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表面が少しザラッとしている不透明な窓ガラスに映る陽の光が徐々に強く、赤みを帯び始めていた。さすがにこの時期になると夕方が来るのが早い。ガラスの上端にちかっと直射日光が差し込むと、高橋建(背番号22)は壁に背を預けたまま少し目を細めた。傍らには毛布にくるまり、同じように壁に背を預けている横山竜士(背番号23)がいた。横山は、やはりぼんやり目を開いて、光に覆われ始めた床を見つめていた。
二人はもみじ谷公園の奥にあるロープウェー乗り場(紅葉谷駅)の一室に身を潜めていた。入り口近くにはスコップや杭などが所狭しと置いてあって、その奥に事務机と椅子、それにあちこちサビのわいた書類ケースが一つずつあって、机の上には電話が乗っている(受話器を上げてみたが、勿論何の音も伝えてこなかった)。書類ケースからは、あまりぱっとしない印象の観光チラシが二、三枚その端をのぞかせていた。
高橋と横山は同じ年のドラフトでカープに入団した。それぞれ四位と五位だ。社会人と高校卒という違いはあったが、いまや先発投手の一員として同じ立場にある。違うところといえば―――横山には高橋が経験したことのない大きな怪我(ルーズショルダー)がつきものであったし、高橋は横山と正反対のその気の弱さが批判の対象になっていた(横山もあの気の強さに苦言を呈されることはあったのだが)。歳の割にやんちゃな横山は、高橋にとってみれば家で自分の帰りを待つ子供とほとんどかわりなかった。単純でわがまま。それを言ってしまうと横山には失礼だが。
幸運だったのは二人の背番号が連続していたことで、出発がわずかな間隔で並んでいたこと。さらには、同じ方向へ逃げたことだった。二人とも死んだばかりの遠藤の姿を見ていた。高橋はすぐさま右へ走ったのだが、ちょっと行った所で走るのをやめた。ここで慌てても仕方がないと、その先の身の振り方を考えながら歩いていた。そこへ猛烈な勢いで走って逃げる横山がやってきたのだった。横山の顔色は青ざめていて、その割に興奮状態だった。高橋は横山と一緒に逃げ(だから彼らはその後遠藤を殺した河野が新井の攻撃を受けたのも、さらには河野が死んだのも放送があるまで知らなかった)、集落と離れて少し高台にあるこの駅を見つけると、鍵をかけて閉じこもった。
―――それから、もう9時間以上がたっている。二人が何をすることもなく、ただ時間だけが過ぎていた。高橋はぼんやりしながらも、ずっと考えていた。一体自分は今、何をするべきなのだろう?正午の達川の放送は建物の中にいても聞こえてきた。嶋と遠藤を別にしても、既に八人が死んでいる。その全員が自殺したとは思えなかった。誰かが別の誰かを殺しているのだ。今、この瞬間にもまた誰かが死んでいるのかもしれない。そういえば正午の放送のすぐ後にも、そしてついさっきはそれより近いところから銃声のようなものが聞こえてきた。いったい、チームメイトを殺すなんてことができるんだろうか、と考えては遠藤の死体が脳裏をかすめた。しかし高橋はあれは何らかの事故なんだと思いたかった。そう思わないとやっていけない。なにせこんな馬鹿げたルールに乗る人間がいるという事が、どうにも信じられなかった。
高橋は部屋の隅、道具が置かれているところにあるメガホン型のハンドマイクに目をやった。ちょうど平舞台で達川が使っていたものと同型のようだ。あれは、使えるんだろうか?もし使えるなら―――やれることはあるんじゃないのか?
ただ、自分はそれが怖いだけだ。それをするのが。というのも、このゲームに乗る人間がいるとはとても信じられないその一方で、やはり、一抹の不安が拭いきれないからだ。だからこそ横山と二人、とにかくここまで逃げてきた。もし、もしそんな選手がいたら?
「建さん」
横山が呼びかけたので、高橋は考えを中断し横山に向き直った。
「パン食べましょう。なにか食べないと、いい考えも出ませんよ」
横山が穏やかに笑いかけていた。ちょっと無理に笑った感じもあるけれども、それでもいつもの、あのやんちゃ坊主っぽい横山の笑顔だった。
「…そうしようか」
二人はそれぞれのデイパックからパンと水を取り出した。高橋はそのデイパックの中、二個の丸い缶詰みたいなものに一瞬目を止めた。初めて見るが、手榴弾、というやつなのだと思う(横山の方はどういう冗談なのかダーツセットで、ありがたいことに木製の丸い的までついていた。これでコントロールでもつけろというのであろうか。そうだったら2人に適した武器かもしれないが)。パンを半分ほどかじり、水を一口飲んでから高橋は言った。
「少し落ち着いたか?」
横山はパンを噛みながら、その質問の唐突さに目をいささか丸くした。
「ずっと震えてたから」
「ああ…はい、大丈夫です。建さんが一緒にいるし」
高橋は微笑んで、頷いた。それで、食事をしながらでも“やるべきこと”について横山に相談しようかと逡巡したが、口を閉じた。やっぱりまだ自分の考えに確信が持てなかった。自分の考えていることは、ある意味ではとても危険なことなのだ。それをやるということは、自分だけでなく横山をも危険に晒すことになる。しかし一方では、危険だと思っていることこそが、自分たちをデッドラインに追い込んでいくことになるのかもしれない。どっちが正しいのか、まだ高橋には確信が持てなかった。
しばらく二人とも黙っていた。それから、横山がふいに言った。
「建さん…こんな時にバカな事言ってると思われるかもしれないけど」
「何?」
「建さん、試合中とかに他の選手が信じられなくなることってありましたか?」
今度は高橋は目を丸くした。その質問の意図はわからないけれど、きっとこのゲームの中、横山は恐れ出していたのだろう―――誰かが、自分を殺さないか、と(たぶんその「誰か」の中には自分も含まれているはずだ)。それを自分の中で否定したくて、ふいに言葉に出したんじゃないだろうか。高橋自身も同じだった。どこかでみんなを信じきれなくて、自分の中の計画を口にすることが出来ないでいるのだ。
「うーん、どうだろう」
横山に余計な心配を与えないよう、高橋は少し苦笑して答えて、それから同じ質問を横山にぶつけることにした。自分の考えを横山に伝えるかどうか、それで決めようと思ったのだ。
「横山は?試合中なんか不貞腐れてるけど」
「そんな。不貞腐れてるなんて人聞き悪いっすよ」
「いや、エラーされた時とか思いっきり怒ってるぞ、顔が」
「そりゃ…マウンドにいる時は熱くなってるから、自分でもよくわかってないんすよね。どういう表情してるかとか。でも結局自分が打たれなきゃいいんですよね、エラーされたくないんなら。だから打たれた自分も悪い。野手を恨むことはないですよ。今一番信用できないのは自分自身ですし。建さんがうらやましかったですよ、今年は。どうしたら左でスピードボールが投げられるんですか?いいなあ、右がダメだったら、俺、左投手に転向しようかな」
スピードガンと喧嘩していると揶揄された横山も、今年はスピードボールが投げられなくなっていた。ファンも首脳陣も失望しただろうが、一番失望したのは自分自身だっただろう。そんな雰囲気が、笑いながらも一気にまくし立てた横山から感じ取れた。
「なんだ、自分のことが一番信用できないんじゃないか」
「そういうことになるんすかね。…なんか変な質問してしまってすいません」
横山が恐縮したように頭を下げた。それを見て、最後にもう一度だけ逡巡し―――しかし結局言ってみることに決めた。今の横山なら大丈夫だろう。とにかく相談してみることだ。
「ちょっと、いいか?」
横山は不思議そうに首をかしげた。
「何すか?」
「誰かを殺したいと思ってる選手がいると思うか?このチームの中に」
「それは、だって、事実死んで―――」
“死んで”を発音する時、横山の声が震えた。
「―――ますよ、みんな。昼に放送もあったし。もう、ここに連れて来られてから十人も。みんながみんな自殺したとは思えないし、それにさっきだって鉄砲の音みたいなのが聞こえたじゃないですか」
「たしかにな。…でも、僕らはここでこうやって怖がってる。それで多分、ほかのみんなも同じなんじゃないかと僕は思うんだ。きっとみんなも怖がってる。そう思わないか?」
横山は少し考え込んだ様子だったが、しばらくして言った。
「そうかもしれない。俺、自分が怖いってことばっかりで、そんなことよく考えてなかったけど」
「で、僕らは一緒にいられたからまだそうでもないけど、一人だったら、きっとものすごく怖いと思うんだ。で、そうやって怖がってる所に、もし誰かと出くわしたら、横山はどうする?」
「たぶん…逃げる。相手にもよるけど」
「もし向こうが武器を持ってて、逃げる余裕がなかったら?」
「…戦う、かもしれない。何か持ってたら投げつけるだろうし、うん、もしかしたら、鉄砲みたいなの持ってたら、もしかしたら撃つかもしれない。勿論、話はする。けど、とっさのことで、どうしようもなかったなら」
「だろう?それで僕は、本当は誰かを殺したいと思ってる人なんていないんじゃないかと思うんだ。怖いから、相手が自分を殺そうとしてると思い込むから、戦おうとするんじゃないかと思う。そうやって思い込んだら、相手が向かってこなくても自分の方から向かっていくことだってあるかもしれない。―――みんな、怖がってるだけなんじゃないかな、きっと」
横山は唇を噛み、ややあって視線をためらいがちに落とした。高橋は言葉を続けた。
「このままでいたら、僕らは死ぬ。二十四時間誰も死ななくてもルールで殺される。それで自分たちに何かできるとしたら、全員で協力して、なんとか脱出する方法を考えることだけじゃないか?きちんと話しかけたら、みんな戦うのをやめてくれる。そしたら、みんなで話し合える。とにかく、それが自分の意見。だけど、横山が反対するんなら、この話はなしだ」
横山はしばらく視線を落としたまま考え込んでいた。そしてたっぷり二分ばかり
たってから、ぽつりと口を開いた。
「俺は、建さんの言う事はとても正しいと思います。これは、俺の意見です」
高橋は笑みを返した。そうだ。やっぱり、やるべきなんだ。何も努力しないで死んでいくなんて、そんなのはごめんだ。可能性があるなら試してみよう。一緒にプレーしてきた仲間を信じたい。試して、みよう。
「でも、どうやってやるんですか?みんなに呼びかけるなんて」
高橋は道具の中にあるハンドマイクを指差した。
「あれが使えるかどうかだと思う」
横山は何度か小さく頷き、それから天井を見上げると、しばらくしてぽつりと言った。
「うまくいったら、みんなに会えますかねえ」
高橋は、頷いた。これは、いささか心から。
「うん。きっと会える」

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