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栗原健太(背番号50)は、わき目もふらず一目散に走っていた。目的地などなかったが、とにかく今はその場から逃げ出したかった。とにかく、何としてもだ。 実はついさっきまで栗原はこのゲームを芝居か何かだと思っていた。デイパックの中に入っていた拳銃も水鉄砲か何かだろうとしか思わなかったし(一見してデイパックにしまいこんだままなのだが)、何度か聞こえてきた銃声も爆竹かクラッカーの類だろうと思っていた。放送なんて達川さんが適当に選んだ名前を読んでるだけだろうと聞き流していたし、挙句、夕方くらいに聞こえた高橋建(背番号22)と横山竜士(背番号23)の呼びかけなど、「雰囲気を盛り上げるためのエキストラ」程度にしか考えていなかったのだ。とにかく、殺し合いなんてあるわけないじゃないか、と思っていたのである。 この島での初めての夜は山の中で過ごした。茂みの中で寝ていた栗原は誰かの移動する足音で目を覚ました。ちょうど夜も明け始めた頃で、栗原は身を起こすと、ちょっとした出来心からその足音をつけてみることにした。何かかくれんぼの鬼になってみんなを探す時のようなわくわくする気分で。 たどり着いたのは小さな池のような場所だった。栗原は昼間水を汲みに一度ここを訪れていた。水辺にいる選手は顔を洗っている。洗い終えて顔をあげて、その選手が木村拓也(背番号0)だということがわかった。あまり面と向かって離したことはないけれども、木村にはどこかしら親しみやすい雰囲気があった。どこにでもいそうな近所のお兄さんという雰囲気である。 栗原は木村に挨拶することにした。正直なところ、一人での行動に飽きはじめていた。誰かと一緒にいれば、少なくとも今よりかは退屈しなくてすむだろう。しかし、このまま真っ正直に出て行くのもなんだか面白くない気がした。栗原は顔は怖くても、根はひょうきんな人間だったのだ。それがここでは裏目に出てしまうのだが―――。 ふとデイパックに入っていた拳銃の存在を思い出した。これを構えながら出て行ったら驚いてくれるかもしれない。デイパックの奥底に沈んでいた拳銃を取り出すと、栗原はもう一度その拳銃を見直してみた。―――本物もこういう風にできているのかなあ。刑事ドラマだと「手を挙げろ!」なんて言って、犯人に拳銃を構えてバーンと…。 引き金にかけた指を動かした瞬間、クラッカーを鳴らしたような「ぱん」という音と同時に激しい衝撃が栗原を襲った。その時初めて、彼はこのゲームが冗談ではないことを知ったのである。そして、いくら偶然とはいえ栗原は撃ってしまった。銃口の先、犯人に見立てた木村を。 その木村がゆっくりと崩れ落ちていく様を栗原はただ茫然と見ていたが、はっと我に返ると慌てて逃げ出した。まだ薄く煙が出ていた拳銃を右手に持ったまま。 逃げている間も脳裏には木村が崩れ落ちる姿がよみがえっていた。自分は何もしないでそのまま逃げ出してきてしまった。もしかして、あのまま木村さんは死ぬのか?そこまで考えて、ぞくっと冷たいものが栗原の背筋を走った。死ぬ?木村さんが?死んだ?名前を呼ばれたみんなは?そして、これから、死ぬのか?俺は?死ぬのか? そう意識しただけで、ただでさえ走っていて心拍数が増えている心臓がますます高鳴った。ほとんど心不全を起こしそうなほどに。死ぬのか?死ぬのか?耳鳴りのように、あるいは出来の悪いCDプレイヤー、盤面のキズをそれが無視できずに何度も繰り返すときのように、その言葉が頭の奥に聞こえ始めた。死ぬのか? どこかで飼っているのか、鶏の鳴き声が聞こえてきた。あまりに場違いなその鳴き声が故郷山形を思い出させて、ぼろっと栗原の目から涙がこぼれた。 どうしてこんなことになってしまったのだろう。無性に母親に会いたくなった。弟の泰志にも会いたかった。泥だらけのユニフォーム姿で家まで帰り、シャワーを浴びて、母親の経営する焼肉屋で腹いっぱい米沢牛を食べたかった(贅沢なと怒られるかもしれないけど、たまの贅沢ぐらい見逃してほしいものだ)。腹いっぱいになったところで雪下ろしの手伝いもせずに、居間のコタツに寝そべりながら本棚いっぱいの野球本(まあ、マンガもたくさん含んでいるけど)をじっくり選んでゆっくりと見たかった。 「山形に…帰りたい…気が…狂いそうだ」 走りながらもそう呟いてしまったのが耳に聞こえた途端、栗原は本当に自分が狂いそうになっているような気がして、ぞっとした。吐き気が胸の奥から突き上げた。涙がますますひどくなった。 すぐ横でざっという音がして、驚くと同時に足が止まった。涙に濡れた目のまま、音のしたほうを見た。茂みの中から、ユニフォームの影がこちらを見ていた。背格好と背番号で朝山東洋(背番号38)だとわかった。見られていたのだ!知らない間に! 恐怖に駆られて、栗原はほとんど何も考えないまま両手で銃を持ち上げ、引き金を引いた。またも「ぱん」という音とともに、強い衝撃が走った。朝山の影は、その前にすっと茂みの奥に消えていた。ざざざ、という音が続き、それもすぐに消えた。 栗原はしばらく銃を構えた姿のまま、がたがた震えていた。それからまたすぐに走り出した。走りながら混乱した頭で考えた。朝山東洋は自分を殺そうとしていたのだ。間違いない。そうでなかったら―――どうして茂みの中から自分を覗き見る必要があったというのか?きっと朝山は銃を持っていなかったのだ。俺が銃を持っていることがわかって、慌てて逃げたのだ。俺が気づかなかったら、そして急いで撃たなかったら―――朝山はナイフか何かをざっくり俺の胸に突き刺していたに違いない。ナイフ!油断しちゃダメだ。誰かに出くわしたら、容赦なく撃たなければ、自分がやられて!しまうのだ。―――やられる! ああ―――こんなことはもうごめんだ。うちに帰りたい。焼肉。泥だらけのユニフォーム。マンガ!雪下ろし。米沢牛。泰志。シャワー。容赦なく。撃つ。撃つ!コタツ。焼肉。泥だらけの!ユニフォーム!容赦なく。米沢牛。 栗原の目から涙がぼろぼろこぼれていた。しかしその右手にはしっかりと銃が握られていた。 容赦なく!木村さん。殺される!撃つ。おふくろ。泰志!撃つ!撃つ!野球狂の詩! 栗原は狂いかけていた。 【残り34人】
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