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黒い空がその色にだんだんと明るさを帯びてきた。出発した時以来の夜明けを迎えるところだ。木々の合間から空の様子が変わる様を木村拓也(背番号0)は見ていた。心の中のもやを払拭することができず、一睡もできなかった。最大の心配事は、やはり自分の家族の事だった。 かわいい嫁と、かわいい子供。ほしかった女の子も授かった直後の、このゲームだった。家を出てくるときに子供が「バイバイ」と手を振っていた。それにつられて自分も手を振り返した。まさか、それが“最期”のバイバイになるかもしれないなんて。由美子は今ごろ心配してくれているのだろうか。自分はこんなに心配でいるのに、あいつが今頃、何事もないように眠ってたりしたら、腹は立つけど笑って許してあげるだろう。それくらい、自分は由美子を、そして子供たちを愛している。そして、その愛する家族のもとへどうしても帰りたかった。 だから、夕方に聞こえた高橋建と横山竜士の呼びかけには素直に出て行こうと、荷物をまとめて腰を上げたのに、直後に聞こえてきた銃声と叫び声―――それがあっという間に木村の希望を打ち砕いていた。木村はその場に腰を落とすと、どうしようもないといった感じでゴロリと体を倒しそのまま寝ようとしたのだが、結局眠れずに今に至っていたのだった。 空は少しずつではあるが、だんだんと白んでいく。木村は体を起こしてデイパックを持つと、木々の間を歩き始めた。辺り一面木で密集しているというわけではなく、木村のいた場所には結構な数の岩が転がっていた。最初は不思議に思っていた木村だったが、まだ明るかった時間にこの辺を歩いていて、その理由をすぐに見出していた。 木村の耳に、さあさあと水の落ちる音がする。木村はその音を頼りに進んでいき、やがて木々の切れ目から滝が見えた。そう、木村のいた場所のすぐ近くに川があったのだ。滝の周辺は川幅よりちょっと広くなっていて、池のようになっていた。顔でも洗おう、とりあえず気分転換しよう。空を見るうちに何となく心にそう浮かんで、木村はここまで歩いてきたのだった。 水が静かに打ち寄せる所まで寄ると、木村はその澄んだ水を両手ですくって何度も顔を洗った。その冷たさが心地良くて、何度も何度も水をかけた。気がすんだのか、ふうっと一つ息を吐くと、自分のバッグからタオルを取り出して顔を拭いた。そのタオルを首からかけ、木村は立ち上がって滝を見上げた。「鯉の滝登り」という言葉が頭をかすめて、ちょっとだけ苦笑いした。―――なんだか自分のことみたいだな。 思えば長い長い下積み生活だった。この世界には期待されて入ってきたわけではない。むしろふとした偶然から始まった。たまたま別の選手を見にきていた日本ハムのスカウトが、同じグラウンドで練習していた自分の足と肩に注目して、ドラフト外で入団させてくれた。二年程度で捕手はクビになったが、外野手としては守備固め程度には試合に出させてもらっていたし、内野の練習も面白かった。突然の広島へのトレード。外様には厳しいと聞いていて内心気の進まないトレードではあったが、九州出身の選手の多かったことが幸いしてすぐに打ち込めることができた(もともと社交的だったけれど)。その練習に最初は圧倒されたが、逆に刺激も受けた。スイッチヒッターの練習を始めたのも広島に来てからだ。それがだんだんと様になってきて、ユーティリティープレイヤーとして一軍のベンチに長く置いてもらえるようになった。さらにふとしたことで歯車がかみ合いだす。江藤さんのFAによる内野のポジション争い。ふとしたきっかけで手に入れた開幕スタメン。結果を出して、それ以来スタメンで使われるようになり、活躍した。今年は故障もあって成績はちょっと見劣りする感じになってしまったけれど、それでも下積みの時代には考えられないような成績をここ二年、残していた。ただ、だからといって油断するつもりはなかったけれど―――。 突然、ぱん、という乾いた音がして、右の下腹部に激しい痛みが走った。何が何だかわからなくて、その痛みの走ったところに手を当てた。その手がなにかぬるっとした湿りを感じて、木村は視線を落とした。「なんじゃこりゃあ!」と叫ぶ松田優作の気持ちを一瞬にして理解したような気がした。ともかく、その視線にうつったのは右手をそめた真っ赤な血液だったのだ。 それを見た途端、足のがくがくと震えて体を支えきれなくなった。両膝が打ち寄せる水に落ち、ばしゃっと跳ねた。体も前のめりに倒れそうになって、慌てて左手でそれを阻止して、無意識にそうしたのだが、右わき腹が上を向くよう背中を地面につけた。 すぐ近くから誰かの走り去る音がした。誰かが、木陰から自分を撃ったのだろうか―――それしか考えられなかった。このゲームも試合と何ら変わらないのに。気をつけておかないと自分の存在がなくなるかもしれないのに―――油断してしまったな。 血はとめどなく流れているらしく、押さえているユニフォームはしぼれば血があふれてきそうなくらいぐちゃぐちゃになっている、そんな感じを手のひらで感じ取っていた。このまま意識がなくなるのかとも思ったが、わき腹に走る痛みと苦しい呼吸が木村にそれを許さなかった。 【残り35人】
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