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矢野修平(背番号66)は時計が午後9時を指すのを待って、隠れていた民家の裏口からそっと顔を出した。フェリー乗り場より北東に進み、小中学校を通り過ぎしばらくいった所にある集落にいた(近くにバス停があるのを見て、矢野は初めて宮島にバスが通っているのを知ったのであった)。
午後六時の放送で告げられた禁止エリアの中に、矢野の隠れていた民家は存在していた。午後十時になればその民家を含めたこのエリアにいる選手の首輪はすべて爆発する。コンピュータが相手らしい。どうしようもなかった。
裏口は、家と家の間の細い路地に面していた。正面の家の壁まで一メートルもないかもしれない。矢野はごつい自動拳銃(コルト・ガバメントモデル四五口径)を握りなおすと両手で保持して、右手の親指でスプリングの重い撃鉄を起こした。辺りを素早く見回したが、路地の左右に人の気配はない。人一人いないというのに等間隔で光る街灯は、いささか不気味なものを矢野に感じさせた。
幸いにしてこの集落は多くの戦闘があった弥山周辺とは離れていたため、矢野が直接銃撃戦を見たり、あるいはその音を聞くことはなかった。しかし、あの入り口に転がっていた遠藤の、河野の死体。そして今までに達川が読み上げた選手の名前。間違いなく殺し合いは続いていたし、誰もが矢野のようにだた隠れているわけではないのだ。チームメイトを平気で殺そうとするものがいる。そして、どこからその誰かが現れるかはわからなかった。
足を踏み出し、隠れていた家の壁沿いにそろそろと右へ進んだ。角まできて南のほうへ顔を向けると、そこは暗闇が支配している。きっと田畑が広がっているか、林になっているかで電灯がないのだろう。そこからゆっくりと山が広がっているのは日が落ちる前に見ていた。とにかく、その山の中まで入ってしまえば当面は安全なはずだ。
矢野はデイパックを肩にかけ直すと、もう一度辺りに視線を飛ばし、それから一気に駆け出して目に入った茂みへ分け入った。銃を両手で構えて左右に向けたが、誰もいない。
そのほんの少しの移動で、矢野はもう肩で息をしていた。この暗闇の中周囲に気を遣うのは予想以上に神経をつかう。しかし、まだ油断はできない。まだ禁止エリアから抜けてはいないのだ。いや、抜けているかもしれなかったが、地面に白線が引いてあるわけじゃないし、引いてあってもこんな夜じゃ見えないに決まってる。とにかく、少し余裕を持って離れておかなければ不気味で仕方なかった。矢野は泣き出したくて仕方がなかった。せめて誰かいてくれたら。矢野の頭に数人の顔が思い浮かんだ。その面々がこのゲームに乗っていないという保証はなかったが、それでも会いたいと思った。みんなは今、この島のどこにいるんだろう。それとも―――それとも、もう―――。
矢野の胸がきゅっと痛くなった。目に涙がにじんだ。アンダーシャツの袖でぐいっと目を拭うと、茂みの中を端まで進んだ。あともう少しは動かなくちゃならない。また拳銃を握り締め、次の遮蔽物を探した。この暗さにも目がだんだんとなれきた。今度は右手の方に背の高い木が何本かまとまっていた。それへ向かってまた一気に走った。小枝で顔を引っ掻かれながら茂みの端へ滑り込み、それからそっと身を起こして辺りに目を配った。茂みの中を全て見通すことはできなかったが、どうやら人の気配はなかった。
矢野は身を低くしたまま、またそろそろと茂みの中を進んだ。大丈夫、ここには誰もいない。そして再び茂みの端へたどり着いた。今度はもう山の影が目前に見えている。少し薄気味悪かったが、身を隠せるのならそのくらいは我慢できた。田舎育ちの本領発揮だ。
ふいに、背後でさっという音がして、矢野の心臓が垂直飛びを敢行した。矢野はさっと姿勢を低くし、コルト・ガバメントを両手で保持すると、背後へ向けてそっと振り返った。ほんの十メートルばかり向こうの木々の間を、ちらっと見慣れたユニフォームが動くのが見えた。矢野の目が恐怖に見開かれた。誰かがいる、誰かが!
矢野は歯を食いしばってその恐怖を抑え込むと、頭を低く下げた。心臓がドキドキとそのリズムを速めた。
再び、がさがさという音が耳に届いた。さっきまでこの茂みには誰もいなかったはずだ。あの誰かは、矢野の後ろからこの茂みに入ってきたのだ。―――どうして?自分を見かけて追ってきたんだろうか?いや、そうとは限らない。単に自分と同じように移動中というだけのことかもしれない。そうだ、自分に気づいてたらまっすぐこっちへ進んでくるはずだ。自分は、気づかれてはいない。それならこのままやりすごせばいい。動かないでじっとしていよう。
またがさっと音がして、その誰かが移動する気配がした。頭を低くした矢野の目に、折り重なった下生えの葉の間から、その影がすっと木の幹の間を動くのが見えた。横顔を見せて、矢野の位置からは右から左へ向けて動いた。ああよかった、こっちへ向かってきてるんじゃない―――。ほっと息をつきかけた矢野は、しかし、がばっと顔をもう一度上げていた。もう、その影は木々の間に隠れて見えなかった。がさがさという音も徐々に遠ざかっていく。
見間違えるはずはない、と矢野は思った。その思いに動かされるようにすっと腰を上げると、音がする方へそのまま中腰で進んだ。数メートル進んで、もう一度生い茂った葉の陰から音のする方を確かめた。狭い視野にユニフォームの影が現れた。そのユニフォームの背番号を確認して、自分が見た人物のそれと一致しているのがわかると、立ち上がって思わず声をかけた。
「大輔!」
その声に、酒井大輔(背番号67)は一瞬びくっと体を震わせたように見えたが、ややあってゆっくりと体を振り向かせた。酒井の目が見開かれ、ほんの一瞬酒井の顔に暗い影が落ちたような気がしたが、それは勿論矢野の錯覚だったに違いない。すぐに、その顔に笑みが広がった。
「修平―――」
「大輔!」
矢野はデイパックを担ぎ、ガバメントを右手に提げたまま、酒井に走り寄った。自分の顔がくしゃくしゃになり、目に涙がにじむのがわかった。
「無事だったんだな、心配してた」
酒井が笑みを浮かべたまま言った。
「俺もだよ、本当によかった」
「なんか、すごい偶然だな」
「うん。ほんと。もう二度と会えないと思ってた。こんな―――こんな酷いことになって」
でかい体をして子供のように泣きじゃくる矢野を見て、困ったように酒井は矢野の背中を軽く叩いた。
「ほら、もう大丈夫だから。いつも泣いてるじゃないか、お前は。これから一緒に行動しよう」
酒井の言葉は力強く、矢野はますます涙があふれ出るのを感じた。今まで抱いていた恐怖心がうそのように消えていた。
「今まで…今までどこにおったと?」
「あそこの家。でもなんか禁止エリアなんだろ、もうすぐ」
無論の事酒井は深刻な表情だったが、矢野はおかしくなった。すぐ近くにいたのだ、ゲームのスタートから今までどこにいるのかと思っていた仲間がほんの目と鼻の先にいたなんて。
「俺も家の中に隠れてたよ。すごい近くにいたのかもしれんね、俺たち」
それで、二人はちょっと笑った。気がつけばこのゲームが始まって以来笑ったことなどなかった。昨日までは気づかなかった、笑えることの幸せを、矢野はささやかながらも感じていた。
ふと酒井の視線が矢野の右手に落ち、それで矢野は自分がまだ拳銃を握っていたことに気づいて苦笑いした。
「はは、忘れてた」
「いい武器じゃんか。俺なんか、これだからな」
そう言って酒井は手にしたものをみせた。矢野はそんなものに全然気づかなかったのだけど、よく見ると何だか古道具屋で売ってそうな短刀だった。握りに巻かれた糸は擦り切れ、小判型のつばには緑青が浮いている。酒井が刃を少し抜き出してみせると、刀身にも点々とさびが広がっていた。酒井は刃を収め、ベルトにそれを差し込んだ。
「それ、ちょっと見せてくれ」
酒井が言い、矢野は拳銃の銃口を横へ向けて、酒井の方へ持ち上げた。
「大輔、それもっとく?俺だとなんかうまく使えそうにないんだよな」
酒井は頷き、コルト・ガバメントを受け取った。グリップを握り、安全装置を確かめる。撃鉄はまだ起きたままになっていた。
「弾、あるか、これの?」
もちろん銃の弾倉はもう装弾数いっぱいに弾が込めてあったけれど、矢野は頷いてデイパックを探り、弾の入った紙箱を酒井に差し出した。酒井は片手でそれを受け取ると親指で蓋を弾いて中を確かめ、それから自分の学生服のポケットに押し込んだ。
次の瞬間、矢野はわが目を疑った。一体それがなんであるのかそもそも理解できず、ただ、あたかも何か不思議な手品でも見るように、酒井の手元をじっと見ていた。酒井が自分に向けて、そのコルト・ガバメントをすっと構えていたのだ。
「……大輔―――?」
それでもまだそこにぼっと突っ立っていた矢野から、酒井の方が後ろへ二、三歩さがった。
「大輔?」
もう一度言った矢野の頭に、ようやく、酒井の顔がいつもと違うという自体が認識された。太い眉、自分よりかはぱっちりとした目、分厚い唇。パーツは同じだけれど、歪めた口元に歯がのぞいたその顔は、矢野が見たこともない顔だった。その歪んだ口元から言葉が流れ出した。
「行けよ。さっさとどっかへ消えちまえ」
矢野は一瞬、酒井が何を言ったのか分からなかった。苛立ったように、酒井が続ける。
「早くどっかへ行っちまえって言ってんだ!」
「……どうして?」
また泣きそうな顔をして呟く矢野に、酒井の苛立ちが強まる。
「お前みたいなとろいやつと一緒にいられるかってんだよ!早くいけよ、ちくしょう!」
最初はゆっくりと、しかし次第に加速するように、何かががらがらと矢野の中で崩れ落ち始めた。
「どうして…俺、俺なんか悪いことでもしたか?」
酒井は銃を矢野に向けて構えたまま、顔を傾けて地面に唾をぺっと吐いた。
「笑わせるな。お前はいっつもそうだよな。なんかあったら泣けばいいとでも思ってるのか?練習中とか影でうじうじ腐った女みたいに泣いてるの、はっきり言ってかなりうざかったんだよ!お前みたいなやつと一緒にいたら俺の足を引っ張られちまう。こんな糞みたいな騙しにさえひっかかるんだから、お前、やっぱり、とろい」
矢野は口をぽかんと開けて酒井の顔を見ていたが、やっぱり無意識のうちに涙がこぼれ出た。
「そんな、そんな…」
「だからそういうのがうざいって言ってんだよ。いい加減にしろよ!」
何かに衝き動かされて、矢野はだっと酒井の方へ走った。もう酒井の言葉を聞きたくなかったからかもしれないし、酒井が自分に銃を向けているという事実が受け入れがたかったからかもしれない。
「やめて!お願いだからやめてくれ!!」
矢野はそう泣き叫びながら、酒井の手にしている銃をつかもうとした。酒井はすっと体を躱し、矢野を突き飛ばした。デイパックが肩を離れて左手の方に落ち、矢野は背中から草の上に倒れこんだ。すぐに、酒井がその矢野の上にのしかかった。
「何しやがるんだ、ちくしょう!俺を殺すつもりなんだな!だったらここで殺してやる!」
酒井が銃を矢野に向けて構え、矢野は必死になってその酒井の右手首を両手でつかんだ。すぐに、酒井が銃を握っている自分の右手に左手を添えた。ぎりぎりと酒井の手が下がってくる。自分の額へ!矢野はざあざあと自分の血がひく音を聞いた。矢野は両手をつっぱり、必死で叫んだ。
「大輔!やめろ!冗談はよせ!」
酒井は何も答えなかった。矢野を見下ろす目が血走っていた。機械のように単調な力と動きで、その腕が下がってくる。その様が矢野にはスローモーションのように見えた。
矢野の、哀しみと恐怖に引き裂かれた心の隙間に、ふっと思考が入り込んだ。
何もかも分かった。分かりたくはなかったけれど、自分にとって友人だと思っていた酒井は幻だったのだ。でも―――でも、それは素敵な幻だった。酒井と一緒にいて、練習して、遊んで、飲んで、二人でカープを引っ張っていける投手になれると思った。その幻を与えてくれたのは、どうあれ酒井だったのだ。酒井がいなかったら自分はその夢を見られなかった。ああ、あの自分が一軍で初めてのマウンドを踏んだ日の、市民球場のシャワールームで酒井がいった、“来年は開幕から一緒に1軍にいような”という言葉はうそじゃなかったと思う。
―――信じていた。
矢野は、ふっと力を抜いた。酒井がちゃっと矢野の額に向けて銃を構えた。その指は、すぐにも引き金をひくだろう。矢野は酒井を見つめて、静かに言った。
「ありがとう、大輔。俺、大輔と野球できて、幸せだった」
酒井の目が何か大事なことにようやく気づいたというように丸くなり、その動きが凍りついた。
「いいから、撃て」
矢野はにこっと微笑んだ。酒井の手が、矢野に銃をむけたままぶるぶる震え始めた。
「修平―――」
かすれた声で酒井が呟く。酒井の目が後悔と自責の色合いをうっすら帯びてきたような気がした。―――ああ、わかってくれたか?大輔、本当に?
かつっ!という小気味よい、しかしどこか湿った、無気味な音が響いた。濡れた床にかかとを打ちつけるような音だった。そしてそれとほとんど同時に、酒井の右手指が引き金をひいた。もっともそれは彼の意志ではなく、単に痙攣だったのだけど。ばん、という爆竹のような撃発音に矢野は思わずひっと声を上げたが、銃口は既に矢野から外れており、弾丸は矢野の頭の上、草の生えた地面に突き刺さった。力を失った酒井の上半身が、ゆっくりと矢野の体の上に折り重なった。酒井はそれきり、ぴくりとも動かなかった。慌てて酒井の体の下からでようとした矢野の目に、その酒井のユニフォームの肩口の向こう、笑顔が見えた。同期入団、同い年の東出輝裕(背番号2)がそこにいた。矢野には何が何だかわからなかった。ただ、東出の懐中電灯の光で照らされた彼の口元に浮かんだ笑みが、感情を示さない冷たい視線とアンバランスで、矢野は心の底からぞっとした。とにかく、その東出が「大丈夫か?」と言って矢野の手を握り、矢野を酒井の体から引っ張り出した。生い茂った植物の中、矢野はよろけながらも立ち上がり、そして見た。酒井の後頭部、酷く鋭利なカマ(カマ!将来農業で生計を立てたいと真剣に考えていた矢野がカマを知っているのは至極当たり前の事だった)が深々と埋まっているのを。
東出はそのカマをとりあえずうっちゃって、酒井の右手の中のコルト・ガバメントを奪いにかかっていた。筋肉が引き攣り、ひどくこわばったその指を一本一本引きはがし、ようやくそれを手中に収めると、にやっと笑った。
矢野はただ、酒井のその今は魂の入っていない体を見下ろして、がくがくと震えていた。がくがく、がくがくと。震えながらも矢野の視界に入ってきた光景は、とてもこの世のものとは思えない光景―――東出が酒井の後頭部に刺さったカマに手をかけ、それを抜き取ろうと両手で柄を握って、ぎりぎりと揺すっていたのであった。酒井の頭がそれにあわせて揺れていた。
「うわああああああっ!」
声を上げ、矢野は東出を突き飛ばしていた。東出は草の間にどん、としりもちをついた。矢野は東出にお構いなしに酒井の体に覆い被さった。頭からカマが生えている、その体に。矢野の目からぼろぼろ涙がこぼれ落ちた。そのカマはこう告げていた。揺さぶったって生き返らないぜ。揺するなよ。カマが刺さってんだぜ、痛むじゃんか。
矢野の胸の奥から感情の大波が何度も押し寄せる。涙にあふれた目で、矢野は傍らにいた東出をきっと睨みつけた。睨み殺してやるつもりだった。今自分がどんなゲームに参加していて、誰が敵なのだとか味方なのだとか、そんなことはもう矢野の頭から吹き飛んでいた。そうだ。憎むべき敵がいるのだとしたら、それは自分の仲間を、友人を目の前で平気で殺した東出輝裕だった。
「何で殺したんだ!何でだ!何で殺さなきゃいけなかったんだ!」
東出は不満そうに唇を歪めた。
「お前。殺されかけてたんだぞ。助けてやったんじゃないか」
「うるせえ!大輔はわかってくれた!俺の事をわかってくれた!殺してやる!俺が、お前を殺す!大輔は俺の事をわかってくれたんだ!」
東出は首を振って肩をすくめると、すっとガバメントを矢野に向けた。矢野の目が見開かれた。それで、矢野はもう一度、乾いた爆発音を聞くことになった。額の上に激しい衝撃が伝わり、それだけだった。矢野はかつての仲間である酒井の方にどさっと倒れ込み、もう動かなかった。四五口径の鉛弾で頭の後ろ側が半分なくなっていた。それでも口は残っていて、何か叫ぼうとするように開いており、その端から血がゆるゆると流れ出した。酒井のユニフォームの上に流れ、赤い染みを広げた。
東出はまだ銃口から煙を噴いているコルト・ガバメントを下ろすと、もう一度肩をすくめた。矢野ならちょっと鈍いところはあるが、それでもしばらくの弾除けくらいにはなると思ったのだが。
それから、言った。
「そう、わかってくれたんだろうね」
上半身を屈め、半分欠けた矢野の頭、耳元に口を近づけた。笑みが浮かんでいたのに、東出本人は気づいていたのだろうか。
「お前を殺すのをやめそうになってたから、俺が殺したんだ」
東出はそれだけ言って立ち上がると、再び酒井の頭からカマを抜き出しにかかった。

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