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黒田博樹(背番号15)は、木の幹の陰からそっと頭を出した。山の中腹近く、山頂からは東よりの辺りにいるはずだ。周囲は低木、高木が入り混じった雑木林だったが、今黒田が顔を向けている頂上へ向けて、徐々に木の背は低くなっているようだった。
黒田は支給の武器のアイスピックを持ち直すと、低い姿勢から一度、後方を振り返った。木々に覆われて、最初隠れていた民家のある商店街はもう見えなかった。どれくらい進んだのだろう?プロと呼ばれるスポーツ選手なのだから、そういう距離には言わば身体感覚みたいなものができあがっていたのだが、山肌の起伏と昨日からの緊張感でその感覚自体にもいささかの狂いが生じてきていた。
支給されたまずいパンと水で食事を済ませ、黒田が意を決してそこを出たのは、腕時計が午前八時をさす直前だった。ゲーム開始以来、何度も銃声らしきものは聞こえていた。黒田はずっと民家の隅に身を潜めていたのだけれど、結局、隠れていても事態は好転しないと判断したのだ。誰か―――少なくとも自分の信用できる選手を探し出し、一緒に行動しようと思っていた。もちろん、自分にとって信用できそうな選手が、自分をやはり信用してくれるとは限らないのだが。
しかし、自分が会いたいと思っていた選手の名前は、何人かではあったが、達川が読み上げていた。今年一緒に二ケタ勝利を挙げた高橋建。オフのゴルフの時なんかはよく同じ組で回っていた(というか、回らされていた)横山竜士。同期入団の河野昌人(黒田の年のドラフトは四人しか指名されなかった。今年福良が解雇されて三人になってしまったけれど)。
でも、まだ生き残っている選手は多い。誰か探さなければ。左手のアイスピック(しかし、こんなものが役に立つのだろうか?)をぎゅっと握りしめると、ポケットに入れておいた小石を右手でつかみ出し、前方左右の茂みに向かって投げた。がさっ、がさっと石が茂みの中に落ちた。
しばらく待った。反応はない。黒田は茂みの間に開いた上り斜面に向けて足を踏み出しかけた。その時、黒田の前面の茂みから何かがひゅっと飛んできて、ちょうど黒田の横に生えてきた木の、顔の高さのあたりに刺さった。―――攻撃だ!黒田は矢の飛んできた方向に目を向けた。そういうこともあるだろうと予想したはずの事態だったのに、やはり体のどこかが震えていた。
黒田の視線が止まった。自分に右手に弓のついたライフルのようなものを向けている選手は、福地寿樹(背番号44)だった。ちくしょう、なんでよりにもよってこんな好戦的なやつに―――。
黒田は思ったが、問題はとにかく、自分が全身を福地にさらしていることだった。とにかくそれは危険だった。くるっと踵を返すと、もと来た方向にだっと走り出した。
「待て!」
背後から福地の声がした。ざざっと茂みをかきわけ、追ってくる音がした。
「待てと言ってるだろ!」今度は大声だった。
―――あほ、大声出すなよ。
黒田は数瞬のうちに逡巡し、しかし結局、足を止めた。振り返った。福地が銃か何かを持っていて撃つつもりなら既に撃っているはずだし、何より、その大声はまずいと思ったからだ。福地だけでなく自分も見つかってしまう。それで、辺りに素早く目を配ったが、先ほど自分が確かめた通り、どうやらほかに誰かいる気配はなかった。速度を緩めながら、福地が緩やかな斜面を下ってきた。手に持っている武器は今は黒田に向けられていなかったが、もし再び向けられた時、あれを躱して再度逃走できるだろうか?立ちどまったのは間違いだったのか?
―――いや。心の中、黒田は思った。福地は足のスペシャリストだ。いくら黒田が普通の人間より運動能力に秀でているといっても、いずれ追いつかれたことだろう。どちらにしても、もう遅かった。
福地が黒田と四、五メートルの距離を隔てて止まった。顔に浮かぶあいまいな笑みを見ながら黒田は考えた。―――いったいこいつは、どういうつもりなんだろう?矢をはなってきたという事は、仲間として見るのはちょっと無理があるかもしれない。黒田は慎重に口を開いた。とにかく、早々にこいつの前から姿を消したほうがいい。それが基本ラインだ。
「大声出すなよ」
「悪かったな」福地が答えた。「けど、お前が逃げるからだ」
「悪いが」と黒田は即座に言葉を返した。常に簡潔、単刀直入。俺のモットーだ。
「お前と一緒には、いたくないな。俺はこのゲームの、平和的解決をのぞんでるからな」
黒田は言って、もう一度踵を返しかけた。ちょっとその足が震える感じで、おぼつかないのがわかった。しかし、止めた。視線の端、福地が右手に持ったものを黒田に向けるのが見えたので。それで、黒田はゆっくり、もう一度福地に相対した。福地の右手のボウガンに、引き金にかけられたその指に注意しながら。
「なんの真似だ?」
「こんなことしたくねえよ」
福地が言った。まさに、その口調は黒田が大嫌いなそれだった。なんだ、こんな状況で言い訳か?自分のやったことをよく顧みとるんか?
「俺と一緒に組まんか?」
「ふざけんな。そんなもん突きつけられて、一緒に組めるか。とにかく、それを下げろ」
「逃げないんだな」
「聞こえんのか?」
黒田が強い口調で言うと、福地は不承不承それを下げた。
「そう怒るなよ。一緒に行動しよう」
黒田は肩をすくめた。怒りのせいで、ぎこちなさを感じなかった。
「さっき言っただろ、ごめんやって。じゃあな」
黒田はそう言い捨てると、福地の方を見ながらあとずさりしかけた。即座に、福地が手にしたボウガンを持ち上げた。その顔が歪んでいる。自分の思い通りにならない歯がゆさに。
「いい加減にしろ」
「じゃあ―――ここにいろ」
福地が吐き捨てるように言った。同時に首を傾けたその仕草は、幾分神経の高ぶりを抑えるような感じに見えた。
「俺は嫌だと言ってる」
福地はボウガンを下げなかった。しばらく二人でにらみあって、焦れた挙句、黒田が言った。
「お前、何考えとる?はっきり言えや。俺をすぐ殺すわけでもない、俺が一緒にいたくないと言ってるのに一緒にいろと言う。どういうことや?」
「俺が―――」福地は、そのどこかねばついた視線を黒田の方に据えたまま言った。
「お前を守ってやろうって言ってんだよ、エース様。二人でいた方が、安全だろ?」
「冗談じゃねえ」
黒田の声に今度は怒りが混じった。
「そんなもん突きつけといて、守ってやるも糞もあるか、ドアホ。俺はお前を信用できん。わかったか?もういいだろ?じゃあ、行くからな」
福地が「動くと撃つぞ」と鋭く言った。手にしたボウガンが、まっすぐ黒田の胸の辺りを狙っていた。そうして言葉に出して黒田を脅したことで、福地をともかくも常識のラインに(それにしても酷い常識だが)とどめていた最後のタガが外れたのかもしれない。福地はその姿勢のまま、「たかだか今年いい成績残しただけで図に乗るなよ」と言った。
「投手なんて野手に助けられてなんぼのもんだろ」
そこまででもう、黒田は完全に頭にきていた。しかし、福地はさらに言ったのだ。
「夏にへたれててエース扱いされるとはご立派な身分だな」
福地が何を考えているのかはわからない。もうまともな思考力を失っているとさえ思えた。しかし、だからといって自分がここまで言われる筋合いは毛頭なかった。お前だって永遠の代走屋のくせして何をほざいている?噴火寸前の怒りは唇の歪みとなって表れた。前々から黒田自身気づいていたが、最高に頭にきたとき、自分はいつもにやっと笑ってしまうのだ。その笑みを福地に向けて、言った。
「―――だから何なんだ?好きでそういう扱いを受けてるわけでもないんだけどな。こんな時に変なことで僻むなよ」
一瞬福地の右眉があがり、そして黒田と同じようにちょっと歪んだ微笑を浮かべた。
「こんな所で僻んでどうする?どうせ俺たちこの島で死ぬんだぜ。けど、のたれ死ぬくらいなら協力して少しでも長く生き延びたほうがお得だといってるんだ。そのエースとかいうくだらないプライドを捨ててな」
―――お前の言う“くだらないプライド”にこだわってるのはどっちだ?少しでも長く生き延びたいのにそうやって人の気持ちを逆なでするように武器をむけるか。おめでてーな。結局自分がかわいいだけだろう?ついに、黒田の口から低い笑いが漏れた。
「いいか、これが最後だ。俺はお前と一緒になんかいたくない。素直にそれを下げて、俺をほっとけ。じゃねーと俺は、お前がただ俺を殺したがってるだけだとみなす。なんなら相手してやる。長く生き延びたいんだろ?死ぬかもしれんぞ」
それでも福地はボウガンを下げなかった。それどころか、肩の高さにまでそれを上げ、黒田を威嚇してみせた。
「こっちこそ最後だ。俺の言う事を聞け」
このままでいけば話は平行線をたどるだろう。もはや、どうなろうと自分には責任が持てない。そこで黒田は、いずれにしてもこのクソみたいな男とのやりとりをさっさと終わらせるために、一歩を進めた。福地はちょっとびびったように身を固めたが、すぐに叫んだ。
「無駄なことはするなよ。俺は今すぐにでも、お前を殺す事だって出来るんだからな!」
黒田は胸がむかむかしていた。ついさっき、福地が「殺したりしないって」と猫なで声で言ったばかりだという事を思い出したのだ。
福地がちょっと間を置き、それから、幾分自慢気ですらある口調で続けた。
「俺はもう、河野を殺したんだぜ」
黒田はちょっとどきっとしたが、眉を持ち上げ、「へえ」と言った。それが本当だとしても―――こんな山の中で隠れていた以上、偶然出くわした河野を殺してしまったというのが正直なところだろう。そしてそのあと、誰か自分より強い選手がやってくるのを恐れて、この山に逃げ込んだに違いない。だがこいつのこと、逃げ回って生き延びた挙句、もし最後に残った相手が自分より弱い相手だったら、“仕方ないじゃないか”とか何とか言いながら、平気で殺してのけるかもしれない。
「考えたんだけどな」
福地が続け、その黒田の推論を自ら裏書きした。
「試合だと思うことにしたんだ、俺は、これを。だから、俺は遠慮しない」
黒田は相変らず、静かに福地の顔を見据えていた。かすかに笑みをたたえて。しかし、嫌悪感と怒りで背筋がむずむずしていた。
「試合か」福地の言葉を繰り返し、そして黒田はにやっと唇を歪めた。
「けど試合なら、チームの戦力はどうあれ、同じモン持って戦うだろうが。道具だけで優位にたって戦うなんて、恥ずかしくないんか?」
それで一瞬、福地がうちのめされたような表情を見せたが、すぐにこわばった感じに戻った。冷たい目が光っていた。
「死にたいのかよ」
黒田が即答した。
「撃ってみろよ」
一瞬だけ、福地が躊躇した。その隙を逃さず、黒田はポケットからそっとつかみ出しておいた小石をその顔に向かって投げつけた。福地が顔を覆ってそれを防ぐ間に、くるっと体を回転させ、デイパックは捨てアイスピックだけを握ったまま、もと来た方へと駆け出していた。

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