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ほんのすぐ近くで聞こえた一発の銃声に新井と森笠は顔を見合わせた。新井は前田のショットガン、森笠は自分の武器であるスミスアンドウエスンを右手に持った。移動してきた茂みの中で、三人は時間を決めて交互に睡眠をとっていた。二時間ごとに新井、森笠が睡眠をとり、そして現在は前田が二人に背を向けて眠っている。一人が寝ている間、残り二人は見張りをするという形をとっていた。その最中に聞こえた銃声だった。 ほんのちょっとの間があいて、誰かが慌てて走っているのだろう、ざっざっという急いだ足音が二人のすぐ脇を通り過ぎていった。慌てて二人とも茂みの中に身を潜めたが、その足音の主は気づくことなく通り過ぎたらしく、やがて聞こえなくなった。 「誰かが撃たれた?」 森笠が聞いてきた。聞かなくてもその可能性しか残されていなかったのだが。こんな早朝から殺し合いである。気分のいい話ではない。 「だろうな」 そう吐き捨てるように答えたが、撃たれたのが誰だったのか、そいつは死んでしまったのかまだ生きているのか非常に気になった。―――死にかけの困った人を見かけたら助けてあげましょう!って精神かい?前田さんに言わせればそんなもの甘ったれた感情でしかないのだろうけど。ああ、野次馬根性丸出しとも言われるな。―――でも、それでも。 「俺、見てくるわ」 「バカ。前田さんがうろちょろするなって言ってただろ!あぶないよ」 「けど」 それだけ言って新井は音のした方向に顔を向け、やっぱり、と言いたげに顔をもどした。 「危ないって。今逃げたのが撃ったやつとは限らない。まだ犯人がいたらどうするんだ?」 森笠が再度新井に促した。新井は腰を下ろし、下を向いて黙り込んだ。森笠が、やれやれ、とため息をついて視線を外したその時―――新井は練習中にも見せないようなダッシュで音のした方に駆け出していった。 「あっ、ばか」 森笠が気づいたときにはもう遅い。取り残された森笠は、どうしようといった表情を浮かべて、新井の走っていった方向と寝ている前田の背中を二、三度交互に見やった。 たぶん一分も走らなかっただろう。目の前が急に開け、池みたいな所に出た。水の音はしていたが、こんな所に滝が―――と滝に視線を移動させようとして、水辺に倒れている選手がうつった。ショットガンを肩にかけ、倒れている選手のもとへ駆け寄った。 「拓也さん!」 倒れていたのは木村拓也(背番号0)だった。何も考えずに木村の体を抱きかかえた時、新井の右手にぬるりとしたものが触った。水かと思ったが、水にしてはいやに温かい。見ると、木村の右わき腹からあふれ出た血が新井の右手をも真っ赤に染めていた。流れ出る血は、さらに打ち寄せる水と混じりあって、木村の周囲は文字通りの本当に血の池になっていた。 「…新井か?」 苦しそうに木村が言った。真っ青を通り越し白くさえ見える顔が木村の状態を表していた。 「喋ったらだめです。血が、血が…」 言葉にならなかった。死にそうになっている選手に遭遇したのは初めてである。さっきまで何を考えていたのかもわからない。ただただ頭が真っ白になって、なんと声をかけていいかもわからなかった。 「泣くな、ばか」 苦しいのは新井にも手にとるように分かるのに、それなのに木村は泣きそうになっている新井の顔を見て笑った。顔の筋肉を動かすのさえきつそうなのに。言葉のかわりに涙が出てきた。視線の先の木村の顔が歪んで見えた。 「新井!」 自分の名前を呼ばれて振り返ると、新井の斜め後ろの茂みから前田と森笠が顔をのぞかせていた。真っ赤になった新井の右手と、それに支えられて新井の膝の上で横たわる木村に気づいたのだろう、前田が血相を変えて飛び出してきた。森笠も後をついてきた。 「タク!タク!」 前田がめずらしく必死になって声をかけている。体を揺すろうとしたが出血の多さにためらって、その手が止まった。 「前田、さん。森笠?これは、夢?」 「違いますよ!しっかりしてください」 ―――はは、新井にしっかりしろなどと言われるなんて。そう木村は思って笑みを作ろうとしたのだが、もう笑うのも無理だった。口元が、途切れ途切れに喋る程度にしか動かなかった。 「前田、さん」 どうにか視線を前田に移した。前田は何も言えず、はりつめた表情で木村を見つめる。 「来年、優勝、しましょ…俺、前田、さんの、話聞い、た時、から、夢、でした」 げほっ、げほっと木村が咳き込んだ。もう呼吸さえままならないようだった。前田は傷口をおさえることも出来ずただだらりと下がっている木村の右手を握ると、ようやく一言だけ言った。 「わかっとう、わかっとるけえ、喋るな」 「も…りかさ」 「はい」 自分の名前が呼ばれると思っていなかったのか、慌てて森笠が返事をした。 「その、41ば…ん、大切に、してくれ、よ。長い、間、俺の―――相棒だ、ったん、だから」 「はい、はい」 感極まって森笠も涙が目に浮かんだ。森笠が来る前の年まで、41番は木村の背番号だった。下積み時代をともに過ごしてきた背番号を、有名になった0番の選手はずっと気にかけていたのである。 「新井」 もう一度視線を新井に戻した。焦点は、ほとんど合っていないように見えた。 「フライ、くらい、ちゃん、と、取れ」 とても笑える状況ではなかった。けれど、新井は笑みを作って、左手で涙を拭いて、精一杯の返事を返した。 「はい」 「おし。お前、なら―――できる」 声にならない声でそう言った木村の目の焦点は、もう完全にあっていなかった。それどころか、まぶたをあげる力さえなくなってきていた。新井の顔を通り過ぎて、どこかはるか遠くを眺めているようだった。もしかしたら、幻影を見ていたのかもしれなかった。愛する妻と、愛する二人の子供の。十年間宮崎から見守ってくれていた両親の。一緒に野球をやったたくさんの仲間の。自分のユニフォームを着た、たくさんのファンの。急激に遠のく意識の中で、木村にはそれら全員が見えているのかもしれなかった。まぶたが完全に木村の目を覆い、しかし、喋るのさえ精一杯だった木村の口元がふいに緩んだ。 「由美…」 愛する妻の名を最後まで呼ぶことはできなかった。前田の握っていた木村の手の指が、最後の力を失った。 「タク!」 「拓也さん!」 「拓也さん!」 三人が叫んだのはほぼ同時だった。それに木村が答えることは、二度となかった。とても―――穏やかな表情を浮かべていた。 前田はきっと唇を噛むと、木村の手を握る自分の手に、より一層の力をこめた。 【残り34人】
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