げ、体を起こしてめちゃくちゃに手を振り回した。よし、次だ―――黒田はさっと福地から離れると、アイスピックを探した。すぐに見つかり、拾い上げた。福地は喚いて、見えない敵と戦うように(その通りなのだが)腕を振り回している。黒田は右脚を引きずりながらその福地に歩み寄ると、その傷ついた右脚を持ち上げ、福地のがら空きの股間を蹴り上げた。福地が「ぎゃっ」っとうめいて、今度は股間を押さえ、横向きになって胎児のように体を丸めた。
黒田は今度は左足でそののどを踏みつけた。体重をかけた。自分のはいているスパイクが、試合用のものではなく普通の練習時に使ういたってプレーンなものだったのがひどくおしまれた。くそ、刃があれば刺さってただろうに。福地が両腕を伸ばしてその脚をどけようともがき、力なく殴りつけかきむしった。
「たすけ…」
ハァ?おいおい、さっきまでの威勢はどこいったよ?黒田は思った。自分の唇が笑いの形に歪んでいるのがわかった。今度は怒ってるんじゃないな、と思った。楽しんでるんだ、間違いない。ひどい?人でなし?山本監督もよく言ってたじゃないか。まあ、ええことよ。
黒田は膝を折りざま、その福地の口の中に両手で保持したアイスピックを突き立てた。黒田の脚をもぎ離そうともがいていた福地の両腕が、びくっとその動きを止めた。黒田はアイスピックを押した。あまり抵抗なく、それはずぶずぶと福地ののどに沈んだ。福地の体が、胸からつま先まで、背泳ぎのバサロスタートみたいな感じでびくびくと痙攣した。やがて止まった。
右足の痛みが急にぐんと跳ね上がり、黒田は福地の横に倒れ込み、しりもちをついた。自分の口から漏れる呼吸が、短いダッシュを繰り返した後のようにかすれているのがわかった。
勝った。あっけない気もした。実際に格闘したのはほんの数十秒だったかもしれない。しかしもちろん、長くかかっていたら絶対に勝てなかっただろう。とにかく、勝った。何にせよ、とにかく。
黒田は血に染まった右脚を抱え込みながら、見世物小屋の芸人のようにアイスピックをのどから吐き出そうとしている福地の死体を、あらためて見下ろした。なんの感情も抱かず、とりあえず休息をとろうと、ふうとため息をつこうした、その時だった。

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