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緒方孝市(背番号9)は新井たちと同じく山の中を、しかしゆっくりと歩いていた。なにせ右膝を手術したばかりで走ることは出来なかった。このまま広島に戻る事も、このチームで野球をすることもないのだとしたら足をかばうことに意味など何もない。しかし、選手会長をやったこともある。FA権を行使せず(もっとも「選手の権利は尊重すべき」というのが緒方の持論であったのだが)このチームにも残った。自分を育ててくれたのは間違いなく広島東洋カープという球団なのだ。そこでもう一度自分をアピールする、復活するんだという思いを緒方は強く持っていた。そのためには、この足の状態を悪化させることはどうしてもできなかった。
ここ数年の自分の成績を緒方はふがいなく思っていた。たしかにニュータイプの一番打者(巨人の仁志が目指しているらしいそれ)としてホームランを打ちまくった事もあった。しかし、緒方はもう一度グラウンドを思い切り走りたかった。再び盗塁王を獲りたかった。緒方が故障で戦列を離れている間に新しい投手は出てきていたし、緒方自身その投手らに対して研究はしていた。しかし、いくら研究しても足の状態がよくならなければ話にならない。走ることが自分の野球選手としての根本にあると信じていた。そして、それが出来ない今の自分は、ネームバリューはどうあれ尊敬される野球選手には到底なりえないとも思っていた。
藪の中を歩いている中で、銃声のようなものが何度か聞こえてきた。本当に銃声なのかどうかは緒方の知るところではなかったが、もしそれが本当にそうなのだとしたら―――と考えて、それを遮るように自分自身に問うた。何を考えてるんだ、チームメイトが殺人などすると思ってるのか?いくら何でも非常識だぞ。
太陽は既に姿を現していたが、木々が光を遮り薄暗い中を緒方は歩いていた。デイパックには水と食糧、方位磁針、懐中電灯、地図にペン、そして普通にゲームで使う硬球(しかもご丁寧にもそれは球団のものであり、おまけに達川のサイン入りであった。何を考えてるんだ、あのおっさんは)が入っていた。達川の言っていた武器がこのボールであるならば、これでどうやって相手と殺りあえというのか(まあ殺しあうなんて気は今のところないのだが)小一時間ほど問い詰めてやりたかった。
歩いているうちに木々の切れ目が見え、進行方向から光が差している。緒方は藪から出た。どうやら登山道に出てきたらしい。山道というわけではなく、急な傾斜の階段になっている。自分はその階段の途中に出てきたらしかった。傾斜があり木々も邪魔していないため、島の様子が一望できた。さらには一面に海が広がり、その向こうには昨日まで自分がいたはずの広島があった。なぜ自分はここにいるのだろう?早く帰ろう。妻の、娘の待つあの場所へ。
再び山中へ戻ろうと振り返って緒方は驚いた。いつからそこにいたのだろう、自分の後ろ数メートル先の藪の中に朝山東洋(背番号38)が立っていた。しかも、自分に包丁を向けて。
「う、動かないで下さい。動くと刺しますよ」
朝山の右手が震えているのが見てとれた。きっと(というか普通それが当たり前なのだが)包丁など人に向けるのは初めてなのだろう。
「いつからそこにいる?」
「気づかなかったんですか?後をつけてたんですよ、俺」
もう少し辺りに気をつかって移動すればよかったのか?いや、しかし他の選手に会いたい、話し合いたいと思っていたのもたしかだ。一人じゃどうにもならないことも二人三人集まれば何とかなるかもしれないだろう?三人寄れば文殊の知恵だったか、そう、それだ。―――今はそんな事を言っていられる状況でもないけどな。
「お前、正気か?」
「勿論じゃないですか。現にもう死んだやつだっているんだ」
朝山のその一言に緒方は耳を疑った。
「今何と言った?…死んだやつがいる?」
語気が強まる。朝山は緒方の気迫におされそうになったが、こらえて答えた。
「僕が神社から出た時に遠藤が死体になってましたよ。もうゲームは始まってるんです」
何と言う事だろう。自分が否定してきたことは既に現実となっていたのだ。もう広島東洋カープという組織は野球チームではない。殺すか殺されるかだけの、そう、殺人鬼と被害者が組織する集合体なのだ。
―――だったら―――もう自分が野球選手としてもつ自覚など何もない。目の前にいる昨日までのチームメイトを仲間だと思う必要もない。そして悲しいことではあったが、この足をかばう理由も、もはやどこにもない。
そう考えるやいなや、緒方の体が動いた。パンツの後ろポケットに入れていたサイン入りボールをつかむと朝山の顔めがけて投げた。それをよけようと朝山が顔をそむけた時、緒方は朝山めがけて駆け出し、危険を顧みずその足もとに飛び込んだ。とても美しい(こんな状況で美しいという形容をされても困る。できればその言葉は試合中につかってほしかった)飛び込みだった。まるでそこに二塁ベースがあるかのような。不意に足をとられた朝山はバランスを崩し倒れこみ、その拍子に持っていた包丁を落とした。
「ちっ」
朝山がとりあえず緒方から離れようと必死にもがくが、緒方はなかなか離れない。緒方も朝山を倒した後何発か拳をふるいたかったのだが、朝山の予想以上の抵抗にそれができぬまま、ただ離されぬようベルトに手をかけていた。
「離せ…っ!」
離せといわれて誰が離すか?俺にもお前にももう武器はないんだ。この時点で、緒方はさっきまでの思いを完全に否定しなくてはならなくなった。―――こうなってしまったら、もうあの海の向こうには戻る事もない。FA権を行使しなかったことで、結局文字どおりカープに命を捧げることになってしまったよ。それでも根っからのカープファンのお前は許してくれるよな。かわいい娘たちを頼む。さよならだ、カナコ。
もみあううちに、ふと足に伝わる感触が異なったのを感じた。どうやら自分の一歩後ろにあの急傾斜の階段があるらしい。障害物など全くない。緒方は朝山のベルトにかけていた手に最後の力をこめると、朝山を投げに出た。突然の反撃を予想しなかった朝山の体は半回転して階段に着地すると、その勢いで階段を滑り落ちた。そして、ベルトから手を離すことのなかった緒方も、朝山の体に引っ張られるような形で朝山と一緒に落ちていった。

【残り44人】

 

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