ここにも一人、必死になって斜面を登る選手がいた。灌木に身を隠すために身を低くしていたので、ほとんど這っていると言った方が正しいかもしれない。落ち葉や枝や舞い上がる土煙で、その身を包んでいる真っ白なユニフォームはほとんどすすけていた。その大きいとはいえない目をしっかりと見開き、いつもポカンと開けている口をしっかり結んで、河内貴哉(背番号24)は恐怖と戦っていた。
河内が神社を出発した後、ついさっきまで隠れていたのは、高橋建と横山竜士がハンドマイクで呼びかけを行ったあの公園内にある、小さな川にかかった橋げたの下だった。河内にはやや斜めの方向だったけれども、地面に頭を出せば二人の姿がはっきり見える位置にいた。迷いに迷い、挙句呼びかけに応じて出ていこうとした時、遠く銃声が響いて、二人がそちらを見ていた。そして、河内がなお少し様子を見たほうがいいのだろうか…などと考えるうち、ほんの十秒か二十秒も経たないうちに今度はタイプライターみたいな銃声がして、ハンドマイクで増幅されたうめき声とともに高橋建が倒れるのが見えた。続いて、横山竜士も撃ち倒された。
その時点では、二人はまだ生きていたに違いない。しかし河内は、二人を助けに行くことがどうしてもできなかった。自分の武器では出て行ったところでどうしようもない―――河内に支給されたその武器とは、一本のフォーク、スパゲティを食べる時に使うような何の変哲もないフォークだった。そして、さらにそれから二度銃声が響いた。襲撃した誰かが高橋と横山にとどめをさしたのだ、とわかった。
分かった途端、荷物をかき集めてその襲撃者に見つからないよう身を低くして、土手を二人がいた方向とは逆に向かって思い切り走り始めた。そして二人が出てきた建物が見えなくなると、そこから岩を組んで作られていた堤防をよじ登り、そのまま山のほうへ向かい、茂みに入ると右手にフォークを持ち(利き手はもちろん左手だったが、枝をはらったりするのに左手の自由は確保していた)、そして一目散に斜面を登っていたのだった。
どのくらい登ったのだろう、ふと我に返って河内はようやく動きを止めた。そうっと後ろを振り返った。木々が生い茂り、そこから島の様子を伺う事は不可能だったし、何より陽が落ち暗闇があたりを包み込もうとしていた。耳を澄ましたが、何の物音もしない。安心して息をつこうとしたその瞬間、腕に何かが食い込んだ。河内の頭が再度混乱し、口から「ヒイッ」と声が漏れた。
「バカ!」
誰かがささやいて、腕に加わっていた力が消え、代わりに河内の口を生暖かい手が塞いだ。しかし混乱した河内の耳にその声は入らず、ただ襲撃者をやっつけようと思い、その恐慌のうちに右手のフォークを振った。がちっと音がして、すぐにそのフォークが止まった。河内は覚悟したが、そのまま何事も起こらないのでおそるおそる目を開いた。
目の前にいる影は身をそらすようにして顔の前に掲げた大型の自動拳銃(ベレッタ92F)でフォークを受け止めていた。男は拳銃を左手で握っていた。二人の位置関係と、男が左利きでなかったら、河内のフォークは少なからず男を切り裂いていたかもしれない。しかし、男は左利きだった。
「危ないじゃないか、河内」
自分に似た表情が河内の目に入った。
「お兄ちゃん!」
それが広池浩司(背番号68)だとわかると、河内は叫び声を上げた。あまりの喜びに、つい無意識のうちにいつもの呼び方が出てしまっていた。
「ばか!静かに…ついてこい」
小声で河内を一喝すると、広池は先に立って比較的低い茂みの間を進みだした。河内は前を進む広池の背中に目をやり、しかしふいに恐ろしい仮定が彼の心を風のように通り抜けて、一瞬足をすくませた。
―――建さんと横山さんを殺したのはもしかしたら広池さん?もしかして僕があそこにいたのを知ってて先回りしていたのでは?…いや、それならなんで俺を殺さないんだ?広池さんは兄貴みたいな存在だし、それを広池さんも知ってるわけだから、二人で協力すれば生存確率はグンとあがる。最後二人になったら?広池さんは俺を殺す?それって効率いいな!…って俺は何を考えてるんだ!
「どうした、河内?早く来い」
河内はまだぼんやりした頭のまま、広池を追った。二、三十メートル程進んだだろうか、少し深い茂みの中にたどり着くと広池は足を止めた。
「座ろう」
その声に、河内は広池と向かい合って腰を下ろした。まだフォークを握っていたのに気づいてそれを地面に置いたが、同時に左手に鋭い痛みが戻ってきた。むやみに枝をはらっていたせいで手のひらに無数の切り傷ができていた。広池はそれを見て銃を置くと、近くの茂みから自分のものらしいデイパックを引っ張り出し、タオルに水を少し含ませると、
「左手見せろ、河内」
と言った。河内が素直に左手を出すと、広池は力をかけすぎないよう丁寧に傷を拭って、それから今度はタオルの濡れていない部分を細かく裂き、包帯代わりに巻きつけた。
「ここに…隠れていたんですか?」
「ああ。なんかバキバキと変な音がするから、ここから顔を出してみたら貴哉が見えたんでね。自分と似てるから暗くても見間違わない自信はあったよ。それで声をかけた。…攻撃されたけどな」
「すいません」
「けど、むやみに動いたら逆にあぶないぞ」
「はい」
河内は自分が泣きそうになっているのが分かった。
「ありがとうございます」
「まあまあ」
広池は笑ってみせた。
「けど、河内に会えてよかったよ。お前の顔見てると何となく他人とは思えないからな。それこそ、弟みたいだよ」
今度は河内の目に実際に涙が浮かんだ。河内はぐっとそれをこらえ、話題をきりかえた。
「さっき、建さんと横山さんのすぐ近くにいたんです。俺―――俺、あの二人を助けられなかった」
「わかった。だから自分を追い詰めるな。僕だって、二人の呼びかけに応じてやれなかったんだ」
河内は頷いた。高橋建と横山竜士が倒れるシーンがまた頭の中に生々しくよみがえってきて、少し体が震えた。
【残り39人】
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