新しい出会い。この年もその季節はやってきていた。テーブルの上にはそれなりの食事と、書類の束。いつも目にしていた光景だった。ただこの年だけは―――前途ある若者の未来を保証するはずのこの書類が、この年だけはただの紙切れ同然になってしまっていたことを、少なくとも私だけは知っていた。もちろん、知っていてもそのようなことを口走ることはなかった。例年のようにここで自分に与えられた仕事は、目の前の少年と契約を結ぶこと、ただそれだけだった。
「どうした?もっと食わんのか?」
そう言葉をかけられた少年は照れくさそうに「いただきます」と言うと、テーブルの上の寿司に手をのばした。それを見る自分の笑みが、いつもと違った哀しみを帯びていることに誰も気づくことはない。
「ところで」
穏やかな笑みを浮かべたまま再び話を切り出した。
「高校生といえども、順位でおわかりいただけるように、我々は大いなる期待をよせています。即戦力とまでは言いませんが、うちの東出や河内のようにルーキーイヤーでも一軍での活躍は可能だと思うとります」
その一言に驚いたのか、少年は寿司をのどに詰まらせ咳き込んだ。差し出されたお茶を慌てて流し込む。
「落ち着いたか?」
「はい、すいません」
真っ赤な顔に苦笑いを浮かべて少年はぼそぼそと言葉を返した。―――この子は黒田や矢野に似てるな。マウンド上の姿と普段の姿がまるきり違う。
「それでだ、球団側もそれを形に表したいということでな、君の背番号に『17』を用意したんだが、受け取ってくれるかな?」
「そんないい背番号、もったいないっす」
「そうかのう?長年この仕事に携わっているが、この背番号をつけるのに十分な力をお前さんは備えてる。わしが保証しちゃるわい」
その言葉に少年は頭をかいた。横で父親が「そこまで言われてるんだから」と促す。
「…17番が重荷にならないように、一生懸命頑張ります。よろしくお願いします」
「そうか、そうか」
その言葉で、まるで孫の晴れ姿を見る祖父のような表情をうかべてみせた。
この年、背番号17は中日からトレードで移籍してきた鶴田泰がつけていた。彼も背番号を変更するような悪いシーズンではなかったはずだ。それをルーキーに渡してしまうのは、もちろんこのルーキーに対する期待感の表れも含まれていたが、もっと簡単な理由がほかにあったのだ。
『10番台の背番号をあげるなら、一番ファンに不審がられない番号じゃないか、17は』
そう、別に17じゃなくてもよかったのだ。この年エースとよばれるようになった黒田博樹の15でも、この少年があこがれていた佐々岡真司の18でも、突然ぽっと出で九勝を上げた長谷川昌幸の19でも、どれでもよかったのだ。―――背番号を背負う選手たちが巻き込まれる恐ろしいゲームの存在を、この時点で自分は既に知っていたのだから。
球団側が『17』という背番号を用意したのは紛れもない事実であった。それを告げられると同時に、そのゲームのことを知らされたのである。
「なんですか、これは。悪い冗談でしょう?」
そう質問した時の阿南準郎(球団取締役)の顔を忘れることはない―――たぶん、死ぬまで。口元に浮かんだ歪んだ笑みとは対照的な、鋭い眼光。
「…それはもう決定事項だ。二週間後、決行される」
「馬鹿を言わんでください!!」
両手で叩いたデスクが大きな音を響かせた。そしてそれ以上に大きかった、自然に出た自分の叫び声。
「そこに選手を殺す理由があるんか?潰したけりゃ、チームだけ潰せばいい。それに今年入ってくるやつらはどうするんじゃ?」
「どうしようかのう。ドミニカにでも留学させるか」
笑いとともに出されたその一言に、感情がかき乱される。机の上の両手には拳が握られている。
「そう怒るな。それに関しては話はついとる。とりあえず君らがやることは、いつもと同じだ。今はそれを言う場面ではないが」
「しかし…」
言いかけた言葉が、あるものを目にしてとまった。すっとあげられた阿南の手元には銀色の小型拳銃が握られており、その銃口はしっかりと自分に向けられている。
「とにかく、この計画に逆らったものは消えてもらう。―――なあに、球界再編の手助けができるんだ。素晴らしいことだと思わにゃいかんだろう?」
この状況で言葉など発することが出来ようか。額を流れる汗の存在を感じながら、ただ突っ立っているしかできなかった。しばらくその様子を伺った後で、阿南は拳銃をおろして言葉を続けた。
「長年スカウトをやってきたあんたが辛いのはよくわかる。しかし、このゲームを実行するのはうちだけじゃない。それだけは頭に入れておいてほしい」
阿南の言葉が一瞬理解できずに震える声で聞き返した。
「うち以外にもこのゲームを実行してるのか?どこがだ?どのチームが?」
今度は「ふふ」と笑い声を立てて阿南はこたえた。
「一番こんなことをしそうにないチームだよ。あの人気選手ばかりのドル箱球団がねえ」
「…さん、備前さん?」
自分の名を呼ばれてはっと我に返った。
「どうしました?」
「いやいや、ちょっと考え事を。困りますなあ、年を取るとつい意識がとんでしまう」
場を取り繕うその一言で、皆いっせいに笑った。これから己の身に降りかかる出来事を知ることもなく、この時は目の前の少年―――大竹寛(01年ドラフト1位)も笑っていたのだ。
あの頃のことは忘れたくても忘れられないだろう。私にも責任がないわけじゃない。こんなヤクザな世界に、私はたくさんの選手を連れてきてしまった。連れてこられなければ、彼らはきっと幸せな人生を送っていたはずだ。消えることのない罪悪感が、私にその時の記憶を忘れさせてくれないのだ―――。
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