しーんと静まり返った水族館の中のガラス窓に、わずかではあるが人工的な光が反射しているのが見受けられる。くそ、この中にも誰かいたか。そいつに自分の存在を悟られないようにしなければ。そう思い、足音を立てずに一番近くの支柱の影に隠れたのは鈴衛佑規(背番号63)であった。
彼はちょうど田村恵が殺された時、大願寺の近くの道路を歩いていた。その銃声を聞いて自分のすぐ近くに殺人者がいると認識した途端、とてつもない恐怖が自分の中をかけめぐった。無意識のうちにそこから西へ逃げ、一度水族館を通り過ぎた。そのまま行けるところまで行こうとしたのだが、すぐに山のほうから海岸にのびている有刺鉄線の柵に行く手を阻まれた。日も暮れ山に入るのも非常に怖く思われたので、引き返してとりあえず水族館の中に入ってみたのだった。近くに旅館のような建物もあったが(実際は国民宿舎なのだが、そんな詳しいことまではさすがにこの暗闇の中わかるわけがなかった)、そんな布団も食べ物も十分にありそうな所だったらみんな入っていきそうなもんじゃないか。今はもう誰も信用できない。実際、銃を自分の間近でぶっぱなしたやつがいるんだから。それよりかは水族館のほうがよっぽど何もなくて他の人間もいないに違いない。そう判断してこちらを選んだのだが、どうやら選択ミスだったようだ。もっとも、旅館のほうを選んでも同じ目にあっていたのかもしれないが。
鈴衛の右手には一本の木製の棒が握られていた。擂粉木というよりかはむしろ和太鼓のバチといった方が適切かもしれない。手にしっくりと伝わるその重みが鈴衛に幾分の安心感と勇気を与えていた。殴るくらいしか使い道はないように思われたが、それでも使えるだけまだいい。うまく頭部を殴れればかなりのダメージを与えられることは想像に固くなかった。
光は相変らず動く事もなく同じように反射している。そこにいる誰かの、どこかへ移動するような気配は微塵も感じられない。このまま相手の様子を伺い続けるのはあまりにじれったい。ならば自分から出向いてやるか。 鈴衛は支柱の影から体を見せると、先ほどと同じように足音を立てずに進み始めた。しばらく行って、その光が鈴衛の予想通り、支給された懐中電灯のものであるのがわかり、その光で人の影も確認できた。懐中電灯は光る面を下に向いて置かれており、最小限に光の漏れがとどめられていた。自分から見れば後ろ向きに座っている、その誰かの背番号までは確認できないが、姿かたちは自分とそんなにかわらない。浅井や金本など、チームでも突出した身体(というか筋肉だな。あれは反則だろう)の持ち主だったらどうしようかと一抹の不安はあったが、ちょっと希望はでてきたようだ。
―――不意打ちなら絶対勝てる!
いつの間にか、自分の知らないうちに鈴衛はこのゲームに乗っていた。銃声が聞こえたその瞬間から、「殺らなければ殺られる」と思っていたのかもしれない。その思いは知らないうちに体を蝕む一種の病気のように鈴衛の心全体に繁殖し、そして今に至っていた。もう彼の中には、目の前の人間を殺す―――それだけしかなかった。
近づくにつれ早まる鼓動が相手に聞こえやしないかと鈴衛には不安でしょうがなかったが、もちろんそんなことなどあるはずがない。とにかく興奮と不安で震える足に全神経を集中させて、音を立てないようゆっくりながらも必死で近づいた。相手は座って寝ているのであろうか、鈴衛に気づくどころか動こうともしない。そして、鈴衛はその選手の五メートルほど背後まできた。相変らず明るさが不足して背番号は見えないが、この際誰だっていい。その目の前にある後頭部を殴るんだ。
―――用意はできたか、佑規?
すうっと息を吸うと、勢いつけてその選手めがけ駆け寄り、棒を上から振り落とした。がつっという音が響いた。突然の攻撃に相手は頭をかかえてうずくまる。よし、そのまま倒れろ!!鈴衛の口元が自然に緩んだ。
しかし。その相手は倒れなかった。頭をかかえうずくまったと思っていた目の前の選手は突然後ろを振り返った。振り返った瞬間その選手の顔が薄く照らされ、やっと鈴衛はその選手が誰だか把握したのだが、そんなことはどうでもよかった。鈴衛はもう一度棒をふりかざしたが、その手を振り下ろす前に相手の両手が勢いよく鈴衛の首をつかんだ。その勢いのまま鈴衛は全身を後ろの壁と窓にぶつけた。両手につかまれた首がぎりぎりとしめられていく。首から上が急激に熱くなるのを鈴衛は感じていた。言葉を出そうにも空気が入っていかないし、出てこない。何かを考えようとしても、自分の頭は痺れをきらしたような感覚を強めていく。とにかくその手をふりほどこうと必死で自分の手を出したが、既に遅かった。何せ相手に十分なポジションをとられているのだ。クァッ、カアッと声にならないうめき声を出したが、それが長く続くことはなかった。
突然の襲来者の意識がなくなったのが両手を伝ってわかると、井生崇光(背番号64)は鈴衛の首から両手をはなした。自分の息が経験したことのないくらいあがっているのを感じたが、もしまだこの襲来者が生きていて、いつ自分を襲うかわからない―――そう思ったときには鈴衛の身体を外の水槽まで引きずっていた。水槽にはなみなみの水が入っていたが、いつの間にか移動させられたのだろう、動物の姿はない。鈴衛の身体をかついで水槽の淵に立つと、井生はそれをまるで米俵を投げるかのように思い切り水槽へ投げ込んだ。鈴衛の身体は抵抗する事もなく、静かに水の中へ消えていった。
井生の頭には、あのおなじみの赤ヘルがかぶられていた。自分に合わせたかのような右打席用のそれには、「油断大敵、合言葉は『気』!!」という、わけのわからない「松原コーチのアリガタイお言葉」が殴り書きのような汚い字でほどこされていた。このヘルメットとピコピコハンマー(もっとも後者は何の役にも立ちそうになかったが)が井生に支給された武器であった。松原の言葉に感化されたわけではないが(だいたいシーズン中はたいてい二軍にいるもんだから、松原のアドバイスなど井生にとっては非常になじみの薄いものだった)、用心のため一応かぶっていたヘルメットが役に立つとは井生自身思っていなかった。
「油断大敵、か…」
そう呟くと、井生は再び建物の中へ入って行った。
【残り38人】
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